エピローグ3 香り
1581年(民和十一年)春
「それにしても、足利将軍家をいかがされるのかと思っておりましたが、公方様を生き神として祀る神社を建立するとは。これには日ノ本中の者たちが驚いたことでしょうね」
伊勢殿が、遠く駿河の社を想うように言った。一条殿も、深く感じ入ったように頷く。
「真に。静謐府と将軍家、権威の衝突を誰もが危惧しておりましたが、ああなれば誰もが納得せざるを得ませんわ。将軍という役職を、神という不変の存在へと昇華させてしまうとは、殿の考えにはいつも脱帽いたしますわね」
かつての将軍・足利義輝は、戦を無くすために静謐使を支え、朝廷の代理人として尽力した功臣として、駿河に建てられた豪奢な社に生き神として祀られた。帝という至高の権威を直接動かすのは憚られる。だが、静謐府の式典には相応の権威付けが欲しい。そのような時、義輝が帝の代理人として下向し、儀式を司る。
義輝は政への関与は一切しないが、民も武士もその名を等しく敬う。これにより、組織としての幕府は静かに形骸化し、将軍家という家系は義輝をもって最後となった。反対する者もいたが、当の義輝自身は「公方様は将軍という人ではなく、神になったのです」という氏真の言葉を、至極満足げに受け入れたという。その血脈は、ただの高貴な一族として静かに残されることとなった。
「私には待望の女子が産まれ、一条殿も伊勢殿も子を授かって。屋敷も賑やかになり、真に日々が充実しておりますね」
早川殿が慈しむような眼差しで言った。
「真に。静謐様の血を、こうして大きく広げることができる喜び。公家と武家の垣根を越えた新しい絆が、次代を担っていくのだと感じますわ」
一条殿の言葉に、伊勢殿が少し悪戯っぽく笑いながら続けた。
「そうでございますね。…ひょっとすると、私がかつて遊女の方々から授かった、あの秘技の数々が効いたのかしら?」
「それは…ええ、そうね。静謐様も、その…とても喜んでおられたから。おそらく、そうなのだと思いますわ」
一条殿が、頬を赤らめて視線を逸らす。その初々しい反応を見て、早川殿は苦笑いを浮かべた。
「私はもうお二人よりも幾分歳を重ねておりますから、あまり派手なことは出来ませんでしたけれども…かような技があるのだと、伊勢殿には気付かされましたわね」
早川殿の言葉に、場が和やかな、それでいて少し照れくさい空気に包まれる。一条殿が、小さく咳払いをして話題を変えた。
「…殿が初めて女子を抱かれた時の、あの涙。今思い出しても、こちらまで泣けてきてしまいますわ」
「ええ。外では冷静沈着な天下静謐使であっても、家に帰ればただ家族を愛するお優しい方ですものね」
伊勢殿が優しく微笑む。
「近衛様の嫡男様と姫の婚約が決まった時は、喜びと寂しさとで、どう表したら良いかわからぬというお顔で、泣きながら笑っておられましたね」
早川殿が語る氏真の姿は、民が知る偉大な指導者のそれではなく、子を想う一人の父の姿そのものであった。
早川殿との間に産まれた三男・千代丸は織田信長の娘と、四男・太平丸は松平元信の娘との婚姻が決まっていた。さらに長女は近衛前久の嫡男に嫁ぐことが決まり、数年後には京へ旅立つことになっている。一条殿との間に二人、伊勢殿との間にも三人の子を授かっており、皆まだ十に満たない幼さではあるが、将来の婚姻相手への立候補は、今から引きも切らなかった。
「子たちも一人、また一人と巣立ってしまうのですものね。親として誇らしくもあり、やはり寂しくもありますわね」
「そうですわね。私はあと十人くらい子を産めたらいいのにと思いますが、身体のことを考えるとそうもいきませんものね」
伊勢殿の言葉に、早川殿と一条殿は顔を見合わせて笑った。
だが、時は等しく流れ、出会いがあれば別れもあった。
「お義父様もお義母様も、この二年で立て続けに亡くなられ…。本当に寂しくなりましたね」
早川殿の言葉に、沈黙が流れる。今川家を支え続けた大御所・義元の死は、一つの時代の終わりを感じさせるものであった。
「ええ。私たちにも実の娘のように良くしてくださり、二人目の父様が出来たと、私はとても嬉しく思っておりました」
伊勢殿が目を伏せる。一条殿も、静かに言葉を継いだ。
「少しずつ、十職の方々も隠居や世を去ることが出てきましたわね。時代の変化故、避けられぬことではございますが、どうしても寂しく思いますわ」
大御所相談役として氏真を支えた長老たちや、初期から苦楽を共にした重臣たちが一人、また一人と表舞台を退いていた。岡部元信や明智光秀、織田信長といった静謐府の要石たちも、すでに後進に道を譲っている。今や本多忠勝や松平元信、そして「蔵太」改め金春長安といった次代の俊英たちが、日ノ本の屋台骨を支えていた。
「殿も翌年には、隠居を考えておられますものね。旧来の友と、穏やかに優雅に暮らしたいと」
早川殿の言葉に、一条殿が微笑む。
「静謐様は今まで、止まることなく働き詰めでございましたから。余生は心穏やかに過ごしていただきたいですわね」
「私たちがそれを支えなくてはなりませんね。…そうなれば、夜だけでなく昼も、ずっと旦那様と共に過ごせますわね」
伊勢殿の言葉に、早川殿は明るく頷いた。
「そうですね。さて、ではそろそろ夕餉の準備といたしましょうか。今夜は殿の好きなものを用意しましょう」
三人はそれぞれ手にしていた内職を片付け、一斉に立ち上がった。縁側から眺める庭には、駿河名産の蜜柑の木が、豊かな葉を揺らしている。街に漂う清涼な柑橘入りの石鹸の香りと、春の終わりの穏やかな風。それは平和を象徴するように、氏真が愛した日ノ本全土へ、どこまでも広がっていくように感じられた。
これにて完結しました。最後までお付き合いいただきありがとうございました。




