心
1558年冬
三河・岡崎城。凍てつく板間に座る元信の前には、苦渋の表情を浮かべる家臣たちが並んでいた。彼らの中にも、先祖代々の一向宗門徒である者が多くいる。今川の新法が寺社の権益を削るたび、彼らの心には主君への忠義と阿弥陀仏への信仰という、鋭い楔が打ち込まれていた。
(…この者たちを、どう導けばよい)
元信は自問する。力で抑えれば、三河武士の魂は反発し、一揆の炎はさらに燃え広がるだろう。だが、今川の理を疎かにすれば、三河の近代化は止まり、再び戦乱の荒野へと逆戻りする。
ふと、駿府で見た氏真の背中が脳裏をよぎった。氏真は、寺社の代表を冷徹にやり込めつつも、その実、民の生きる権利を誰よりも守ろうとしていた。
「皆の者、面を上げよ」
元信の声は、冬の空気を震わせるほど静かで、温かかった。
「…そなたたちが一向宗を信じる心を、私は否定せぬ。そして、どちらかを選べとも言わぬ。信仰は魂の救いであり、忠義はこの世を共に生きるための契りだ。…殿が法を定めたのは、寺を壊すためではない。そなたたちの家族を飢えさせず、病から守り、誰もが明日の実りを信じられる世を作るためだ」
元信は一人一人の目を見つめ、語りかける。
「私は、其方らと共に豊かになりたいのだ。信仰が違えど、愛する家族を、故郷を守りたいという想いは変わらぬはず。…その想いが、罪なき民を傷つける刃に変わることだけは、あってはならない。われらの殿を信じよう。あのお方の弾く算盤の音は、必ずや其方らにも、雪解けのような明るい未来を運んでくる。…信じてはくれぬか」
家臣たちの瞳に、戸惑いと共に小さな光が灯る。元信の誠実さは、冷徹な法に血を通わせ、三河武士の頑なな心を少しずつ溶かし始めていた。
一方、駿府。小姓として氏真に仕える真田源五郎は、深夜の城下を見下ろしていた。
(三河の暴動で、治部大輔様はひどく心を痛めておられた…)
源五郎は、氏真の甘さとも取れる優しさを反芻する。犠牲になったのは、たった三人の民だ。一向宗という巨大な熱狂を相手にして、その程度の犠牲で抑え込んでいるのは、兵法からすれば空前絶後の大成功と言える。だというのに、氏真は満足などしていなかった。
「…あの人は、どこまで自分に厳しく、どこまで民に優しいのだ」
源五郎は溜息を吐き、外の景色に目をやった。駿河の夜は、長い。驚くべきことに、街のあちこちで灯火が揺れている。領内で菜種油の生産が組織化され、安価に流通しているからだ。夜更けだというのに、遠くから鍛冶の音が響き、家々からは楽しげな団らんの声が漏れてくる。
女が一人で夜道を歩ける。そんな光景、今川領以外の日ノ本のどこにあるだろうか。源五郎の故郷、信濃の冬を思い出す。雪に閉ざされ、蓄えを食いつなぎ、飢えを凌ぐために略奪を繰り返す。冬を越せるかどうかに怯え、死が日常茶飯事だった世界。
(勝てるわけがない。…敵うはずがないのだ)
源五郎は、自身の内にあった武田への忠義が、今川の圧倒的な文明の前に粉砕されるのを感じていた。晴信がどれほど優れた兵法家であろうと、この豊かさ、この夜の明るさには勝てない。領地が逆であっても、この差は埋まらない。これは、生きるための理そのものが違うのだ。
「…治部大輔様は、私が武田の間者であることに気づいておられる。その上で、隠すことなく今川の富を、技術を教えてくださる。それが民の救いになるならば、盗んでいくが良いと仰るように」
源五郎は拳を握りしめた。 真田家は武田に恩がある。だが、沈みゆく船と心中させるわけにはいかない。
「…私は、もう迷わない。真田を、そしてこの光を日ノ本に広めようとする我が『殿』を、守るために戦う。父上へ報せねばならぬ。…武田の時代は終わった。これからは、算盤と光の時代だと」
源五郎の瞳には、かつての諜報員としての冷たさは消え、新しい世界を築こうとする革命児の情熱が宿っていた。




