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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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感謝と疑心

1558年秋

 三河での暴動を受け、氏真は松平元信を呼び寄せた。


「次郎三郎、三河の守りはすべて任せる。一向宗の動きは単なる信仰の暴発ではない。武田や本願寺による情報の侵食だ。民の見守りを強化し、今川の法に従う者が不当に傷つけられぬよう、昼夜を問わず巡回せよ」


「はっ。命に代えても三河の平穏を保ちましょう」


 元信の瞳には、かつての迷いはない。同時に、氏真は尾張西部の直轄軍にも厳命を下した。長島の一向宗と接するこの地は、三河と同様の工作を受ける可能性が極めて高い。


「直轄軍は、もはや単なる戦の道具ではない。領内の安全を守る国境警備隊としての自覚を持て。怪しき者は即座に捕らえよ。ただし、民に威圧感を与えるのではなく、今川の兵がいれば夜も安心して眠れると思わせるのだ」


 氏真の狙いは、軍を破壊の象徴から秩序の守護者へと定義し直すことにあった。



 秋風が心地よいある日、相模から派遣されていた井伊直盛率いる二千の直轄軍が駿府へ帰還した。その行軍は、一糸乱れぬ歩調を刻み、兵たちの具足は砂塵を被りながらも鈍い輝きを放っていた。


「殿、ただいま戻りました」


 直盛の報告は、氏真の顔を綻ばせるに十分なものであった。氏康からの親書には、今川兵への驚愕と感謝が溢れんばかりに綴られていた。


「今川の兵たちは、戦場においても、あるいは小田原の城下においても、酒に溺れず、掠奪をせず、常に隊列を崩さず、その規律の高さは相模の武者たちの度肝を抜いた。治部大輔、貴殿が作り上げたこの軍勢こそ、日ノ本の新しい形であると確信した」


 氏康が最も驚いたのは、兵らの身だしなみであったという。彼らは毎日体を拭き、整然と配給された食事を摂り、武器の整備を日課としてこなす。彼ら全員が熟練兵のようだと評した。


 氏真は、この直轄軍の運用をさらに柔軟に体系化した。大将格には、直盛のような理知的な将だけでなく、柴田勝家のような猛将たちも配置する。戦の規模や性質に応じ、分隊を組み替え、必要な場所へ必要な数だけ投入する変動式軍制の完成である。単なる寄せ集めではない。自由に組み替えられる備である。


「大儀であった。戦がない時は、その練度をもって国境を警備し、災害があれば民を救え。そなたらは、今川の盾であり、正義そのものなのだ」


 氏真の言葉に、兵たちは誇らしげに胸を張った。同時に、小田原から届けられた特産品―干物や梅干し、そして美しい寄木細工の箱―が披露された。


「まあ、これは見事な細工ですこと」


 早川殿は、箱を手に取り、少女のように目を輝かせた。


「殿、父も大変喜んでおられたのですね。北条と今川の絆が、このような美しい品となって届くのは、誠に嬉しいことです」


 戦なき世を支えるのは、恐怖ではなく、こうした感謝と信頼のやり取りなのだと、氏真は改めて実感した。



 華やかな帰還の祝宴の裏で、氏真は一通の密書を握りしめていた。甲斐へ嫁いだ妹、嶺松院からの手紙である。そこには、武田家内部で急速に進むひび割れの様子が赤裸々に綴られていた。


「兄上、武田の民のために米と塩をありがとうございました。夫・太郎は、届いた白い塩を手に、これほどまでに民を想ってくれる兄上がいることを、涙を浮かべて喜んでおりました。おかげで、多くの民がこの冬を越せると希望を抱いております」


 だが、手紙の後半は、不穏な影に包まれていた。


「されど、館の空気は重く沈んでおります。義父は今川の好意を毒と呼び、夫を今川に魂を売ったと公然と罵るようになりました。最近では、家臣たちの間でも義父派と夫派が真っ二つに割れ、互いに疑心暗鬼に陥っております。…兄上、私の身辺にも、いつになく殺気立った視線を感じるようになりました。どうか、そちらもお気をつけくださいませ」


 氏真は、窓の外の暮れゆく空を見つめた。 今川の豊かさという名の毒は、予想以上の速さで武田の根幹を腐らせ、父子の絆を切り裂いている。それは戦略としては大成功であったが、その板挟みになっているのは、愛する妹と、今川の理を信じようとした義信なのだ。


「…十兵衛」


 氏真は、影のように控えていた光秀を呼んだ。


「武田の家中、そろそろ限界かもしれぬ。妹と太郎が危うい。隠密をさらに潜り込ませ、いざという時には妹を強引にでも連れ戻す手筈を整えよ。…大膳大夫殿、貴殿が我が妹を盾にするというなら、私は算盤を捨て、全力で貴殿を潰しにかかるぞ」


 秋の夜長。氏真は、妹の手紙を蝋燭の火にくべた。 燃え上がる炎は、かつての優しい兄の顔を、冷徹な統治者のそれへと変えていた。 武田の崩壊は近い。だがその前に、三河での一向宗による最後の大規模な足掻きが、冬と共にやってこようとしていた。

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