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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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長島

1559年春

 京の公家たちは、今川の膨張に畏怖しつつも、内心では鼻息を荒くしていた。武田を瞬時に飲み込んだ軍事力は恐ろしいが、氏真が小笠原氏や村上氏といった名門を復権させたことは、旧来の秩序を重んじる彼らにとって好ましい。


 何より、今川の領地が増えることは、京への貢物がより豪華になることを意味する。「平和とは、金のかかるものよ」と笑いながら、彼らは氏真を太平をもたらす庇護者として期待し始めていた。


 対照的に、将軍・義輝の怒りは頂点に達していた。「次から次へと領土を増やすことばかり考えているのか!我を上洛させることが貴様の最も優先するべきことである!協力をしないのであれば謀反とみなすぞ」と激しく叱責。


 義輝は、今川を礼儀知らずの暗君と断じ、長尾、朝倉、六角、北畠らへの密書を準備し始める。権威を軽視する今川を、諸侯による包囲網で圧殺せんとする執念であった。


 石山本願寺もまた、激しい非難の声明を出した。仏門に入った信玄を処断し、三河・長島の門徒を武力で鎮圧した氏真に対し、民の救いの道を塞ぐ悪鬼のレッテルを貼る。


 氏真が提供する衛生と安全を、信仰を奪うための卑劣な欺瞞と呼び、全国の門徒へ向け、今川を討つことこそが真の往生であると煽動を強めた。氏真の現世の理は、彼らにとって最悪の宗教的脅威であった。



 京や石山が騒がしくなる中、氏真の視線はすでに北伊勢、そして長島へと向けられていた。 長島の一向一揆は、単なる宗教的蜂起ではない。木曽三川の複雑な水系と中州に守られた、天然の要塞である。これを武力で落とすにはあまりに犠牲が大きい。


 氏真は北伊勢の国衆たちに対し、驚くべき提案を記した直筆の書状を届けさせた。


「今川経済圏への招待、および木曽三川の抜本的な治水事業の肩代わりを提案する」


 治水は伊勢の民にとって悲願である。しかし、氏真は冷徹な条件を付け加えた。


「この事業には莫大な銭、時間、人が必要である。近くに反乱因子がいる状況では、工事を進めることはできぬ。治水を受け入れたいならば、全ての国衆が今川に付くことに同意し、一揆勢を干上がらせることに協力せよ。…邪魔者がいる限り、水は治まらぬ」


 これは、経済的利益を餌にした踏み絵であった。一揆に加担し泥水の中で生きるか、一揆を見捨て今川の法の下で渇きから解放されるか。氏真は、武力ではなくインフラで敵を孤立させる戦いを選んだ。


 この困難な交渉の窓口として、氏真は美濃から安藤守就を呼び寄せた。


「そなたは濃尾平野で川と共に生きてきた。治水の重要性と、そこに蠢く国衆の扱いを誰よりも知っている。非常に我慢強いそなたであれば、彼らの不満を飲み込み、今川の官僚組織と連携してこの巨大事業をまとめ上げられるはずだ」


 守就は、甲斐・信濃の治水担当と情報を共有しつつ、北伊勢を水の力で今川へと繋ぎ止める重責を担うこととなった。



 長島の陸路を封鎖するのは、尾張国境で圧倒的な武勇を見せた柴田勝家と森可成であった。彼らの役割は、攻め落とすことではなく呼吸を止めることにあった。


「権六、三左。貴様らの槍は今は鞘に収めておけ。だが、長島の連中が鼻先を出そうものなら、その瞬間に叩き潰せ。一歩も外へ出させるな」


 氏真の命を受けた二人は、国境沿いに堅牢な陣城を次々と築き、一分の隙もない包囲網を形成した。血気盛んな勝家は「いっそ踏み込み、根こそぎにしてくれようか」と鬼気迫る表情を見せるが、可成がそれを制する。「殿の命は干殺しだ。無駄な血は流さず、恐怖だけを植え付けろ」


 二人の猛将が放つ圧倒的な圧は、長島一揆勢に、今川の土地を踏むことすら許されない絶望を刻み込み続けた。



 陸の封鎖と同時に、氏真は海の狼をも動かした。志摩の九鬼志摩守嘉隆である。


 氏真は九鬼に対し、海上からの補給路遮断を依頼した。対価として提示したのは、今川の圧倒的な軍資金による海上支援と、宿敵・北畠氏との国境線を明確化し、争いを無くす外交的保護である。この調整役として、沿岸警備に長けた美濃領管補佐でもある朝比奈泰朝に任せた。


「備中守。九鬼の荒くれ共を今川の『海の牙』として繋ぎ止めよ。長島へ向かう一粒の米、一枚の布も通すな」


 泰朝の指揮下、九鬼水軍は伊勢湾を完全に封鎖。これにより、長島への物資供給ルートは完全に断たれた。


 氏真の狙いは、冬にあった。 春から夏にかけての物資の流入を止め、一揆勢が冬を越すための蓄えを一切させない。今川領内の商いから長島を完全に排除し、経済的に死に至らしめる無血の殲滅戦である。


「冬が来れば、彼らは信仰で腹が膨れないことを知るだろう」


 氏真の算盤は、雪が降る頃に長島が自ら崩壊する未来を弾き出していた。



 最後に、中・南伊勢の名門・北畠中納言具教に対しては、父・義元が直筆の書状を届けさせた。家格を重んじる北畠に対し、義元という格で圧をかけるためである。


「九鬼は我が今川と来る上洛のため、固き契りを結んだ。手出しは無用。万が一、九鬼の領分を侵すならば、それは今川家への宣戦布告と受け取り、当家全軍を挙げて討ち果たす所存なり」


 義元の圧倒的な官位と、武田を滅ぼした軍事力の背景。三好討伐のために必要な海軍という口実。この重すぎる警告に、北畠は九鬼への干渉を断念せざるを得なかった。


 春の陽光の下、氏真は算盤を置いた。治水という希望で北伊勢を釣り、勝家と可成の武勇で陸を塞ぎ、九鬼の船で海を閉ざす。長島という巨大な熱狂は、今川の理によって、音もなく干上がろうとしていた。


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