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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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対極


 北近江の当主・浅井長政は、執務室で力なく膝をついていた。今冬、今川による経済支援を受け、飢えを凌ぐことはできた。


 しかし、春の農繁期を狙い澄ましたかのように、宿敵・六角家が大規模な侵攻を開始したのである。かつての同盟国であり、血縁の深い朝倉家に対し、長政は幾度も援軍を求めた。


 だが、六角家と盟約を結び、さらには隣接する加賀を電撃的に掌握した今川の圧倒的な威容を前に、朝倉家は消極的な支援に留まり続けた。


「六角の後ろ盾は今川…。美濃、飛騨、そして加賀。四方を今川の版図に囲まれ、これ以上抗えば近江の民は根絶やしにされよう」


 長政の脳裏には、以前、氏真から届けられた豊かさへの招待状とも言える書状の内容が去来していた。


 あの時、氏真は「民の幸せのため、ともに働かないか」と説いた。若き英傑としての誇りが、その言葉を受け入れることを拒んでいたが、もはや限界であった。長政は、ついに氏真への仲裁依頼という、浅井家としての事実上の終焉を受け入れたのである。


 駿府の氏真の元に届いた長政の使者は、沈痛な面持ちで「殿は、あの手紙のおかげで踏ん切りがついたと、寂しそうに語っておられました」と告げた。氏真は深く頷き、直ちに近江へと飛んだ。


 今川と六角。巨大な勢力が交差する近江の地に、氏真は裁定者として足を踏み入れたのである。



 氏真は、観音寺城の六角承禎・義治親子と対峙した。六角側は、今川の仲裁という名目で、北近江の領地を今川が掠め取るのではないかと強い警戒心を抱いていた。しかし、氏真が提示した条件は、彼らの予想を大きく裏切るものであった。


「浅井は、占領した北近江の地をすべて六角家へ返還いたします。そして、二度と近江の地を踏まぬことを誓わせ、今川領内へ強制的に移封させましょう」


 承禎は拍子抜けした顔で氏真を見た。


「では、今川殿は北近江の領土を望まぬと?」


「左様にございます。今川は北近江の統治には一切関与いたしませぬ。今回の戦で六角の家臣団がどれほど苦労し、汗を流したかは聞き及んでおります。彼らの労いに報いるためにも、その土地は貴殿らが治めるべきでしょう」


 氏真の言葉に、承禎は隠しきれぬ喜びを見せた。一方で、氏真はその見返りを鋭く要求した。


「土地をすべて差し出す代わりに、浅井新九郎長政殿、ならびに彼に付き従った家臣たちの命を助けていただきたい。彼らは今後、今川家が責任を持って預かり、各地に分散させて監視下に置く。二度と六角に牙を剥かぬよう、私が念書を書かせましょう」


 土地という実利を優先した承禎は、これを快諾した。この裁定を聞いた長政は、自らの命だけでなく、心中を覚悟していた家臣たちの命まで救われたことに、人目も憚らず涙を流したという。


「少将殿…。いえ、少将様。私は、貴殿のためならこの命、捧げられよう」


 長政は、今川への絶対的な忠義を誓った。武勇に優れ、義理堅いこの若き英傑を、氏真は信長の直轄軍の隊長として抜擢した。


 さらに、勇猛果敢な浅井家臣団も、その武才を殺さぬよう各地の国境警備隊へと配置した。彼らの地位は、今川領内における領管補佐の直下、すなわち武官として最上位層である。


 柴田勝家や森可成といった今川の家臣たちと肩を並べる立場を与え、彼らの自尊心を守りつつ、その力を今川の平和のために転用したのである。


 かくして、近江は再び六角家が統治することとなった。承禎と義治親子は、戦わずに北近江が戻ってきたことを、自らの威光によるものと誇示し、手元に転がってきた領土を、まるで自らの手柄のように恩着せがましく家臣たちへ与えた。


 しかし、その様子を冷ややかに見つめる六角の重臣たちがいた。


「戦に勝てたのは今川の軍事・経済支援があったればこそ。そして、土地が戻ってきたのも、今川殿が、我らの労いに報いると理を説いてくれたからではないか」


 彼らは、氏真という男の器に、畏怖と憧憬を抱き始めていた。


 銭を持ち、圧倒的な武力を持ちながら、敗軍の将の命を救い、自らは領土を求めず、ただ秩序と平和を構築する。


「自らの失敗を家臣になすりつけ、偶然戻った土地で恩を売る我らが当主とは、月と鼈よ…」


 六角領内では、今川の法や駿府の豊かさに対する羨望が、重臣たちの間に静かに、しかし確実に浸透し始めていた。


 氏真の不介入という宣言は、皮肉にも六角家を内側から空洞化させる、静かなる調略となっていたのである。



 春の夜、駿府の書斎で氏真は、側近の富士信忠からの密報を受け取っていた。それは、三好家の中枢に深く食い込んでいる松永久秀の動向に関するものであった。


「…先の十河左衛門督一存殿の死、そして三好筑前守実休殿の戦死。相次ぐ三好の柱石の崩壊は、あまりにも時期が良すぎますな」


 信忠の声は低く、慎重であった。久秀が周到に罠を仕掛け、彼らを死地へ追いやった、あるいは毒を盛ったという確証はない。


 しかし、長慶が憔悴し、判断力を失っていく中で、三好家の実権が着実に久秀の手に集約されている事実は否定できなかった。


「計算ずくか、あるいは単なる偶然を最大限に利用しているのか。どちらにせよ、あの男は梟だ。夜の闇に紛れ、三好という巨木を内側から食い散らかしている」


 氏真は、地図上の京を指先でなぞった。


 長慶という偉大な当主が崩れれば、中央は再び混沌に包まれる。その混沌を餌に成長する久秀という存在は、氏真の理による統治とは対極にある、力と謀略の象徴であった。


「引き続き注視せよ。弾正が三好を飲み込んだとしたら、京は一変する。三好の支配のように今川を受け入れることは無くなるやもしれぬ」


 信忠は音もなく退室した。春の穏やかな風の中に、忍び寄る不穏な死の香りが混じっていることを、氏真は鋭く感じ取っていた。

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