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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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後片付け

1559年春

 甲斐、信濃。この二国には、致命的な欠点があった。海がない。そして、大規模な稲作に向く平地が少ない。


 それゆえに、歴代の主君たちは奪うことでしか民を食わせられず、それが戦乱の火種となり続けてきた。


 だが、氏真の理は違った。


 今川の官僚たちは、甲斐の武具生産や馬の育成に力を入れ、信濃の山林資源を今川の流通網に乗せた。海がなくとも、今川の街道を通じて、駿河の塩と魚が安価に届くようになった。


「…給金が出る。食い物がある。屋根がある」


 旧武田の家臣や、誇り高い信濃の武士たちは、自問自答した。


 かつては、いつ終わるとも知れぬ戦に明け暮れ、冬が来れば家族が飢え死ぬ恐怖に震えていた。それがどうだ。今川の法に従い、領主としての野心を捨てて官僚として働く。ただそれだけで、今まで得られなかった平穏が手に入るというのだ。


「誰が、これに抗えようか」


 野心は腹を膨らませない。だが、氏真が弾く算盤の珠は、民の胃袋を確実に満たした。


 信仰や忠義といった目に見えぬ熱狂は、今川が提供する、衛生と安全という名の圧倒的な現実に、静かに飲み込まれていったのである。



 富士山本宮浅間大社。今川の危機を救った富士眼の衆や寺社勢力への感謝を込め、氏真は大規模な祭りを主催した。


「此度の勝利は神仏の加護、そして地に根付く皆様の献身あってこそ。費用はすべて今川が持つ。今日は存分に盛り上がってくれ」


 氏真の宣言に、境内は歓喜の渦に包まれた。先の新法では、寺社を敵に回すような条文もあったが、氏真の目指すべき寺社のあり方にむけて、また一歩進んだ。祭りの主催は今回限りとする一方で、来年以降も継続するなら多額の寄附を行うと約束した。


「境内に自由に店を出すがいい。ここは皆様の領地だ、場所代を取るも売るも自由。祭りで寺社の名を売り、門前を潤す…。信仰が地域の経済を回す仕組みこそが、今川の目指す形だ」


 氏真は、酒を酌み交わす民を見ながら満足げに頷いた。地に根付く寺社を豊かにし、今川の統治こそが福をもたらすと刷り込む。それは、一向一揆のような狂信を未然に防ぐ、最も強力な防波堤でもあった。



 祭りの余韻も冷めぬ中、氏真は自ら相模へと馬を飛ばした。義理の父・北条氏康と直接対峙し、新たな境界線を引くためである。


「…武田との縁はこれまで通り、関与いたしませぬ。だが、北信濃の件、これだけは譲れなかった」


 氏真の言葉に、小田原城の空気は一気に凍りついた。氏真は、北信濃を安定させる代償として、北信濃における景虎の優位を事実上認めたのである。これは北条にとって、戦略的な死刑宣告に等しかった。


 これまでは、北条が動けば景虎が南下し、それに応じて武田が北上して景虎を牽制する…という循環があった。しかし、武田が滅び、景虎が帰還する理由を冬以外に失った今、北条は常に背後から越後の龍に睨まれることになる。


「さらに申し上げねばなりませぬ。北信濃の国衆たちは景虎殿に大きな恩がある。北条が同盟国であるとはいえ、北条のために長尾に刃を向けることとなれば、たちまち信濃を二分する混乱が起きましょう。ゆえに、北条と長尾の戦において、今川から援軍を出すことはできませぬ」


 氏康の鋭い眼光が氏真を射抜く。今川の支援を失えば、北条は単独で、景虎と関東諸将という巨大な包囲網を相手にせねばならない。


「…貴様、義理の息子として筋を通しに来たというが、持ってきたのは小田原の首を絞める縄ではないか」


 氏康の低い声に、氏真は真っ直ぐに答えた。


「義父上。私は北条を守りたい。だが民を、兵を危険に晒すような真似はできませぬ。調停者として仲介することが限界でありましょう。そんな事態は訪れて欲しくないのですが...」


 非情な戦略と、家族としての情愛。氏真はその狭間で、冷徹な一線を引いた。



 駿府へ戻った氏真は、肥大化した影の整理に着手した。富士眼の衆、御器屋衆など、今川領内に点在する忍び組織を統合し、指揮系統を一元化するためである。


「情報を制する者が、算盤を制する。影が散り散りに動いては、正しい数字は出せぬ」


 氏真はこの諜報部隊の総責任者として、また、側近として富士左京亮信忠を指名した。


「左京亮、そなたに今川の目と耳をすべて預ける。諜報、工作、情報の精査…。今後はすべてそなたを通して私に届けよ」


 信忠は静かに平伏した。これにより、今川の忍びは単なる暗殺集団から、国家規模の情報局へと昇華した。各地の商人の動きから農作物の収穫予想まで、あらゆる情報が信忠の手を経て、氏真の算盤へと集約される仕組みが完成したのである。



 そして、今川に送られていた武田・真田の間者たちも、それぞれの故郷へと戻る日が来た。源五郎をはじめとする彼らは、もはやかつてのスパイではない。


「お前たちは、今川の豊かさと法を、その目で、肌で見てきたはずだ。甲斐や信濃の民に伝えてやれ。略奪せずとも食える世があるのだと」


 源五郎たちは、氏真の圧倒的な統治を間近で学んだ。土地の地勢を知り、今川の法を理解した彼らは、これからは甲信を今川のシステムに繋ぎ止めるための架け橋として機能することになる。


「殿、必ずや。甲信の民を、この光の届く場所へ導いてみせます」


 源五郎の瞳には、かつての迷いはなかった。彼らが故郷へ戻ることは、今川の理が山を越え、浸透していくための最後の一手であった。


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