甲信越
1559年春
今川館の広間。そこには、切腹した父・信玄の後を継ぎ、新しき武田の当主となった武田義信が、平伏していた。かつての誇り高い猛将の面影は消え、ただ一族を破滅させた重圧に耐える若者の姿があった。
「太郎殿。顔を上げられよ」
氏真の声は、突き放すようでもあり、慈悲深くもあった。義信が恐る恐る顔を上げると、そこには自分を見下ろす支配者ではなく、一枚の図面を広げた経営者の姿があった。
「本日より、貴殿を『甲斐領管補佐』に命じる。武田の家名は、貴殿が継ぐが良い。領管には我が弟の今川助五郎氏規を命じた。甲斐はもはや武田の私領ではない。今川の官僚組織が管理し、今川の法が隅々まで行き渡る、実質的な直轄領だ」
氏真は言葉を継ぐ。
「信玄公が犯した最大の過ちは、民に戦い続けなければ食えぬと思わせたことだ。貴殿に課す義務はただ一つ。残された家臣と共に、今川の法の下、甲斐を豊かにし、民の腹を満たせ。民が、今川の世になって良かったと笑う時、貴殿はようやく、父上が散らせた命への償いを果たしたことになる」
義信は震える声で「ははっ」と応じた。
「助五郎よ。そなたは私の側で政を学んだはずだ。今川の法を熟知しているだろう。次はそなた自身の手で甲斐の民を富ませ、太郎殿を支えるのだ。頼んだぞ」
氏規はどことなく緊張した様子で「はっ」と応えた。
甲斐は、弟の今川氏規に任された。彼は小姓として氏真を間近で見てきた人間である。さらに氏真の息がかかった能吏たちが次々と送り込まれた。彼らが持ち込んだのは、刀ではなく、測量のための鎖と、徴税を平準化するための計算尺であった。武田の旧家臣たちは、当初はわずかに反発したものの、自分たちにも安定した給金が支払われ、家族の食卓に白い米が並ぶのを見るにつれ、その声は急速に萎んでいった。
信濃の地は、さらに複雑な再編が求められていた。
武田に追われていた小笠原氏、村上氏、高梨氏といった旧領主たちが、一斉に氏真の下へ詰め寄っていたからだ。
「小笠原氏を国司とし、村上、高梨の旧領復帰も認める。国司任命については朝廷に伺いを立てるが、まずは自称するといい」
氏真の裁定に、広間は歓喜に包まれた。だが、氏真の言葉には続きがあった。
「ただし、信濃もまた甲斐と同様、今川の官僚組織が実務を握る。そなたらは領主ではなく、今川の法を執行する者としての自覚を持て。この条件を飲めぬ者は、二度と信濃の土は踏ませぬ」
そして氏真は、この荒れた大地の統治を任せるべく、一人の男を前に呼び出した。今回の戦で凄まじい防衛線を見せた名将、岡部元信である。
「丹後守。其方を信濃の領管として送る。皆を正しく導く者として差配せよ」
元信は驚き、一瞬言葉を失った。駿河を離れることは、故郷を捨てるにも等しい重圧だ。
「殿…。私のような無骨者に、そのような大役が…」
「そなたであれば、困難な仕事も任せられる。荒れた信濃には、力だけでなく、民に寄り添う導き手が必要なのだ。家のことは私がしっかり守る。…頼むぞ」
氏真の信頼に、元信は深く頭を垂れた。
その元信の傍らには、信濃の国衆との橋渡し役として、真田幸隆が配された。源五郎の活躍を高く評価した氏真は、真田家に中信濃での所領を安堵し、離反しやすい地元の武士たちをまとめ上げる楔の役割を期待したのである。
信濃・越後国境付近の陣所。そこには、越後の龍・長尾景虎が、泰然自若として座していた。その傍らには、旧領復帰を許された小笠原、村上、高梨の面々が、景虎への感謝と、故郷へ戻れる喜びの板挟みになりながら並んでいる。彼らにとって、景虎は窮地を救ってくれた神仏にも等しい存在であり、その下を離れるのは本来、不義理なことでもあった。
氏真は、景虎の前に進み出ると、深々と頭を下げた。
「弾正様。長きにわたり、信濃の諸将を保護してくださったこと、そして此度の戦での多大なるお力添え、今川を代表して心より感謝申し上げます。…彼らがこうして再び故郷の土を踏めるのは、ひとえに弾正様の義があったからこそ。それを横から奪うような形となり、誠に申し訳なく存じます」
氏真の言葉は、単なる社交辞令ではなく、景虎という男の生き様への真摯な敬意であった。景虎は盃を置き、不敵に、しかしどこか満足げに笑った。
「治部大輔殿。…ふん、相変わらず丁寧な男よな。私は、彼らが武田に追われ、行き場を失うのが忍びなかったゆえ、義を振るったまでだ。彼らが己の土地へ戻り、その地が安寧に包まれるというのなら、越後で養い続ける手間が省けるというもの。礼を言われる筋合いはない」
景虎は立ち上がり、小笠原たちを見下ろした。
「そなたら、治部大輔殿はこう言っている。…行きたければ行くが良い。そなたらの故郷を奪った虎はもうおらぬ。これからは、この治部大輔殿の算盤と法に守られ、家族を養うが良い。…ただし、一度背中を見せたからには、二度と不義理を働くなよ。次は私が容赦せぬぞ」
景虎の偉そうな―いや、圧倒的な強者の器ゆえの放免。小笠原たちは涙を流して景虎に感謝し、新たな主君となる今川の列に加わった。
氏真は、景虎に対し、最高級の今川の酒と、越後の厳しい冬を和らげるための清潔な衣類、そして駿河の特産品を山積みにした。
「弾正様。これは礼ではございませぬ。私からの交誼の証にございます。貴殿が守った彼らを、今度は私が、飢えも寒さもない世で守り抜くことを約束いたします」
そして景虎が重要視していた善光寺について触れた。
「それと、弾正様。弾正様は善光寺の如来様への敬意が人一倍お強いと伺いました。川中島での戦いの際は、本尊を戦火から遠ざけようとされたとか。もし弾正様がよろしければ、本尊を越後に持ち帰られてはいかがですか?信濃の善光寺も当然厚く庇護いたしますが、長きに渡る戦で荒れております。修復には時を要します。どうか大切にお祀りしていただけないでしょうか」
景虎は絶句し目を見開いた。
「真に、よろしいのか?この弾正、不覚にも目頭が熱くなった。戦火に怯える如来様を救わねばとの一心であったが…。承知した。修復までと言わず、末永く越後の地でお守りいたそう。すべて任せるが良い」
「弾正様のような方にお守りいただけるとのこと、これ以上なき安心にございます。私のこの想い、弾正様にはおわかりいただけると思っておりました」
景虎は、贈られた酒を一口飲み、豪快に笑った。
「うむ。当然のことだ。今後とも厚き関係を築きたいものだ。よろしく頼む」
景虎は颯爽と馬に跨り、円満に今川の頼もしき盟友としての地位を確立し、越後へと帰っていった。




