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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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1559年冬

 領内のとある寺の境内。そこは、甲斐の峻険な山々を抜けてきた者にとって、あまりに穏やかな場所であった。


 早春の温かな日差しが降り注ぎ、潮の香りを孕んだ風が、木々の間を抜けていく。


 そこに、一人の男が座していた。武田信玄。かつて日ノ本を震撼させた甲斐の虎は、今、泥に汚れた具足を脱ぎ捨て、白い死装束を纏っている。彼の瞳の先には、キラキラと輝く駿河の海が見えていた。


「…これが、海か」


 信玄が低く、掠れた声で呟く。彼がその生涯を賭けて、喉から手が出るほど欲した塩の道、交易の門。それが今、自らの命が尽きる直前に、ようやくその瞳の中に収まっていた。


「左様にございます。これが、信玄公が求めた駿河の海にございます」


 背後から声をかけたのは、氏真であった。彼は一国の主としての威厳を纏いながらも、その瞳には一人の人間としての深い悲哀を湛えていた。氏真は、静かに信玄の前に座った。


「信玄公。私は、貴殿を許さない」


 氏真の言葉は冷徹であった。


「貴殿は、神仏の名を借りて民を唆した。戦国という乱世において、自分の欲や野心のために、どれほど多くの無関係な民の命を散らせたか。飢えや願いを、ただの駒として蔑ろにした。それは、私が目指す理の世において、到底許されることではない」


 信玄は何も言わず、ただ海を見つめている。氏真は言葉を続けた。


「…しかし。信玄公もまた、欲と飢えに負けた人間であったことも理解している。人間、誰しも腹を満たしたい。寒さに震えず、清潔な場所で眠りたい。隣国がその豊かさを享受していれば、それを欲するのは人の情だ。ましてや、民を預かる主君であれば、その渇望は耐え難いものであったろう。貴殿が私を攻めたのは、ある意味で、民を想うがゆえの飢えであったのやもしれぬ」


 氏真は、傍らに用意させていた茶道具を取り出した。


「安心してくれ。貴殿が手に入れられなかった豊かさは、私が責任を持って甲斐と信濃に届ける。誰一人として、冬の寒さで心が打ち砕かれるような思いはさせぬ。民を守り、武田の家名を守る。…それが、貴殿を討った私の、最後で最大の責任だ」


 氏真は、自ら茶を点て、信玄の前に差し出した。


「最後だ。言い残すことはあるか」


 信玄は、震える手で茶碗を受け取った。温かな湯気が、彼のやつれた顔を包む。一口啜り、彼は満足げに目を細めた。


「…民を、頼んだ」


「うむ。任せておけ」


 氏真は立ち上がり、周囲を囲む家臣たち、そして門前に集まった民たちに向けて、声を限りに宣言した。


「皆の者、聞け! 武田信玄公は、武においては我らに敗れたが、その志、その民を想う心においては、稀代の名君であった! 我ら今川は、この偉大なる先達の魂を刻み、これより甲斐・信濃を今川の法のもと、日ノ本一の沃野へと変えることを誓う!」


 その言葉を合図に、信玄は静かに目を閉じ、切腹の座に就いた。


 一滴の血が白い布を染めた時、武田の時代は終わり、今川氏真という一人の男が、情と理を併せ持つ真の統治者として覚醒した瞬間でもあった。


 信玄の首は、氏真の命により、丁重に清められた。そして、大量の白い塩と、透き通った米と共に、甲斐へと送り届けられた。それは、武田が最も欲し、最も得られなかった救済そのものであった。




 戦が終わり、駿府の館に静寂が戻った頃。


 氏真と義元は、奥の間へと足を運んだ。そこには、二人の女性が、死を覚悟した表情で平伏していた。


 氏真の母であり、信玄の妹である定恵院。


 そして、氏真の妹であり、義信の妻である嶺松院。


「兄が、武田の当主が犯した罪は、もはや取り返しがつきませぬ。武田の血を引く者として、万死に値する失態…。どのような沙汰も、甘んじて受け入れます」


 定恵院が震える声で言い、床に額を擦りつけた。嶺松院もまた、涙を堪えながら隣で土下座している。彼女たちにとって、実家の裏切りは自らの死を意味していた。


「母上、妹よ。顔を上げてください」


 氏真は、素早く駆け寄り、二人の肩を優しく抱き上げた。その手は温かく、力強かった。


「信玄公のしたことは、確かに許されることではありません。ですが、それは信玄公個人の業。お二人が責を負う必要など、どこにもないのです。…それに、太郎殿は武田家を救うために命を懸けました。その忠義、今川は決して忘れません」


 氏真は、嶺松院の目を見つめて、穏やかに告げた。


「太郎殿は、今川の法の下、甲斐の領管補佐として任命いたします。妹よ、貴女はすぐに甲斐へ戻り、太郎殿を支えてあげなさい。…武田の家名は、今川の法と共にある限り守られます。何も心配することはありません」


 定恵院と嶺松院の瞳から、堰を切ったように涙が溢れ出した。それは、死の恐怖から解放された安堵ではなく、氏真という男が、血の繋がりを超えた信義と法で自分たちを包み込んでくれたことへの、深い感動の涙であった。


「五郎…。其方は、本当に強く、優しくなった」


 定恵院が呟いた。氏真は、静かに頷いた。


「私は、算盤だけで世は救えぬことを学びました。これからは、武田の民も、今川の民も、皆が私の家族です。さあ、顔を上げてください。これから、甲斐を日本一豊かな国にする忙しい日々が始まるのですから」


 窓の外では、春を告げる鶯の鳴き声が響いていた。


 武田という敵は消え、今川という巨大な理の中に、新しい武田の形が刻み込まれようとしていた。

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