表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
125/126

エピローグ2 血脈

1581年(民和十一年)春

「そうでございますね。…慶事も多うございましたが、私は婚儀と同じ頃、旦那様が珍しく烈火の如くお怒りになられた、あの事件もいまだ強く心に残っております」


 伊勢殿がふと表情を曇らせ、声を落とした。


「…南蛮と豊後の、あの事件ですわね」


 一条殿が編み物の手を止め、静かに応じる。


「ええ。あの時の殿の怒りようといえば、長年お側にいた私も初めて見たほどのものでした。それ以前にも、策が上手くいかず落ち込まれたり、懊悩されたりするお姿は多々拝見してきましたけれど、あのように激しくお怒りになったのは、生涯であの時のみかもしれません」


 早川殿の言葉に、場にわずかな緊張が走る。それは、この泰平の世の裏側に刻まれた、最も峻烈な裁きの記憶であった。


 天下統一後、今川の支配下となった全域で、兵農分離や戸籍管理、そして直営の貸金所といった独自の施策が導入されていった。その一環である、人別帳の厳格な管理と照合の過程で、豊後において戦慄すべき事実が発覚したのである。


 当時の豊後を治めていた大友宗麟は、キリスト教への深い帰依と引き換えに、南蛮貿易の膨大な利益を独占していた。だが、その交易の品目には、戦で捕らえた若い女性を中心とする、日本人。すなわち人身売買が含まれていた。


 堺の今川館に暮らしていた宣教師フロイスも、隠語を用いて本国と巧妙に連絡を取り合い、この事実を隠蔽していた。しかし、今川が導入した緻密な帳簿と、土地の民から漏れ聞こえる「娘が消えた」という悲痛な訴えを突き合わせた時、氏真は真実に辿り着いた。


 この報告を受けた氏真は、それまでの冷静沈徹な仮面をかなぐり捨て、激昂した。宗麟を即座に静謐府へ呼びつけ、問い詰めた際、彼が神への献身と交易の利益を言い訳に罪を認めると、氏真は一切の慈悲を見せず、即刻の打首を命じた。


 さらに、呼びつけられたフロイスに対し、氏真は凍りつくような声で断じた。


「デウスの教えとは、同胞を獣の如く売り払うことを許すものか。貴殿らが連れ去った民の全員が帰還するまで、日ノ本における教会の新設を一切禁ずる。また、民らにも伝えよ。信じるなとは言わぬが、己が信じる教えの背後で、人身売買という外道に加担する輩がいることを、その眼に焼き付けよ、とな」


 このキリスト教弾劾は、全土に凄まじい衝撃を与えた。氏真はキリスト教を単なる信仰としてではなく、人道に反する組織として断罪したのである。これにより、表立ったキリスト教徒は日ノ本から姿を消した。


 焦ったフロイスは、かつて売り飛ばされた民を買い戻すべく各国へ働きかけたが、劣悪な環境で命を落とした者も多く、戻ってきたのは半分にも満たなかった。


 この事件を機に、南蛮との交易は継続されたものの、本人の同意なき渡航は厳禁され、外交は一時、一触即発の緊張状態となった。しかし、氏真は一歩も引かなかった。


 結果として、南蛮側が非を認め、二度と人身売買を行わないという誓約書を提出。以後の全ての取引は、今川の発行する富士札のみで行うことという、日ノ本主導の経済支配が完成した。そして、帰らぬ民の家族には、南蛮側からの莫大な賠償金が支払われることとなったのである。


「ですが、あの時の静謐様の毅然としたお態度を見せた甲斐あって、今では南蛮との関係も真に対等なものとなりましたわ。布教もようやく解禁され、今では極一部の方々の間で、静かに信じられているようですけれど」


 一条殿が、手元を動かしながら感心したように言った。かつては異国の威を借りて傲慢な振る舞いを見せていた宣教師たちも、氏真の「人道に背く者は一切認めぬ」という断固たる姿勢に触れ、今では日ノ本の理に従って慎ましく活動している。


「神に仕えし者として、あるまじき行為…。旦那様がそれまでの沈着さを忘れるほどに激しく非難されたことで、私を含め、日ノ本古来の神仏に心を捧げる者は皆、旦那様に深く心服いたしました。あれは単なる政ではなく、日ノ本の魂を守るための戦いでもあったのですわ」


 伊勢殿が、胸に手を当てて深く頷いた。その清らかな瞳には、夫への揺るぎない敬愛が宿っている。


「そうですね。殿は以前から戦に乗じた略奪や、女子を性のはけ口とすることを何より忌み嫌っておられました。『兵には充分な給金を与える。ゆえに、民を傷つけるようなことは絶対に許さぬ。武士の面汚しになるような真似はするな』と、口を酸っぱくして仰っておられましたもの」


 早川殿の言葉に、一条殿が感嘆の声を漏らした。


「そのお話は、京の都でも耳にしたことがございましたわ。武家とは荒々しく、略奪を誇りとする方々ばかりだと教わってきた私にとっては、そんな慈悲深いお方が本当にいらっしゃるのか、この目で見るまで信じられないとすら思っておりましたのよ」


「ふふ、旦那様は慈悲深いだけでなく、とても潔癖でいらっしゃいますものね。そういえば、殿は男色にも一切興味を示されませんでしたわ。殿は『絆とは、体の繋がりではなく心の繋がりであるべきだ』と仰って。以前、私が真意を伺ってみましたところ、男色が原因で病に倒れる者が以前は非常に多かったとか…。それを食い止めたかったのだと仰っておられました」


 伊勢殿が明かした事実に、一条殿も楽しそうに笑う。


「殿は本当に徹底していらっしゃいますわよね。屋敷の玄関には必ず手水舎を設けさせ、外から戻ればまず手を清める。さらには石鹸での洗浄や、飲み水の煮沸まで…。日ノ本一…いえ、世界一の綺麗好きではございませんか?」


「ええ、殿はそこに関しては妥協なさいませんのよ。『戦に負けることは武士の華とも言えるが、不摂生な病に倒れるわけにはいかぬ。病こそが、泰平の世の最大の敵である』と仰って、お食事の献立にも細かく気を配っておられますものね」


 早川殿が苦笑いしながら答えると、三人の間に温かな笑いがこぼれた。



 現在、この屋敷での暮らしにおいて、侍女たちは清掃や洗濯、来客の一次対応といった限られた仕事しか行っていない。これには、三人の妻たちが自らの手で氏真を支えたいという殊勝な心がけもあったが、それ以上に、天下を劇的に変えた氏真を狙う暗殺や毒殺の危険から彼を守るという切実な理由があった。


 身の回りのお世話や口に入るものの管理は、全て信頼できる妻たちの手で行う。それが、この屋敷の理であった。「私は多くの人に恨まれている身。皆々のそのような心遣いは、真にありがたい」 氏真は彼女たちの献身を受け入れ、このこじんまりとした屋敷を、最も安らげる、そして最も安全な城として大切にしていた。



 話は、次男・五郎丸のことに及んだ。


「その次は、権大納言様の鷹司家の再興ですわね。今川の血が五摂家の中に入る…。私も一条の出ではありますが、所詮は女の身。男子が当主として名門を継承するのとでは、やはり重みが違いますわ」


 一条殿が、誇らしげに語った。


「まさか、あのいたずら盛りで殿を困らせてばかりいた五郎丸が…と当時は思いましたが、今や立派な権大納言ですものね。私、未だに信じられない心地がいたしますわ」


 早川殿が目を細めて思い出に耽る。


「明智様の娘御とは、昔馴染みだったと伺いました。以前から親しくしていらしたのですか?」


 伊勢殿の問いに、早川殿が頷く。


「ええ。明智様は殿の側近として長く誠実に務めておられましたから。自然と、年の近い子同士で遊ぶ機会が多くございましたの。五郎丸は、明智様の娘御―今の正室様がまだお転婆だった頃から、ずっとお慕いしていたようですわよ」


「まあ。幼き頃からの想い人と結ばれ、さらには五摂家の当主、権大納言にまで。まるで語り草にある御伽噺のようでございますわね」


 一条殿がうっとりとした表情を浮かべた。


次男の五郎丸、改め鷹司権大納言氏久うじひさ。 彼は今川の通字である「氏」と、再興を氏真と共に企てた関白・近衛前久から「久」の一文字を賜り、その名を名乗っていた。朝廷と武家の橋渡し役としての類まれな働きが認められ、異例の速さで権大納言へと昇進した氏久の存在は、今川政権の正当性を決定的なものにしていた。


 今の今川家は、まさに日ノ本の権威の頂点にあった。当主・氏真は一条家から正室を迎え、嫡男・範仁には内親王が降嫁し、次男・氏久は五摂家の一つである鷹司家を継承している。武士を統べ、公家を支え、皇室と血を交わす。かつての日ノ本の歴史において、これほどまでに強固で高貴な血脈を築いた一族は存在しない。


「殿が仰っていた理とは、単に理屈のことではなく、こうした人々の縁を一つに紡ぎ、争いの余地を無くしていくことだったのですね」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ