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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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敵に塩を送る

1558年夏

 今年は例年にない酷暑であった。 駿河の海岸線を洗う波は穏やかであったが、甲斐との国境である富士川周辺には、陽炎と共に焦りつくような緊張感が漂っていた。


 事の端緒は、武田晴信から届いた一通の書状である。そこには、近年激増している武田領から今川領への民の流入に対し、公然たる抗議と、逃げ出した民の即時返還を求める一文が綴られていた。


「大膳大夫め、思い上がるのも大概にせよ!」


 駿府城の奥の間で、今川義元は届いた書状を床に叩きつけた。


「我が今川が民を攫ったとでも言うつもりか。近年の奴は、美濃の件に口を出し、一向宗を煽り、今度は我らに泥棒の濡れ衣を着せる。出過ぎた真似だ。…五郎、国境の兵を増やせ。挑発に乗るつもりはないが、侮られては今川の威信に関わる」


 義元の怒りは正論であった。今川の圧倒的な豊かさと、新法による衛生・福祉の充実が、飢えと重税に喘ぐ周辺国の民を惹きつけているに過ぎない。いわば、今川は勝手に選ばれているのだ。


 氏真は、激昂する父の傍らで、静かに算盤を弾き直した。


「父上、お怒りはご尤もです。ですが、ここで兵を動かし、力ずくで追い返すのは古い武士のやり方です。大膳大夫殿が求めているのは、実は民の返還そのものではなく、我らを揺さぶり、何らかの譲歩を引き出すこと…あるいは、領内に漂う不満を外敵に向けるための演出に過ぎません」


「では、どうする。あの傲慢な要求を呑めというのか?」


「いえ、逆です。徹底的に善意で応じるのです」


 氏真は不敵に微笑んだ。


「民は自ら望んでこちらへ来ました。自由を重んじる今川の法において、彼らを強制的に連れ戻すことはできません。ですが、働き手を失った武田領の困窮は、隣国として見過ごせぬ。…返還の代わりに、失われた労働力を補うに十分な米と塩を送りましょう」


「何だと? 賊に追い銭を出すというのか!」


 義元が驚愕の声を上げたが、氏真は続けた。


「父上、これは施しではありません。依存という名の毒です。今川の米がいかに白く、今川の塩がいかに混じり気がないか。それを武田の民や兵の胃袋に叩き込むのです。一度これを知れば、彼らは二度と粗末な食い物には戻れない。今川がいなくては生活が成り立たぬ…そう思わせた時、武田という国は内側から腐り、我らの一部となるのです」



 氏真は、晴信からの書状への返信を書かなかった。 大名としての公式な返答を無視するという、最大級の非礼をあえて選んだのである。その代わりに、一通の親書を武田の嫡男・義信へと送った。


「貴殿の父上より、今川へ移り住んだ民を返せとの督促を賜った。しかし、彼らは自らの足で、豊かな暮らしを求めて今川へ来た者たち。自由を尊ぶ我が法において、彼らを縛り上げ、無理やり返すことはできぬ。 されど、働き手が減り、民が困窮しているとの話を聞き、胸が痛む。よって、労働力の不足を補うべく、今川から米と塩を贈る。これは武田家への施しではなく、苦しんでいる民への見舞いである。太郎殿、貴殿の手で、真に困っている者たちへ配ってやってほしい。…親子の仲、領地の安定を、駿河の空より願っておる」


 この書状の狙いは明確だ。晴信を飛ばして後継者の義信に直接恩を売ることで、武田家中の反今川派と親今川派の対立を決定的なものにすることだ。


 義信の妻は氏真の妹(嶺松院)であり、彼は元々今川との同盟を重視する立場にある。その彼に民を救うための物資を託せば、義信は家中での名声を高めるが、同時に晴信の強硬策がいかに無益であったかを露呈させることになる。


 まさに、親子の絆を算盤で切り裂くような一手であった。



 同時に、氏真は相模の北条氏康・氏政親子へも使者を送った。


「武田殿は、よほど内情が苦しいようです。自国の民が逃げ出したのを、今川のせいにされるほどに。…ですが、隣国の誼として、我らも放ってはおけません。米と塩を送り、手を差し伸べてあげました。義父殿、貴殿からも武田殿の愚痴を聞いてあげてくだされ。我らはいつでも助ける用意があると」


 これは、一見すると善意の報告だが、実態は武田の弱体化の露呈と今川の道徳的優位の誇示である。


 氏康は、この報告を聞いて鼻を鳴らすだろう。


「治部大輔め、食えない男よ。大膳大夫を助けるふりをして、その実、武田を施しを受ける格下にまで叩き落としたか」


 北条としても、飢えた武田が暴発してこちらを襲うよりは、今川の米で大人しくなっている方が都合が良い。こうして、今川・北条のラインを強めつつ、武田を助けられる対象として孤立させることに成功した。



 数日後、今川の米と塩が武田領へ運び込まれた。 今川の検疫済の印が押された真っ白な塩と、粒の揃った米。収穫前の夏の頃である。


 武田の館では、激しい論争が巻き起こっていた。


「今川め! 儂を差し置いて太郎に書状を送るとは、これ以上の侮辱はない!」


 晴信は激怒し、今川からの物資を突き返そうとした。しかし、それを遮ったのは、これまで従順であった嫡男・義信であった。


「父上、お待ちくだされ! 民は飢えております。今川が見舞いだと言って送ってきたものを、父上の面目のために突き返せば、民の心は完全に離れましょう。この米と塩は、私が責任を持って民に配ります!」


「…貴様、今川に籠絡されたか!」


「籠絡ではございませぬ! 現実を見ねばならぬと言っているのです! 今川と戦う力も、民を食わせる力もない今の武田が、どうしてこの好意を拒めましょうか!」


 家臣たちも二分された。武力による解決を叫ぶ古参の将たち。そして、今川の圧倒的な経済力と新法の合理性を目の当たりにし、無益な戦を避けたいと願う若手や行政官たち。


 忍びからの報告によれば、甲斐の市場では、今川の塩が神の塩と呼ばれ、密かに崇められ始めているという。今川の物資が配られるたびに、民は氏真の慈悲を称え、それを拒もうとする晴信を恨む。氏真の狙い通り、今川の富は武田の統治体制を内側から食い荒らす蟻の一穴となっていたのである。

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