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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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19/60

閻魔

1558年冬

 正月早々、尾張の織田信長から文が届いた。そこには、新法を読んだ彼らしい、短くも熱量を帯びた言葉が並んでいた。


「治部、貴様の算盤、ついに仏罰さえも恐れぬ域に達したか。兵と農を切り離し、銭で戦を買う…面白い。貴様は『十年かけて移行する』と書いたが、俺ならそんな悠長なことはせん。三年のうちに、尾張と美濃の兵をすべて俺の指先一つで動く猟犬に変えてみせよう」


 信長は、氏真の掲げた十カ年計画を鼻で笑い、さらに過激な速度で組織改革を断行する構えを見せていた。彼にとって、法とは守るものではなく、世界を最短距離で作り変えるための火薬のようなものなのだ。



 信長の反応とは対照的に、駿府に集まった僧侶たちの雰囲気は、冬の寒さよりも鋭く冷え切っていた。一向宗の教主や、有力寺院の使者たちが、氏真に対して新法撤回を求めて直訴に及んだのである。


「治部大輔様! 此度の新法、我ら仏門の徒には到底受け入れられませぬ!」


 筆頭格の老僧が、震える声で叫んだ。


「人別帳を今川が握り、施薬も救済も今川が行うという。それは、これまで我ら寺社が民を慈しみ、救いを与えてきた徳を奪う行為に他なりませぬ。民は誰に救いを求めればよいのですか! 銭や薬を配るだけで、人の心が救えるとお思いか!」


 広間に並ぶ小姓たち―竹中半兵衛や真田源五郎は、僧侶たちの気迫に息を呑んでいた。当時の寺社は、単なる宗教施設ではない。金融、警察、福祉、そして戸籍管理を司る、国家の中の国家であった。氏真の法は、その既得権益を根こそぎ奪い取るものだった。


 氏真は、僧侶たちの罵声を、まるでお茶の湯気でも眺めるような穏やかさで受け流していた。そして、ゆっくりと口を開いた。その声は、驚くほど澄んでおり、そして冷たかった。


「…そなたら、何か勘違いをしていないか?」


 氏真は、膝の上に置いた今川かな目録を指先で叩いた。


「私は、そなたらの信仰を奪うと言ったか? 仏を信じ、経を読み、民の魂を極楽へ導く…それこそが僧侶の、そなたらの本分であろう。…ならば聞くが、帳簿を付け、小銭の利子を計算し、土地の境界を争い、病人の糞尿を片付ける。そんな面倒な実務のどこに、仏の悟りがあるのだ?」


 僧侶たちが「それは…」と言いよどむと、氏真はさらに畳み掛けた。


「私は、そなたらを救ってあげたいと言っているのだ。煩わしい世俗の雑務、そんなものはすべて、私のような俗物が引き受けよう。そなたらは、ただひたすらに修行に励み、民の心に寄り添えば良い。私が面倒なことは全部やってやると言っているのに、なぜそんなに必死になって実務を手放そうとしない?」


「そ、それは…民を導くには、施しが必要でございますゆえ…」


「施しなら、私がやる。今川の薬を配り、今川の米を分け与え、清潔な部屋を提供する。そなたらは、その隣で有難いお話をしていればよい。…それとも何か? そなたらは、悟りを開くことよりも、民の戸籍を管理して金を貸すことの方が、そんなに楽しいのか?」


 僧侶たちは言葉に詰まった。氏真の論理は、僧侶の理想像を突きつけることで、彼らの利権への執着を炙り出していた。


 氏真は立ち上がり、広間の窓を開けた。吹き込む雪風が、僧侶たちの頬を打つ。


「それでも、自分たちで実務を続けたい、今川の法には従わぬと言うのなら、それも良かろう。私は信仰の自由を認めている。…ただし」


 氏真の瞳が、ふっと消えるような冷徹さを帯びた。


「今川の法に従わぬのであれば、今川の恩恵も受けるな。今日この時より、貴殿らの寺には今川の道を使わせぬ。今川の市場で米を売ることも、塩を買うことも禁じよう。今川の武力が貴殿らを護ることもない。…自分たちの力だけで、道を作り、食料を確保し、襲いくる野盗から寺を守るが良い。私は、自分の法に従わぬ者を、私の銭で守るほどお人好しではないのでな」


 広間が凍りついた。それは、破門であった。現代でいえば、国家というプラットフォームから特定の団体を利用禁止にする行為だ。


「さあ、選べ。今川の法の下で、守られ、敬われ、修行に専念する僧侶となるか。それとも、何もない荒野で、独り仏に祈りながら飢え死にするか。…どちらが救いに近いか、そなたらなら分かるはずだ」


 僧侶たちは、顔を見合わせた。 氏真の言葉には、一片の情けもなかった。あるのは、圧倒的な実利という名の暴力である。


「…承知、いたしました。我ら、今川の法を遵守し…修行に専念いたす所存にございます」


 彼らは、絞り出すような声でそう言い残し、這うようにして去っていった。



 僧侶たちが去った後、広間には重苦しい沈黙が流れた。側近の光秀、小姓の半兵衛、そして源五郎。彼らは、これまで見たこともない主君の冷徹な横顔に、言葉を失っていた。


「…殿」


 光秀が、僅かに声を震わせて尋ねた。


「僧侶たちの恨みを買いはしませぬか。一向宗の根深さは、一度火がつけば…」


 氏真は、閉じた窓から外の雪を眺めながら、独り言のように呟いた。


「分かっている。彼らは今、納得したのではない。ただ算盤で負けただけだ。…いずれ、この不満は澱のように溜まり、どこかで爆発するだろうな」


 氏真は、ふと自らの手を見た。その手は、かつての優雅な蹴鞠の主のものではなく、冷徹に日ノ本を解体し、再構築しようとする外科医のそれであった。


「だが、十兵衛。誰かがこの膿を出さねば、日ノ本はいつまでも古臭い理に縛られたままだ。…怖がらせたか、半兵衛」


 隅で固まっていた竹中半兵衛に声をかけると、少年はハッとしたように顔を上げ、震える声で答えた。


「いえ…。ただ、殿が…仏様というより、閻魔様のように見えただけでございます」


 氏真は、その言葉に微かな苦笑いを浮かべた。


「閻魔か。悪くない。…地獄を管理するのも、立派な経営だからな」


 正月。新法という名の雪は、今川領を白く美しく、しかし残酷なほど鮮明に塗り替えていた。

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