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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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龍王丸

1561年春

 五月十九日。皮肉にも、かつての歴史において今川義元が桶狭間の露と消えた一年後のその日、駿府の今川館は歓喜の渦に包まれていた。


 早川殿が産気づき、数時間の陣痛の後、元気な産声を上げたのである。今川家の嫡男。氏真にとって初めての子であり、運命を変える存在であった。


 義元は、生まれたばかりの孫をその逞しい腕で抱き上げた。史実であれば一年前のこの日、非業の死を遂げていたはずの男が、今は穏やかな微笑みを浮かべて孫の顔を覗き込んでいる。


「見事な赤子だ。今川の血を次代へと繋ぐ、宝よ」


 義元の言葉に、氏真の胸には熱いものがこみ上げた。名付けられた名は「龍王丸」。今川家代々の当主が幼名として用いてきた、誇り高き名である。


 氏真は、産後の疲れで眠る早川殿の傍らに座り、その柔らかな手を握った。


(現代では、結婚すらしていなかった私が、一国の主となり、人の親になるとは…)


 転生してから七年。蹴鞠と和歌に明け暮れる暗君の汚名をそそぐために奔走してきた日々が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。かつてはただの知識として持っていた戦国時代が、今は守るべき家族、守るべき民のいる現実となっていた。


 窓から差し込む五月の陽光は、一年前の雨の桶狭間とは似ても似つかぬ、穏やかで輝かしいものであった。氏真は心の中で、歴史の修正力がもたらしたこの幸福な誤算に感謝した。


「龍王丸が大人になる頃には、戦など過去の語り草にしてみせる」


 氏真は、父親としての自覚を噛み締め、決意を新たにした。


 愛する妻と、この小さな命を、そして今川の版図に生きる数多の民を守り抜くこと。そのために、自分の持つすべての知識と算盤を使い切る覚悟であった。


 歴史の転換点であったはずの五月十九日は、今川家にとって滅亡の命日から再生の誕生日へと、完全に書き換えられたのである。



 五月末、近畿から衝撃的な報せが届く。三好長慶の弟であり、「鬼十河」と恐れられた猛将・十河一存が急死したというのだ。


 死因は病死とも、あるいは松永弾正久秀らによる毒殺とも噂され、その真相は深い霧の中にある。近畿の覇者として君臨していた三好長慶は、最も信頼を置く弟の死に、深く打ちひしがれているという。


 盤石に見えた三好政権に生じた一筋の亀裂は、中央の情勢を大きく揺るがし始めていた。



1561年夏

 飛騨全域を掌握したことで、今川の経済戦略は新たな次元へと突入した。


 飛騨から産出される豊富な鉛、信濃から導入した高度な精錬技術、さらには甲斐で培われた治水技術による鉱山開発の安定化。これらに氏真が秘匿してきた今川火薬による発破技術が組み合わさることで、鉱物の採掘量は爆発的な増加を見せたのである。


 しかし、氏真はこの莫大な富をすぐさま市場に流すことはしなかった。


 今川の財政はすでに盤石であり、無理に流通量を増やせば急激なインフレを招き、経済の均衡を崩しかねないからだ。かつて武田家が陥ったような富への焦りによる失策を、氏真は最も警戒していた。


 領内では、硝石製造の副産物として得られる高品質な肥料が田畑に投じられ、米の収穫量も飛躍的に向上していた。この溢れる物資と富を背景に、氏真は次なる一手として今川貨幣の鋳造を構想し始める。


 目指すのは、金銀そのものの含有量に頼るのではなく、発行元である今川家への信用によって価値を担保する貨幣制度であった。


「小判そのものの価値を競うのではない。今川の証があるからこそ価値がある、という仕組みを作らねばならぬ」


 氏真は学問所の技術者たちに、極めて精緻な偽造防止技術の研究を命じた。


 含有率を抑えた貨幣を流通させることで、国内の貴金属資源の寿命を延ばし、海外への流出を防ぐという持続可能な経済圏の構築。本来ならば紙幣の導入まで踏み込みたいところであったが、民の理解が追いつかぬ急速な改革は拒絶反応を生む。


 氏真はあえて、焦らずという言葉を自らに言い聞かせ、百年先を見据えた通貨改革の種を静かに蒔いていった。



 衛生面においても、今川領内は他国とは一線を画していた。施薬院からの定期報告によれば、周辺諸国で猛威を振るう疫病の発生率が、今川領内では劇的に抑えられているという。


 その最大の要因は、早川殿が熱心に普及を促した石鹸の存在であった。当初は贅沢品と見られていたが、早川殿自らがその有用性を説き、清潔を保つことの重要性を広めたことで、民の間にも手洗いや洗浄の習慣が根付いたのである。


 夏のある日、氏真は日頃の感謝を込め、多忙な合間を縫って早川殿を市場へと連れ出した。駿河の海がもたらす鮮やかな海の幸、活気あふれる商人たちの声。二人は立場を忘れ、一組の夫婦として駿河の旬を堪能した。


「龍王丸が生まれてから、御前はさらに強く、美しくなりましたな」


 氏真の言葉に、早川殿は慈愛に満ちた微笑みを返した。出産という大役を終えた彼女は、以前にも増して責任感に溢れ、母としての重みをその身に宿していた。


 一方の氏真もまた、父としての情愛に惑わされる日々を送っていた。夜な夜な、龍王丸の安らかな寝顔を覗き込んでは、その愛らしさに頬を緩めてしまう。


「いかんな、寝不足を息子のせいにしては」


 苦笑しながらも、氏真の胸には確固たる決意が宿っていた。


 この子の寝顔を守ること、そしてこの子が見るであろう未来の景色を、より豊かで平和なものにすること。早川殿と龍王丸、そして領民という家族を守るために、己のやりたいことはまだ山積しているのだと、夏の風の中で改めて己に言い聞かせた。



 今川領内の人口は、氏真が制定した子宝法の影響により、爆発的な増加傾向を見せていた。


 従来の、寺社に管理されていた大まかな人別帳による把握を改め、氏真は厳格な戸籍管理を導入した。これにより、出生、死亡、移動といった人口の動静が、具体的な数字として氏真の元に集約されるようになったのである。


 政策の成果が数字で可視化されることは、氏真にとって何よりの張り合いとなった。


「感情で政を語るのは容易いが、人を真に動かし、説得するのは目に見える結果だ」


 戸籍の数字が右肩上がりに伸びていく様子は、今川の政策が民に受け入れられ、生活が安定している何よりの証左であった。


 単に民を慈しむという抽象的な理想ではなく、一人一人の命を数字として捉え、その生存率を高めるために具体的な予算と物資を投じる。この科学的ともいえる統治手法こそが、家臣団にとっても明確な指針となり、仕事への意欲を向上させていた。


 増え続ける人口は、将来的な労働力であり、兵力であり、何より巨大な消費市場の担い手となる。


 氏真は地図上の数字を見つめながら、次なる公共事業の規模を算盤で弾いた。人口増加に伴う住宅の整備、さらなる開墾、そして学び舎の増設。拡大を続ける今川の活気は、もはや周辺諸国が無視できないほどの巨大なエネルギーへと膨れ上がっていた。



 細川藤孝の尽力により、将軍・義輝の一行がついに駿府へと到着した。近江の六角家臣団である進藤山城守賢盛や後藤但馬守賢豊らも、重荷となっていた将軍の護衛から解放され、今川の寛大な処置に深く感謝する書状を送り届けてきた。


 当初、義輝は「京からさらに離れるなど武家の棟梁としてあるまじきこと」と不満を隠さなかったが、駿府の地に足を踏み入れた瞬間、その態度は一変した。


 義輝の目に飛び込んできたのは、京の荒廃とは無縁の、清潔で秩序ある都市の姿であった。行き届いた衛生管理、新鮮な魚介類が並ぶ豊かな食卓、そして民の顔に宿る溢れんばかりの活気。


「東の都は、ここ駿河にございます。文化も技術も、すでに京を凌駕しております」


 氏真は義輝に対し、恭しく、しかし自負を込めてそう告げた。


 氏真は義輝をただの客人として遇するのではなく、今川学問所の特別顧問としての役割を与えた。剣豪将軍としての武芸、そして最高位の公家文化の体現者としての知識を、今川の若者たちに伝承してほしいと頼み込んだのである。


 また、随行してきた幕臣たちにも、京の公家たちとの交流会の運営など、文化継承に関わる具体的な職務を与えた。


 駿府の安全で健康的な暮らし、そして必要とされる喜び。三好の影に怯え、権威のみを盾に虚勢を張っていた日々とは異なる、実りある生活。ここで必要とされることが、上洛という空虚な野心よりも価値があると気づかせれば良い。


 氏真は、義輝の心に、駿府こそが安住の地であるという意識を少しずつ、しかし着実に植え付けていった。


 無理に帰還を望ませるのではなく、自らの意志でこの地に留まり、今川の秩序の一部となるよう仕向ける。将軍という強力な看板を手中に収めた今川家は、名実ともに日ノ本の中枢としての地位を確立しつつあった。

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