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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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後悔

1558年夏

 駿府の涼風に吹かれながら、氏真は光秀と共に、武田領内での混乱の報告を聞いていた。


「…殿、恐ろしいお方だ。米と塩だけで、あの甲斐の虎の親子をここまで追い詰めるとは」


 光秀が感嘆とも畏怖とも取れる溜息を吐いた。


「十兵衛、人は正論では動かぬ。だが、胃袋と失いたくない生活には勝てぬのだ。晴信殿がどれほど武威を誇ろうと、民が今川の米を喰らっている限り、武田は私に勝つことはできない」


 氏真は、窓の外に広がる豊かな領地を見つめた。今川の経済圏は、今や東海を越え、甲斐の深奥にまで浸透し始めている。 武力による征服ではなく、今川がいなくては生きていけない世界の構築。それこそが、氏真が目指す戦なき世の正体であった。


 氏真は、次の指示書に筆を走らせた。夏の日差しは依然として強かったが、氏真の心は冬の氷のように冷静に、次の獲物を定め、その価値を計算し始めていた。



 三河・岡崎周辺。今川の新法に基づき、低利貸付を行う直営貸金所や、薬を無償で提供する施薬院が幾つも設置されていた。民の暮らしを劇的に改善するはずのそれらの施設が、この夏、相次いで標的となったのである。


 ある夜には、施薬院の倉庫が放火され、貴重な薬草が灰になった。またある昼下がりには、今川の低利子に救われた農民が、一向宗の熱狂的な門徒たちに「仏敵に魂を売った」と罵られ、集団で暴行を受けるという事件が起きた。


 そして最悪の事件は、三河の小さな宿場町で起きた。今川の人別帳の整備に協力していた庄屋の屋敷に、一向宗を名乗る浪人たちが乱入。騒ぎに巻き込まれた近隣の民、三名が命を落としたのである。その中には、新法で支給された子宝米を受け取りに来ていた若い母親も含まれていた。


 報告を受けた氏真は、駿府の書斎で筆を止めた。光秀が差し出した被害状況の書状が、僅かに震える氏真の指先で音を立てる。


「…武田、あるいは本願寺の仕業か」


「左様にございます。捕らえた浪人の懐からは、甲斐で作られたと思われる金粒と、一向宗の守護札が出てまいりました。彼らは民の間に潜み、今川の法は魂を帳簿で縛る悪魔の理であると説いて回っております。民の不安を煽り、暴動の火種を蒔いているのです」


 光秀の声は冷静であったが、氏真の胸中には、それまで味わったことのない黒い感情が渦巻いていた。


「私の策は、民を救うためのものだった。戦で死ぬ者を減らし、飢えで消える命を繋ぎ、病を払うために算盤を弾いてきた。…だが、その私の理が、結果として罪のない民の命を散らすことになった。彼女は…あの子宝米を、どんな思いで受け取りに来たというのだ」


 氏真は、亡くなった母親の名前が記された報告書を、握りつぶした。 現代の知識を持ち、命の価値を知る氏真にとって、改革の犠牲という言葉はあまりに重く、そして耐え難い欺瞞に感じられた。一向宗という巨大な感情の熱狂に対し、自分の理が、あまりに冷たく、無力なものに思えてならなかった。



 その夜、氏真は一人、屋敷の庭に面した縁側に座り込んでいた。月明かりが、彼の青白い顔を照らし出す。手元には酒も肴もなく、ただ重い沈黙だけが寄り添っていた。


 そこへ、柔らかな衣の擦れる音が近づいてきた。妻、早川殿である。


「殿。また、三河のことを考えておいでなのですか」


 早川殿は、氏真の隣に静かに腰を下ろした。氏真は、妻の顔を見ることさえできず、ただ暗い庭を見つめたまま呟いた。


「…御前。私は、思い上がっていたのかもしれない。算盤一つで世を平和にできる、不幸な者をゼロにできると。だが現実はどうだ。私の理を押し付けたせいで、一向宗は怒り、武田は隙を突き、何の罪もない民が血を流した。彼らを殺したのは、私だ。私が余計なことをしなければ、彼女は今も、不自由ながらも生きていただろうに」


 氏真の声は、絶望に近い後悔に満ちていた。早川殿は、しばらく黙って氏真の言葉を受け止めていたが、やがて彼の冷たくなった手を、自らの両手で包み込んだ。


「殿。…一つ、聞いていただけますか。今日、私が駿府の施薬院を訪ねた時のことです」


 早川殿は、穏やかに語り始めた。


「そこには、以前なら熱病で死んでいたはずの幼子が、殿の贈った薬によって一命を取り留め、母親の胸で笑っておりました。低利子の貸し付けを受けた商人は、借金の呪縛から解き放たれ、新しい商売を始めようと目を輝かせておりました。…殿。貴方は三人の命を救えなかったと嘆いておられます。ですが、その陰で、貴方の理によって救われた三千、三万の命があることを、どうか忘れないでください」


 氏真は、ハッとして早川殿を見た。


「殿のやり方は、間違いなく民を救っております。もし貴方がここで足を止めれば、今、ようやく息を吹き返した民たちは、再び暗い中世の闇へと突き落とされるのです。…すべての人は救えないかもしれません。神仏ですら、それは叶わぬこと。ですが、殿が作ろうとしている理は、いつか必ず、人々の心を解きほぐし、納得させるはずです」


 早川殿の瞳は、一点の曇りもなく氏真を見つめていた。


「今は、まだ伝わらぬ者もいるでしょう。ですが、清潔な水、温かい食事、そして明日の暮らしを案じなくてよい平和。それを一度知った民は、いつか必ず気付くはずです。どちらが真に自分たちを想ってくれているのか。殿、悩むことはありません。貴方の背負った業は、私が共に背負いましょう。ですから、どうか算盤を置かないでください」


 氏真は、妻の温もりに触れ、ようやく深く、長い溜息を吐いた。喉の奥に詰まっていた塊が、少しだけ溶けていくのを感じた。


「…御前。御前は、私よりもずっと強いな。…そうだな。ここで私が止まれば、死んだ彼女の命は、本当に無駄になってしまう。救われた者たちの笑顔を守るために、私は、この理を最後まで貫き通さねばならぬのだな」


「はい。殿は、殿の信じる道を」


 氏真は、早川殿の手を強く握り返した。夜の風は、まだ暑さを孕んでいたが、氏真の心には、冷徹なまでの決意が再び宿り始めていた。


「…一向宗が感情で人を殺すなら、私は豊かさという名の責任で、生きる者を守り抜く」


 月明かりの中、夫を見守る心優しき笑顔があった。

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