民和
1571年冬
しんしんと降り積もる雪が京の街を白く染め上げる中、新しい年、そして新しい時代の幕が静かに、しかし力強く明けた。「民和元年」―。民が平和に過ごせる時代、みんなが幸せに暮らせる時代。そんな願いを込めて改元されたこの年、日ノ本は数百年続いた争乱の闇を抜け、ようやく一筋の希望の光を掴み取ろうとしていた。
京の屋敷で朝廷や公家衆との幾多の交渉、そして今後の統治に関する細々とした調整に追われているうちに、気づけば越年してしまった。だが、それもようやく一段落がついた。氏真は、心地よい疲労感と共に、長らく離れていた本拠地・駿府への帰還を決意した。
これからの三年間は、今川家にとって、そして日ノ本にとって、かつてない祝賀の歳月となるだろう。武家が公家の頂点の一翼を担うという歴史的転換点だ。
これらの祝い事は、単なる家族の慶事ではない。日ノ本全土から領主や有力者を招き、今川と朝廷、公家衆との結びつきがいかに盤石であるかを見せつける、武力でねじ伏せるのではなく、圧倒的な権威と理によって、戦うことの虚しさを世に知らしめる―これこそが、氏真の描く泰平への道筋であった。
「ようやく、帰れるな…」
氏真は、京の空を見上げながら独りごちた。思い返せば、この数年は怒涛の日々であった。今川という大大名の嫡男として生まれ、かつては蹴鞠に耽る暗君と揶揄された男が、その立場と現代の知識、そして強運を総動員して天下統一を成し遂げた。もし自分が氏真ではなく、一介の浪人や小領主に転生していたならば、早々に戦火に巻かれて野垂れ死んでいたに違いない。今川が積み上げてきた財力、名門としての血筋、そして父・義元が遺した盤石な基盤。それら全てが、氏真の理想を支える翼となった。
「ただ、運が良かったのだ。それに尽きる…」
謙遜ではなく、それが氏真の本音であった。
駿府の地が近づくにつれ、冷たい冬の空気の中に、懐かしい潮騒の響きが混じり始めた。そして、早川殿の手によって普及した石鹸の、清潔で微かな香りがどこからともなく漂ってくる。日ノ本の中心として栄える駿府は、氏真の留守中も停滞することなく、さらなる洗練を遂げていた。
駿府の館に到着すると、そこには今川家を支える人々が勢揃いして氏真を出迎えた。
「殿、お帰りなさいませ。 これでようやく、殿の目指された平和な世が、真の意味で始まりましたね」
待ちわびたと言わんばかりに早川殿が言う。
「五郎、まさか其方がここまでの事を成し遂げるとはな。余も誇り高いぞ。今川の家名は、其方の手によって天にまで届いた」
大御所として氏真を支え続けた父・義元が、満足げに目を細めていた。かつて桶狭間で散るはずだった父が、こうして健在でいてくれることが、氏真には何よりの救いであった。
「父上、お帰りなさいませ。父上の留守の間、皆の支えのおかげで、駿府に何ら滞りはございませんでした。どうぞご安心ください」
嫡男・龍王丸が、堂々とした仕草で一礼した。留守居役を務め上げ、すでに次期当主としての風格を備え始めている。
氏真は、家族や家臣たちの顔を一人ひとり見渡し、深く頷いた。
「御前、留守中変わりはなかったか。子供たちも健やかそうで何よりだ。ようやく、これで駿府に落ち着くことができる。落ち着いたら、相模の義父上のところにも、顔を出そうと思う」
寄り添う早川殿に優しく声をかける。彼女の芯の強い支えがなければ、氏真は西国でこれほど大胆に振る舞うことはできなかっただろう。
「父上、ただいま戻りました。ようやく、日ノ本を一つにまとめることができました」
「龍王丸、よく務めたな。そなたの働きぶりは逐一聞いていたぞ。頼りになる息子を持って、父は誇らしい」
家族との再会を喜びながらも、氏真の心はすでに先を見据えていた。天下を統一した。だが、それは戦いの終わりであっても、統治の始まりに過ぎない。もしここで慢心し、杜撰な政を行えば、日ノ本は瞬く間に再び乱世へと逆戻りしてしまうだろう。今こそ、より一層気を引き締め、領内を、そして日ノ本全土を理と銭で導いていかねばならない。
一通りの挨拶を終え、奥の間で一息つこうとした氏真の前に、一人の美しい女性が控えていた。清冽な水の如き空気を纏い、どこか神聖な気配を感じさせるその女性―伊勢神宮から遣わされた、五十鈴姫であった。
「お久しゅうございますな、薗田殿。早川殿より文で聞き及んでおります。…しかし、真に私でよろしいのですか? 私はそなたの父御と然程に歳の変わらぬ年寄りではございますが…」
氏真は少し困惑気味に尋ねた。現代人の感覚からすれば、自分の子供のような年齢の少女を側に置くことには、どうしても躊躇いがある。だが、五十鈴は顔を上げ、凛とした瞳で氏真を見つめた。
「お久しゅうございます、中将様。私は神宮の指示で参ったわけではございません。他ならぬ私自身の願いで、中将様のお側にお仕えしたく参りました。初めて伊勢にてお会いしたその時から、ずっとお慕い申し上げております」
その真っ直ぐな言葉に、氏真は思わず動揺した。
「そ、そなたさえ良ければ、私には何の問題もないのだが…。そうであろう、御前?」
助けを求めるように隣の早川殿へ視線を向けると、彼女は穏やかに微笑んで頷いた。
「ええ、殿。殿が発たれてから、すでにこの屋敷で共に過ごしておりますが、とても器量良く、殿のお側にいる方として申し分ないお方です。女中たちからも『伊勢殿』と呼ばれ、すっかり親しまれておりますよ」
「…うむ。早川殿が認め、そなたの強い意思でもあるというのであれば、私に断る理由はない。そなたを楽しませられるような愉快な人間であるか自信はないが…伊勢殿、よろしく頼む」
氏真がそう答えると、伊勢殿は花が綻ぶような笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、旦那様。今後とも、何卒よろしくお願い申し上げます」
かくして、来年の菫姫降嫁という国家的な婚礼の前に、側室として五十鈴を娶ることとなった。この婚儀は、神宮の関係者や近しい家臣のみを招き、内々に、しかし厳かに行うこととした。これから続く華々しい婚儀を霞ませぬよう、そして「伊勢殿」という存在が今川家の奥を静かに支える礎となるよう、控えめな門出を選んだのである。
駿府に帰還した氏真は、すぐさま日ノ本全土へ向けた大規模な宣言を発した。
一つ、全ての勢力が今川に服し、天下統一が成されたこと。
一つ、元号を「民和」と改め、新しい時代が始まったこと。
一つ、駿府に「静謐府」を開府し、氏真が「初代静謐使」として、朝廷に代わり天下の政を執り行うこと。
この宣言は、瞬く間に全国へ広まった。戦国時代という名の長く残酷な乱世が、ついに終わりを告げたのである。
氏真の戦いは、ひとつの区切りを迎えた。だが、彼が目指す真の泰平は、まだ産声を上げたばかりだ。心までは服していない各地の勢力をどう懐柔するか。戦火で荒廃した土地を、いかにして豊かな田畑へと変えるか。民の腹を満たし、心に平穏をもたらす理を、いかにして全国へ浸透させるか。
1571年、新春。富士の山が夕日に赤く染まる中、氏真は自らの執務室で筆を執った。新しき時代の幕が開いた。




