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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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枯れた巨木

1562年夏

 側近の富士信忠から届けられた密報、そして当主・畠山義綱から届いた密書を合わせ、氏真は能登の現状を冷徹に分析していた。


 能登畠山家は、数年前から大尽と呼ばれる有力重臣たちが実権を握り、能登七人衆という重臣会議によってあらゆる政務が決定される体制となっていた。当主はあくまで飾り物。


 この現状に危機感を抱いた聡明かつ野心家な当主・義綱は、数年前、七人衆の筆頭であった温井総貞を暗殺するという強硬手段に出た。一時的に独裁権を回復したかに見えた義綱であったが、その強引な手法は遊佐氏や長氏といった他の重臣たちの激しい反発を招く結果となる。


 一度は反乱を鎮圧したものの、家臣団の心は完全に離れ、現在は面従腹背の極みにある。信忠の報告によれば、重臣たちはすでに義綱を能登から追放する計画を秘密裏に進めているという。


 義綱から届いた返信は、悲鳴に近い助け舟の要請であった。


「今すぐにでも今川の軍勢をもって助けてほしい。常に命を狙われる日々は耐え難い。だが、家臣ごときに名門畠山の実権を握らせたまま、歴史を終わらせるわけにはいかぬ。名門の保護者として、あの不届きな家臣どもを追い出してほしい。能登の領土を安堵してくれるならば、私は喜んで今川の軍門に降ろう」


 文面からは、追い詰められた当主の執念と、それゆえの独裁的なプライドが滲み出ていた。しかし、氏真はこの願いをそのまま聞き入れるつもりは毛頭なかった。



 氏真は、算盤を弾くように能登の価値を再定義していた。能登には、日本海貿易における貿易ハブとも呼べる七尾港がある。明や博多からの商船が寄港し、波が穏やかなその入り江は、今川海軍の理想的な拠点となり得る。東西の海上ルートを掌握し、軍事・経済の両面で日ノ本の半分を支配し得る価値が、そこにはあった。


「これほどの要衝を、重臣を暗殺して独裁を企てるような危うい男に任せ続けるわけにはいかぬ。手に入れるならば、今川の直轄地とせねば意味がない」


 氏真は、義綱に対し、否という明確な拒絶を含んだ返信を送った。


「能登の静謐を取り戻すための協力は惜しまない。しかし、その条件として転封は絶対である。野心ある者が要衝を治めれば、必ずや再び争いの火種となろう。もし能登を離れたくないのであれば、貴殿が速やかに隠居し、家督を嫡男殿に譲ることだ。そうすれば今川は全力で新当主を支え、名門畠山の血は末永く守られよう。そして、素晴らしい決断をした貴殿は、後世に家を救った名君としての名誉を得ることになろう」


 それは、実権を捨てて名誉を取るか、すべてを失うかの残酷な二択であった。氏真は、義綱という人間を一度でも認めてしまえば、後に必ず禍根を残すと断じていたのである。



 同時に家臣たちにも揺さぶりを掛ける必要があるだろう。仮に義綱が転封を受け入れ、今川に助けを求めたとする。しかし彼らは長年この地を実際に治めてきた者たちだ。当主が勝手に決めた服属に従うだろうか。


 当主と家臣が一体となって抗い、その先の服属とは話が違う。当主と家臣の向いてる方向が違う。それだけではなく、家臣たちも向いてる方向が違う。皆が他を蹴落とし、自らが豊かになることを考えている。


 氏真はそっと呟いた。


「能登を取るなら全員を追い出すか、自ら出て行ってもらうしかないな」


 当主の野心と、重臣の利権。複雑に絡み合う思惑に、ため息をつく。


 難攻不落の七尾城は無理な力押しをすれば数年を要するだけではなく、被害も費用も甚大になる。経済封鎖をすれば、まとまりの無い重臣たちが共通の敵の存在で一枚岩となって徹底的に抗うかもしれない。


「今はまだ、その時では無いのかもしれないな」


 能登を得る恩恵は計り知れないが、このまま戦えば失うものが大きすぎる。氏真はその計算を天秤にかけ、思案するのであった。



 松永久秀は、茶を一口すすり、揺らめく湯気の向こうに広がる畿内の地図を眺めていた。その瞳には、かつて畏敬の念すら抱いた主君・三好長慶への忠誠など、欠片も残ってはいない。


「三好という巨木も、もはや立ち枯れたか…」


 久秀は極めて合理的で打算的な男である。彼にとって忠誠とは、強き者が強きゆえに供じられる対価に過ぎない。昨年の十河一存の不審な死、そしてこの春の三好実休の戦死。三好政権を支えてきた強固な兄弟の絆は、今や見る影もなく断たれている。


 長慶は相次ぐ身内の死に憔悴し、歌を詠むだけの抜け殻と化していた。嫡男の義興もまた病がちで、次代を担う覇気はない。


 さらに、三好の権威の源泉の一つであった石山本願寺も、絶体絶命の窮地に立たされていた。昨年の石山での大虐殺により教主としての威信は地に落ち、極めつけは今川による加賀の制圧である。


 本願寺にとっての兵糧・資金の供給源であった加賀を失ったことは、彼らにとって喉元を締め上げられたも同義であった。


「信仰で腹は膨らまぬ。ならば、新たな理を与えるまでよ」


 久秀は行動を開始した。彼は本願寺内部で、宗教的情熱よりも現実の存続を重視する下間氏に対し、極秘の調略を仕掛けた。


「一度、本願寺という古びた看板を降ろさぬか。このまま三好に寄り添えば、共倒れになるのは明白。門徒の争いを止め、松永という新たな秩序の下に入れば、門徒の命と権利を保証しよう」


 現実主義者の下間刑部卿頼廉らは、久秀の提示した生存という選択肢に沈黙をもって応えた。


 さらに、久秀は三好実休を討ち取った根来衆、雑賀衆へも使者を送った。彼らの前に積まれたのは、石山の蔵に眠る莫大な黄金である。


「三好はもう終わりだ。実休を仕留めた貴殿らの武勇、儂ならば正当に評価し、この黄金をもって報いよう。これからは儂と組み、石山、そして堺の物流を支配しようではないか」


 知略の久秀、財力の下間、そして武力の根来、雑賀。この三者が手を結んだ瞬間、三好家の支配下にあった石山は、一滴の血も流れることなく松永久秀の手へと渡った。


 石山における松永家の独立。それは三好家にとって、心臓部を抉り取られるに等しい痛撃であった。


 しかし、久秀の野心はそこで止まらない。彼は即座に、東の巨頭・今川へ向けて密使を放った。


「今川殿、貴殿は利に聡いお方だ。この弾正に兵糧や、あの中毒的な洗浄力を持つ石鹸を融通してはいただけまいか。見返りに、石山・堺の港湾使用権、ならびに徴税権の一部を分かち合おう。内から私が三好を突き、外から今川が包囲すれば、三好など赤子の手をひねるように四国へ追いやることができよう」


 久秀は闇の中でほくそ笑んだ。


「ついに、ツキが回ってきた。いつまでも泥舟に乗っている趣味はない。無気力な船頭には引退してもらい、俺がこの国に新たな秩序をもたらしてやろう」



 深夜、駿府の今川館。氏真が書斎で加賀の農政に関する資料を読み耽っていると、側近の富士信忠が音もなく室内へ現れた。その顔色は、平時よりも幾分か険しい。


「殿、緊急の報せにございます。石山が…松永弾正久秀によって乗っ取られました」


 氏真は手にしていた筆を止めた。信忠の報告は、久秀が下間らと結び、石山を無血開城させたという驚くべき内容であった。本願寺の資金を使い、根来衆までもが久秀の配下に加わったという。


「…なるほど。あの男、ついに動いたか」


 氏真は椅子の背もたれに深く体を預け、思考を巡らせた。十河一存の不審な死。そして、三好実休が根来衆の銃弾に倒れた戦。それらすべてが、もし久秀の描いた絵図だったとしたら。


「左衛門尉殿の死で三好の軍事バランスを崩し、筑前守殿を根来に殺させて退路を断つ。そして私が加賀を取って一向宗を弱体化させたタイミングを、絶好の好機として利用したか。弾正は、私の動きさえも自らの計略の一部として組み込んでいたというわけか」


 氏真の背筋に、微かな戦慄が走った。これまで多くの大名や国衆と対峙してきたが、松永久秀という男の知略は異質である。三好という巨大な権力の中にいながら、その柱を一本ずつ丁寧に抜き取り、崩壊の瞬間を虎視眈々と待っていたのだ。


「三好孫次郎長慶は、もはや自分の掌の上で転がされていることにも気づいておらぬのだろうな。左京亮、弾正からの接触はあるか?」


「はっ。おそらく数日のうちに、何らかの提案が届くものと思われます」


 氏真は暗闇の先に、京の空を覆う巨大な梟の影を見た。


「武力ではなく、理と銭で支配する…。弾正もまた、私と同じ土俵で戦う男だ。だが、あやつが求めているのは秩序ではない、混沌の先にある自己の完成だ。合うことは無かろうが、貴殿の誘いがどんなものか、じっくりと算盤を弾かせてもらうとしよう」


 夏の夜風が、冷ややかな空気を運んできた。畿内の覇権を巡るゲームは、松永久秀という狂った駒の登場により、さらに予測不能な深淵へと向かおうとしていた。

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