救済
1561年秋
一向宗との衝突を経て、駿府の情勢がひとまずの落ち着きを見せた頃、氏真は一人の男を私邸に呼び寄せた。元西美濃三人衆の一人にして、熱心な一向宗信者としても知られる氏家常陸介直元である。直元は、自らの信仰と、一向宗を敵視しつつある今川家への仕官という矛盾の中で、静かに、しかし揺るぎない忠誠を氏真に捧げていた。
氏真は、直元を正面に据え、茶を勧めてから穏やかに語り始めた。
「常陸介、そなたに一つ、困難な役目を頼みたい。加賀の門徒たちへ、私の言葉を届けてほしいのだ」
氏真は、今川家の統治理念を改めて明確にした。
信仰そのものを蓋することはない。しかし、その信仰を名目に他者を殺め、秩序を乱すことは断じて許さない。今川領内には、すでに多くの一向宗信者がいるが、彼らは他の宗派の民と手を取り合い、平和に暮らしている。
「加賀の民も、本質は変わらぬはずだ。生きることは罪ではない。手を取り合うことは、信仰を捨てることでも、敵に屈することでもないのだ」
氏真が直元に託した書状には、理と情が極めて緻密に織り込まれていた。
「ともに汗を流し、温かい飯を食い、清潔な寝床で眠る。そんな当たり前の暮らしを、私は加賀に提供したい。長島の門徒たちが迎えた悲劇を、私は二度と繰り返したくはないのだ。信じるなとは言わない。ただ、今川という理を頼ってみないか」
氏真は、現代の記憶にある一向一揆の凄惨な結末を思い浮かべ、それを未然に防ぐことこそが、この地における自らの義務だと確信していた。
氏真は直元の目を見つめ、問いかけた。
「常陸介、そなたは今川に降ったことを後悔しているか?」
直元は迷いなく首を振った。今川の統治下で民が潤い、信仰を保ちつつも平穏に暮らす現状を見て、後悔などあろうはずがなかった。
「ならば、そのありのままの気持ちを伝えてきてほしい。同じ仏を信じる者同士にしか通じぬ言葉がある。このまま抗い続ければ、加賀の冬は飢えと寒さで絶望の地となるだろう。だが、今川と手を取り合えば、雪に閉ざされた大地も、春を待つ豊かな里に変わる。それを説得できるのは、そなたしかいないのだ」
直元は深く頭を垂れ、主君の想いを背負って北陸へと旅立った。
氏真の狙いは、宗教的な敵対を、生存と経済の土台に引き戻すことにある。極寒の冬を前に、飢えか、あるいは今川の富か。門徒たちの心に、現実という名の種を蒔いたのである。
飛騨の平定後、氏真が最も力を注いでいたのは、この険しき山岳地帯を貫く街道の整備であった。秋風が吹き抜ける飛騨の山々では、今川の工兵隊と三木氏の旧臣たちが、汗を流して道を切り拓いていた。重機も爆薬もないこの時代、岩を砕き、谷を埋める作業は遅々として進まない。
しかし、氏真はそれを焦ることはなかった。
「もとより武力で攻め取るには難儀な土地だ。平和的に解決できたからこそ、この地道な整備にも価値がある」
美濃、信濃から飛騨へ。そして飛騨から加賀、越中へと抜けるこのルートは、今川経済圏を日本海側へと直結させる生命線となるはずであった。
氏真の次なる標的は、越中であった。越中には神保氏や椎名氏といった国衆がいるが、その多くは越後の上杉政虎の影響下にある。ここへの介入は、慎重を期さねばならない。かつて信濃の統治において、氏真は武田信玄のような武力による圧伏を避け、平和的な秩序構築を優先させた。
その過程で政虎には多くの譲歩を求めてきた経緯がある。ここで上杉と正面衝突すれば、ようやく安定した北信濃の民心は離れ、背後を脅かされることになりかねない。
そこで氏真が採った策は、領土の侵奪ではなく経済的な依存であった。
「神保殿、椎名殿。今川は越中の土地を奪うつもりはない。ただ、飛騨から抜ける街道の通行権と、今川の物産を日本海側へ捌くための港湾使用権を認めていただきたい」
氏真が提示した条件は、極めて破格であった。街道を通る荷にかかる関税や、港での税収は、すべて現地の国衆の懐に入れて構わないというのだ。
さらに、今川が誇る高品質な石鹸、火薬、そして安定した食糧を供給する。
「税はそちらで自由になされよ。我らはただ、物が動く道が欲しいだけなのだ」
この提案は、常に上杉の軍事的重圧にさらされ、財政に喘ぐ越中の国衆にとって、断り難い魅力となった。実利で彼らを縛り付けることで、上杉の軍事力よりも今川の経済力に依存する構造を作り上げる。これが氏真の描く理の支配であった。
同時に、氏真は越後の上杉政虎に対しても、懇切丁寧な書状を送った。
「これは決して越中への侵略ではない。北陸の民が冬を越すための、純然たる交易路の確保である」
義を重んじる政虎にとって、民の救済という名目は無下にはできない。氏真は算盤を弾きながら、上杉の義を利用し、越中の懐に入り込む。平和な統治を盾に、今川の黄金の道は、一歩ずつ日本海の荒波へと近づいていった。




