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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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名の重み

1557年秋

 今川館の奥座敷では、当主となった氏真と、その後ろで盾の役割を担う義元が、一通の密書を囲んでいた。差出人は、近江の六角義賢。だが、その背後にいるのは、京を追われ、亡命生活を送る室町幕府第十三代将軍・足利義輝であった。


 義元は、将軍の署名が入ったその書状を、扇子で軽く叩いた。


「五郎よ、上洛の誘いだぞ。将軍家は、我らが尾張・美濃を手にしたことで、ようやく三好を討てる兵力が整ったと狂喜しておいでだ。朝倉や畠山にも声をかけ、包囲網を作ると息巻いておられるな」


 義元の言葉には、かつての幕府への畏敬よりも、冷徹な分析が混じっていた。


「父上、算盤を弾くまでもありません。これは我が今川にとって、最も割に合わぬ誘いにございます」


 氏真は、窓の外で散りゆく紅葉を見つめながら答えた。


「公方様は、京の再興を兵の数で解決しようとなさっている。だが、今の京に求められているのは、刀を振るう武士ではなく、崩れた街並みを直し、物資を運び、経済を回す理にございます。朝倉も畠山も、口では同調しましょうが、懐を痛めてまで泥沼の京に飛び込む度胸はありますまい」


「左様。六角としても、今川が動くなら協力すると申しておるが、本音は我らを先鋒に立たせて三好と削り合わせ、漁夫の利を得たいだけよ」


 義元は面白そうに頷いた。


「では、どう返すべきか。五郎、其方の案を聞こう」


 氏真は、懐から京の物価指数を記した報告書を取り出した。


「将軍家へは。適当な理由をつけて煙に巻きましょう。六角家に対しては、『尾張・美濃の安定がいまだ成らず。義輝公の守護は、近江の守り神である六角殿こそが相応しい。警護の足しに、これまでの倍の献金を送る』とだけ。要は、金で厄介払いをいたします」


 義元は声を上げて笑った。


「金色の足止めか。六角も、それだけの銭を積まれれば、将軍を逃がすわけにはいかなくなるな」


「そして、本命は三好です」


 氏真の瞳が鋭くなる。


「朝廷の方々に伺えば、実情は明白です。もめ事ばかりを持ち込む将軍よりも、実務をもって京を治め、今川からの安価で質の良い物資を流通させている三好の支配を、帝も公家たちも良しとしておいでです。…三好へは、こう伝えます。『帝は、京の街がこれ以上の戦火に包まれることを望んではおられない。帝から不満の声が上がらぬ限り、我が今川が三好殿に弓を引くことはない』と」


 義元は感銘を受けたように扇子を閉じた。


「なるほどのう。三好には『帝を満足させ続けている限り、我らは動かぬ』という条件を突きつけるわけだ。三好は必死になって京を潤し、治安を守るだろう。戦わずして、京を平和の実験場に変える…。五郎、お前は将軍を救うのではなく、京という市場を守ろうというのだな」


「左様にございます、父上。我らが上洛するのは、三好の理が尽き、京の民が今川の算盤を求めて泣きついてきたその時でよろしいのです」



 義元との対談を終えた氏真は、城の廊下で一人の青年に声をかけた。 松平元信である。近頃の彼は、三河衆のまとめ役としてだけでなく、氏真の掲げる新法の最も忠実な執行者として頭角を現していた。


「次郎三郎、少し良いか」


「はっ、殿。いかがなされましたか」


 氏真は、ふと思いついたように語りかけた。


「其方の祖父君は、三河を一代でまとめ上げた素晴らしい傑物であったと聞いている。…どうだ。元服から数年経った。もし、祖父君を尊敬し、その意志を継ぎたいと願うなら、祖父君の名から一字を取り、『元康』と改名してはどうか? 私から父上にお願いしても良いが」


 それは、氏真なりの三河の誇りへの配慮であり、同時に元信の本心を確かめる試金石でもあった。だが、元信は一瞬の迷いもなく、深く頭を下げた。


「…殿。身に余るお言葉、恐縮にございます。されど、今の私はただの三河の人間ではございませぬ。殿という巨大な太陽に照らされ、新しき世の理を学ぶ今川の人間にございます」


 元信は顔を上げ、その瞳に宿る熱い決意を氏真にぶつけた。


「私が三河に帰るのは、殿の描く戦なき世が日ノ本の隅々まで行き渡り、三河の民が日ノ本で最も豊かな民となったその時です。それまでは、大殿から賜った『元』の字を、そして氏真様と共に歩むこの『元信』の名を、何よりも大切に生きていくつもりです。…『元康』を名乗るのは、私がすべてを成し遂げた、その最期の時で構いませぬ」


 氏真はその言葉を聞き、胸の奥が熱くなるのを感じた。 史実では、彼は早い段階で『家康』への道を歩み始める。だが、この世界線の元信は、氏真の理に心酔し、今川という巨大なシステムの完成を自らの使命としているのだ。


「…そうか。ならば、その名のまま、私の右腕として働き続けよ。次郎三郎元信、期待しているぞ」


「ははっ!」


 桜の季節に家族となり、実りの秋にその絆を確固たるものにした二人。京の混沌を冷徹に無視し、内側の結束をダイヤモンドよりも硬く鍛え上げた今川家は、冬を前に、さらなる飛躍の準備を整えていた。


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