エピローグ1 夢
1581年(民和十一年)春
駿府の街は、淡い桃色の桜に包まれていた。かつてこの季節は、軍勢が動き出し、乾いた土埃が舞う、合戦の始まりを告げるものであったが、今は違う。通りを行き交う人々は穏やかな顔で春を愛で、子供たちの笑い声が遠くまで響いている。
わずか十数年前まで、日ノ本の民は明日をも知れぬ命に怯え、常に死の影と共に生きていた。しかし、一人の男が算盤と理という、これまでの武士が顧みなかった武器を手に立ち上がり、日ノ本全土に、静謐という名の奇跡をもたらした。
今川天下静謐使氏真。彼の名はすでに伝説となり、後世には、三百年続く平和の礎を築いたと、世界に類を見ない功績を残した偉人として語り継がれることになる。だが、その偉業の傍らには、彼の魂を支え、時代を共に歩んだ三人の女性たちがいた。
これは、日ノ本の中心・駿府にある、とある邸宅の陽だまりの中で交わされた、穏やかな一幕である。
駿府、今川館のほど近く。かつての大名であれば、側室ごとに豪奢な屋敷を構えさせるのが常であったが、氏真と彼女たちの選んだ暮らしは違った。彼と三人の妻、そして成長著しい子供たち。それにごく少数の侍女たちが、天下人の住まいとしては驚くほど、こじんまりとした一角で、家族として共に暮らしている。
春の柔らかな陽光が差し込む広間で、三人の女性がそれぞれの手に職を馴染ませていた。
「一条殿、伊勢殿。お茶を淹れますゆえ、少々お休みいたしませんか?」
声をかけたのは、早川殿である。彼女の手元には、領内の物価推移や物流の動向を記した分厚い帳簿があった。天下人となった夫を支え、各地の代官や国衆の妻たちと万を超える文を交わして人心を繋ぎ止めてきた彼女は、今や「国母」として、民からも家臣からも絶大な信頼を寄せられている。彼女が筆を執るだけで、動かなかった政が動く。そんな彼女は、まさに陰の天下人であった。
「早川殿、ありがとうございます。ちょうど目が疲れてきたところでございました」
編み物の手を止めて微笑んだのは、一条殿こと菫である。五摂家の一条家から嫁いだ彼女は、日ノ本の歴史と文化そのものを背負ったような気品に溢れていた。その美貌と才気は、荒々しい武家社会に、洗練という光を差し込み、公家と今川家の絆を岩盤のように固めた。彼女の存在そのものが、今川の政権に格と麗しさを与え、「麗雅」の名で親しまれている。
「ありがとうございます。では、私がお茶請けにお菓子を用意いたしますわ」
お守りを作成していた手を休め、軽やかに立ち上がったのは、伊勢殿こと五十鈴である。 伊勢神宮の禰宜の血を引き、常に家族と民の安寧を祈り続ける彼女は、その場にいるだけで空気が清まるような清廉さを纏っていた。彼女が嫁いで以来、今川家には吉兆が絶えないと噂され、いつしか人々は彼女を、神域から舞い降りた使いとして「神鳥」と呼ぶようになった。
三人は、早川殿が淹れた香り高い茶を囲み、縁側に腰を下ろした。
「昨晩、夢を見ましたの。私が殿に嫁いだ、あの日の夢を」
早川殿が、茶碗から立ち昇る湯気越しに目を細めた。
「まあ。もう三十年近くも前のことになりますわね」と一条殿が応じる。
「そうですわ。早川殿が嫁がれた頃の旦那様のご様子、もっと詳しく聞かせていただけませんか? 私は駿府に来てからまだ十年ほどですから、それ以前の殿のことは、何度でもお聞きしたいです」
伊勢殿が、興味津々といった様子で身を乗り出した。
早川殿は、懐かしさに胸を熱くしながら語り始めた。
「今の殿からは想像もつかないかもしれませんが、あの婚儀の前夜まで…殿は、周囲から『優雅だが、覇気のない若君』だと言われておりましたのよ。父上や家臣たちも、今川の行く末を案じていたほどでした」
「蹴鞠と和歌にのみ耽る、というお噂でしたわね」
一条殿が小さく笑う。
「ええ。ところが、婚儀の席でお会いした殿は…まるで別人のようでした。その瞳は理知的で、確固たる決意に満ちておりました。あの一瞬、殿の目を見ただけで確信いたしましたわ。『この方は、今までの誰とも違う。必ず、この国を大きく変えることを成し遂げる』と」
早川殿の言葉に、二人は静かに耳を傾ける。
「それからの殿の進撃は、まさに尋常ではありませんでした。武力でねじ伏せるのではなく、銭の力、道の力、そして誰もが納得する理をもって、瞬く間に勢力を拡大なさいました。私の確信も、まさか日ノ本全土を一つにするほど壮大なものになるとまでは思っておりませんでしたけれど」
伊勢殿が深く頷く。
「尋常ならざる速度でございましたよね。あの頃の伊勢には、まだ古い戦国の空気が停滞しておりましたけれど、殿が手を差し伸べられた瞬間に、風が吹き抜けるように時代が動き出しましたの」
「伊勢には、殿もあえて積極的に介入されませんでしたわね。神領という土地柄を尊重しつつ、心だけを掴んでしまわれた。…それでも、早川殿が嫁がれてから三十年も経たずに、東海道の三国から天下人へ。今までの歴史の理から外れた方なのだと、改めて痛感いたしますわ」
一条殿が感嘆の息を漏らす。
今や、日ノ本から武士という言葉の響きは変容しつつあった。 かつてのように命を奪い合う武人は姿を消し、武勇に優れた者は警察として治安を守り、学問に優れた者は官僚として各地の物流や徴税を管理する。氏真が築いた新しい秩序の中で、人々は己の才を平和のために尽くす社会へと移行していた。
氏真本人は、その巨大なシステムの基礎をより盤石なものにするため、今日も今川館の奥で政務に没頭している。夕刻に帰宅するまでは、ここが女たちの、そして家族の安らぎの場であった。
「それにしても、旦那様と一条殿の婚儀は真に盛大でございましたね。この世の勢を全て並べたかのような行列が、京から駿府までところ狭しと続いておりましたのを、昨日のことのように思い出しますわ」
伊勢殿が、当時の華やぎを思い返すように目を輝かせた。
「私も驚きましたの。静謐様からは『大事にする』と仰っていただいておりましたけれど、あのような、日ノ本中の民も物も集まった婚儀など、後にも先にも、その翌年に行われた東海守殿と姫宮様の婚儀くらいのものでしょうね」
一条殿が、少し照れたように、しかし誇らしげに微笑む。その言葉に、早川殿も深く頷いた。
「伊勢殿をお迎えした婚儀も、神宮や寺社の方々を多数お招きし、それは厳かにございましたが、お二人の婚儀はまさに国を挙げた祝典、凄まじい熱気でございました。あれこそが、乱世が終わり、今川の時代が来たことを万民が悟った瞬間だったのかもしれませんね」
三人が口にした「翌年の婚儀」の主役、氏真の嫡男・龍王丸は、その元服にあたり名を「範仁」と改めた。今川家の通字である「範」に、帝の諱から一文字を賜った「仁」を併せた、この上なき高貴な名である。
それから数年。範仁は現在、静謐府の本拠を含む東海府の領管として、広域にわたる高度な統治の実務を担っていた。かつて氏真は、世襲を原則としない。という理想を掲げていたが、範仁の才覚は、父の贔屓目なしに見ても群を抜いていた。今や、二代目静謐使となることを疑う者は日ノ本に一人もおらず、名実ともに後継者として認められている。
現在は静謐府のお膝元で、父・氏真から直接の薫陶を受けながら、さらなる成長を見せている。既に範仁にも子が産まれており、かつて戦場を理と銭で支配した氏真も、孫の前ではただの好々爺となり、とことん可愛がっている姿が微笑ましく目撃されていた。




