山の恵
1559年夏
「山は不毛ではない。使い道を知らぬ者が、山を貧しいと思い込むだけだ」
氏真がまず目をつけたのは、甲斐の山々から産出される水晶であった。これまで宗教的な数珠の材料や、素朴な飾り物として扱われていた原石に、氏真は付加価値という魔法をかける。熱田や駿河から、研磨と装飾に長けた熟練の金工や石細工師を呼び寄せた。
彼らに命じたのは、単なる石の加工ではない。
「水晶を宝石へと昇華させよ。金銀と組み合わせ、京の公家が喉から手が出るほど欲しがる名物とするのだ」
磨き上げられた水晶は、夏の陽光を浴びて涼やかに、そして妖艶に輝いた。完成した品を、氏真は京の有力な公家たちへ惜しみなく配った。
流行の源泉である都で甲斐の水晶が話題になれば、それは瞬く間に日ノ本一の嗜好品へと成長する。名声は欲望を呼び、欲望は金を呼ぶ。
氏真は、物理的な力ではなく美という概念を用いて、甲斐の山を金山以上の価値を持つ宝庫へと塗り替えていった。
一方、信濃の広大な大地では、今川の絹の戦略が実行に移されていた。 駿河では農民の副業として奨励されていた養蚕だが、氏真は信濃の冷涼で乾燥した気候こそが、高品質な絹を産み出す最適地であると見抜いた。
「信濃の至る所に桑を植えよ。繭の増産は、単なる衣類の自給自足に留まらぬ。明との交易における最強の通貨となるのだ」
氏真は、信濃の全域で養蚕を大々的に行わせた。かつて武田の兵として駆り出されていた農民たちは、今は桑の葉を摘み、蚕の世話に没頭している。戦火に怯えるのではなく、自分たちの手から生み出される絹が、家族の腹を肥やし、冬を越すための暖かな家を築く原資となる。
信濃の村々に響く糸車の音は、平和への祈りであると同時に、今川という巨大な経済圏が脈動する音でもあった。
甲斐・信濃の大部分を占める山に対し、氏真は敬意を持って接した。
「山は山菜の宝庫であり、それ以上に薬草の宝庫だ」
氏真は、信濃南部に大規模な製薬局を建設させた。
今川が誇る福祉の拠点、施薬院と連携し、山から採れる無数の薬草を科学的な知見で加工・製薬する。
ここで作られるのは、民の病を癒やす薬だけではない。軍に常備する傷薬、気付け薬、そして過酷な行軍に耐えうる栄養補助の類まで、一手に引き受ける。
「兵が健康であれば、無駄な損耗は減る。民が健やかであれば、国力は安定する。薬は算盤を支える土台なのだ」
南信濃で作られた薬は、街道を通じて駿河、三河、尾張、美濃へと運ばれていく。医療という名の慈悲は、今川の統治に対する民の信頼を、何よりも強固なものにしていった。
北信濃の深い森には、別の使命が与えられた。
「木を切り、ただの薪にするのは愚策である。木材を規格化して供給せよ」
氏真は、林業を高度な製造業の一部として位置づけた。
銃身を支える銃床に適した堅牢な木材、あるいは今川の急激な都市開発を支えるための建材。これらを一定の寸法で加工した状態で供給させるシステムを構築した。
北信濃の巨木は、今川の職人たちの手によって、街道の橋梁や、治水工事の杭、そして薪や炭となる。森をただ放置するのではなく、計画的に伐採し、植林する。氏真の頭の中には、百年後の山河の姿すら描き出されていた。
食の面でも、氏真の発想は止まることを知らない。甲斐の葡萄には、新たに棚栽培を導入した。
「葡萄を地に這わせてはならぬ。風を通し、日光を均等に浴びせるのだ」
収穫量は飛躍的に増加し、それは干し葡萄として長期保存可能な陣中食となる。
しかし、氏真の真の狙いはその先にある。
「南蛮の『わいん』という酒を作ってみせよ。私はあまり酒を好まぬが、新しい酒には必ずや底知れぬ需要がある。これは新たな挑戦だ」
さらに、信濃の蕎麦粉にも変革を求めた。当時の主流は粉を練っただけのそばがきであったが、氏真はこれを薄く延ばし、細長く切るように命じた。
「蕎麦は啜って食うものだ。これならば忙しい職人や兵も手軽に、かつ喉越し良く食えよう。名は、蕎麦切りと呼ぶのはどうだろうか」
初めて供された蕎麦切りを啜った家臣たちは、その食感と風味に驚愕した。食の多様化は、民の満足度を高め、今川の文化的な先進性を象徴する一助となった。
そして、誰もが期待した武田の遺産金山に対し、氏真は意外な決断を下した。
「掘りすぎるな。今の技術では、土の中に眠る金の半分も取り出せず、無駄が多すぎる。金は有限なのだ」
家臣たちの困惑を余所に、氏真は精錬技術の研究に注力させた。
「他の今川領の金山と同様に、技術レベルが上がるまでは、金山は今川の貯金として眠らせておく。本格的に取り始めるのは、算盤の精度がもう一段上がった後でよい」
短期的な富よりも、将来の国益を重んじる。
資源の保存という概念は、当時の戦国大名には理解し難いものであったが、氏真には確信があった。枯渇せぬ富こそが、今川を不滅のものにすると。
産業の芽吹きを支えるのは、氏真が推し進める制度という背骨であった。甲信全域に街道を張り巡らせ、河川の治水を急がせる。物流を止めぬための楽市楽座を宣言し、既得権益を排して自由な商いを奨励した。
そして、最も困難で、最も重要な兵農分離。
「農民は土を耕し、武士は法を守る。これを焦らず、しかし確実に進めていく」
夏の盛りが過ぎ、涼やかな夕風が甲府の館を吹き抜ける。 氏真は、窓の外に広がる豊穣な山河を眺め、静かに算盤を置いた。
産業が民を潤し、食が心を落ち着かせ、法が安全を守る。かつての暗君が弾く算盤の音は、今やこの国を救うための慈悲の響きとなって、甲斐・信濃の隅々にまで染み渡っていた。
早川殿:増えた侍女と女の仕事
かつて武田家が勢力を広げ、支配をしていた甲斐と信濃の地が、殿のご活躍により今川領へと組み込まれました。
お義母様のご実家でもある甲斐と信濃は義妹の嫁ぎ先でもあります。本来であれば、侍女の配置や序列、大いに頭を悩ませる出来事です。
ですが、殿の発案により、今川館には侍女は二十もおりません。以前私が、侍女達のことを殿にお話しした時に、「侍女改革だ」と仰って、侍女の数を大きく減らしました。館に居た侍女達は、暇を与えたわけではなく、各地の領管の屋敷や、重臣の屋敷の侍女頭となり、今川での振る舞いを指導いたします。また多くの侍女が女学校に通い、修練を積み、そうして各地で選ばれた精鋭が駿府の館での働きを許されるという仕組みになっております。
これにより、甲斐と信濃から送られてきた侍女はわずか二人。一国一人という狭き門を潜り抜けた、歴戦の侍女です。私が教えるべきことなど、もはやほとんどありません。選ばれし今川館の侍女という名誉、そして侍女とは到底思えぬ高い給金。名実ともに得られる立場を、つまらぬ女の諍いなどで失うような真似は出来ません。
殿が恐れたのは、女同士の諍いで、家中が荒れることです。実際以前は私が揉め事の仲裁を行うことも多くありました。ですが、現在はここではそのようなことは起こりません。本日はお二人を迎え入れる歓迎会です。
そんなことを考えていたら、お見えになったようです。
「ようこそおいでくださいました。貴女方はともに今川の奥を支える、選ばれし方々です。実家を離れ、慣れぬところで暮らす苦労は、私もよく存じております。ぜひ悩みや心配事があれば、遠慮なく私に仰ってください。私たちは同志です。手を取り合い、助け合いましょう」
お二人にはまずは旅の疲れを癒してもらはなくてはなりませんね。よく晴れた夏の日に頼もしいお仲間が加わりました。




