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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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再びの新法

1557年冬

 今川館の大広間では、今川家の歴史、ひいては日ノ本の歴史を塗り替える評定が行われていた。


 広間に座すのは、重臣だけではない。駿府を代表する豪商や、領内から選ばれた有力な農民たちもいた。氏真は「現場の意見を聞かぬ法は、ただの空文である」として、評定衆の枠を民間にまで広げたのだ。


 その中央で、氏真は一冊の冊子を掲げた。今川家の繁栄を支え、常に改善されている『今川かな目録』。その末尾に、氏真が現代の知識を注ぎ込んで書き上げた新法が追加されようとしていた。


 氏真が提示した最初の三か条は、広間にいた僧侶たちの顔を青ざめさせた。


一、今川家直営貸付制度の創設

 これより、銭の貸し付けは今川家が直営で行う。利息は寺社のそれよりも遥かに低く抑える。民が借金で首を括る世は終わらせる。


一、検地および人別帳の整備

 土地の広さも、そこに住む民の名も、すべて今川家が人別帳にて管理する。誰がどこで生まれ、どれだけの米を作るのか。今川家がすべてを把握し、管理する。


一、施薬院と救済小屋の設置

 貧しき者、病める者には無料で薬を与え、清潔な部屋で休ませる。これは慈悲ではなく、領主の義務である。


 背景にあるのは、寺が独占していた金融、戸籍管理、福祉の機能を、公的サービスとして今川家が吸収することだ。


「…治部大輔様、これでは我ら寺の役割がございませぬ」


 一人の僧が抗議すると、氏真は穏やかに、しかし断固として言い放った。


「役割がない? 滅相もない。寺は本来、祈りの場であり、修行の場でしょう。戸籍の管理や金貸しのような面倒な実務は、すべて今川が引き受けます。お坊様方は、どうぞ心ゆくまで経を読み、民の魂を救うことに集中なさってください」


 これは、現代でいう政教分離の第一歩であった。宗教勢力が持つ経済権限を剥奪し、彼らを精神的支柱という名の聖域に押し込める。実権はすべて、今川という政府が握るのだ。



 続いて氏真が放ったのは、移民対策と軍事制度の根本的な改革であった。


一、子宝法の制定

 子どもは国の宝である。人別帳に産まれた子を報告せよ。引き換えに、祝儀として米を支給する。


一、兵農分離および直轄軍の拡大

 農繁期に戦う愚を捨てる。今川家は銭で兵を雇う直轄軍を組織する。農家の次男三男、あるいは他国から来た移民たちよ、刀を持て。今川が給金と、清潔な暮らしを約束する。


 美濃攻略以降、豊かな今川領を求めて北伊勢や武田領から移民が激増していた。彼らに働き口を与えなければ、治安は悪化する。氏真は、彼らを使い捨ての傭兵ではなく、今川家が給金を払う直結雇用として取り込んだのだ。


「これは一朝一夕には成らぬ。まずは来年から五年をかけ、駿河、遠江、三河の兵を直轄化する。そして十年後には、尾張、美濃のすべての兵を、土地から切り離した雇い兵へと移行させる」


 この宣言には、武骨な国衆たちからもどよめきが起きた。土地を捨て、給金のために戦う。それは武士のアイデンティティを根底から揺さぶるものだったからだ。


「皆の者、案ずるな。関所を廃止し、物流を解放した今川領において、其方らが土地にへばりついている必要性は薄い。其方らは将として豊かになり、戦は精鋭の軍隊に任せればよいのだ」


 氏真の言葉に、元信や光秀が深く頷いた。彼らもまた、土地に縛られる限界を感じていたのだ。


 最後に、氏真は全宗教勢力に向けた最後通牒を突きつけた。


一、寺社の保護と信仰の自由

 今川は信仰を奪わない。だが、それは今川の法を遵守する者に限る。政に手を出さず、法の下で修行に励む限り、今川の武力と富は、貴殿らを永久に保護することを約束しよう。


 信仰の自由を認める代わりに、司法権と立法権を今川家が独占する。


 今川かな目録・追加六か条は、評定衆の圧倒的な賛成によって可決された。


 これより、今川家は封建領主の連合体から、現代的な中央集権的な法治国家へと、その姿を変え始めたのである。



 評定が終わる頃、相模の北条氏康から使者が到着した。


「来年、下総へ遠征を仕掛けたい。つきましては、小田原の留守の間、背後の守りを今川殿にお願いしたい」


 氏真は、義元と視線を交わし、不敵に微笑んだ。


「義父殿の信頼、忝い。同盟の信義に基づき、快くお引き受けしよう。…父上、これは新しく組織した直轄軍の性能を披露する絶好の機会ですな」


 氏真は、歴戦の将・井伊治郎法師直盛を呼び寄せた。


「治郎法師殿。其方を大将とし、編成したばかりの直轄軍二千を小田原へ送る。これは単なる留守居ではない。北条の将兵に、今川の新しい兵たちがどれほど統制され、清潔で、かつ精強であるかを見せつける、動く展示会だ。一糸乱れぬ行軍を見せ、北条の肝を冷やしてこい」


 直盛は、氏真から贈られた最新の具足を震わせ、力強く応じた。


「はっ! 直轄軍二千、治部大輔様の威光を相模の空に轟かせて参りましょう!」


 新法の制定。そして常備軍の派遣。今川氏真の算盤は、ついに領内の法規を整え、その矛先を外交という名の市場競争へと向け始めた。


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