夜明け
1570年冬
駿府の早川殿から一通の文が届いた。内容は、新たな側室候補を見つけたという報告である。
「名は五十鈴姫。伊勢神宮内宮一禰宜の孫娘にございます」
文を読み、氏真は思わず天を仰いだ。なぜ自分の周りには、こうも高貴な女性ばかりが集まってくるのだろうか。いや、天下を統一した者の側室となれば、それ相応の身分が必要なのは理解できる。だが、本人の意図とは裏腹に、氏真の理と銭の支配は、宗教的な権威までをも引き寄せ始めていた。
「…まぁ、今さら何を言っても始まらぬか。全ては自分が選んだ道の報いなのだろう」
苦笑しながら文を畳んだが、氏真の心はすでに、これからの平和という名の困難な戦いに向いていた。日ノ本を統一したとはいえ、反乱の種が尽きたわけではない。奥羽や九州には、今川のやり方に納得がいっていない勢力も多いだろう。力で完全に叩き潰したわけではないからこそ、彼らの心までは砕けていない。
「銭と理を押し付け、敵対することが馬鹿らしくなるほどの余裕を見せるしかない。これには十年、いや二十年はかかるだろうな」
統一は、決して終わりではない。誰もが豊かさを享受できる世を作るための、長く苦しい始まりに過ぎないのだ。
「さて、京に立ち寄り、帝へ静謐の報告を行うとしよう。それが終われば…」
ようやく、家族の待つ駿府へ帰れる。冬の冷たい風を頬に受けながら、氏真は馬を東へと進めた。その背中は、かつての暗君と呼ばれた面影など微塵もなく、新たな時代を背負う、一人の開拓者のものであった。
京の都は静まり返っていた。しかし、その静寂はかつての戦火に怯える沈黙ではなく、新たな時代の到来を待つ、厳かな静謐であった。
西国の遠征を終えた氏真は、その足で京へと向かった。目的は、日ノ本全土の平定を朝廷に報告し、これからの統治の理を盤石にすることにある。雪がちらつく中、氏真は禁裏へと参内し、帝への謁見に臨んだ。
御簾の向こう側にまします、日ノ本の頂点。その計り知れぬ威光を前に、氏真は深く平伏した。
「恐れながら申し上げます。天下静謐使としての重責、この度つつがなく全うしてまいりました。これも偏に主上の御徳の賜物と、深く感謝申し上げます。つきましては、此度の静謐を永劫のものとするため、日ノ本全土の政の差配を今川が預かりたく存じます」
氏真は一息つき、自らが構想してきた統治機構について、言葉を選びながら奏上した。
「新たに『静謐府』を立ち上げ、既に定めました十職の管理下にて諸国の政を行いたいと考えております。ただし、この静謐府は今川家が独断で開くものではなく、あくまで朝廷からの篤き信任を賜った者が開く、公の機関といたしたく存じます。主上の御許しをいただけますれば、これに勝る誉れはございませぬ」
これは、今川という一氏族の覇権を主張するものではない。朝廷という権威の後ろ盾を得ることで、今川の統治に正当性という名の絶対的な鎧を着せるための策であった。
しばしの静寂の後、御簾の奥から重みのある声が響いた。
「既に、朕の心は決まっておる。静謐府初代静謐使、今川左近衛中将氏真。日ノ本を正しく導き、その理をもって民を守り、国を富ませ、静謐を守るために励むが良い」
「ははっ。過分なる御言葉、真に恐悦至極に存じます。粉骨砕身、天下の安寧のために務めてまいる所存にございます」
氏真として、そして転生者として。ついにこの国の全権を預かる天下人として公認された瞬間であった。胸に熱いものが込み上げるのを感じたが、帝のお言葉はそこで終わらなかった。
「うむ。して静謐中将よ、貴殿の嫡男、龍王丸の嫁探しをしていると聞いた。…永尊内親王を降嫁させてはどうかと思うのだ。貴殿の正室として一条の姫を迎えるのであろう? であれば、嫡男と皇室が縁を結ぶことは、何ら不自然なことではあるまい」
氏真は絶句した。 あまりの衝撃に、一瞬、呼吸を忘れた。
(…嘘だろ? 龍王丸に、内親王様が降嫁されるというのか?)
自分だけでなく、いやそれ以上のことだ。まだ幼いあの龍王丸に、帝の娘が嫁ぐ。一条の姫である菫姫を正室に迎えることだけでも、今川の家格は跳ね上がった。だが、これはその次元を遥かに超えている。自分の息子に、現世の神とも言える方の娘が嫁ぐというのだ。
(話の規模が大きすぎて、ついていけない…。西国遠征の疲れのせいか? いや、現実だ。そして言えることはただ一つ、これを断る権利など、今の私に、いや日ノ本の誰にも無いということだけだ)
氏真は必死に動揺を抑え、深々と頭を下げた。
「…格別なる、また勿体なきお心遣い、真に感謝の念に堪えませぬ。我が嫡男、龍王丸は未だ未熟者にございますが、主上にお認めいただけるのであれば、謹んでお迎えさせていただきたく存じます」
かくして天下平定の報告という晴れ舞台は、龍王丸の結婚相手が決まるという、歴史的な政略の場へと変わったのである。
禁裏を退去した後も、氏真の心臓は激しく鐘を打っていた。しかし、決まったことは進めねばならない。婚儀の予定を整理するだけでも、目の前が暗くなるような忙しさが予想された。
龍王丸と内親王の婚儀は三年後の正月。その前年、二年後の正月には、氏真自身と菫姫との婚姻が控えている。 つまり、二年連続で今川の時代を世に知らしめる巨大な祝典を挙行することになるのだ。
「菫姫の屋敷は既に駿府で着工しているが、内親王様をお迎えするとなれば、さらなる規模の御所を建てねばならぬな…。間に合わせねば」
全国から領管、代官、そして従属した大名たちを駿府へと招く。これは実質的な参勤交代の始まりでもあった。今川の圧倒的な物量と権威を見せつけ、戦う意欲を根底から削ぐ。この二連戦の婚儀は、日ノ本の誰もが、今川の時代が始まったと認識せざるを得ない、一種の祝祭となるだろう。
そして、この転換期に合わせ、元号を改めることにもなった。 氏真が提案し、認められた新元号は、「民和」である。
「民が平和に過ごせる時代。そして、『みんな』が幸せに暮らせる時代にしたい」
そんな願いを込めて決めた元号であった。
これから、想像を絶する忙しさが氏真を待っている。正室と側室が増え、嫡男には内親王が降嫁してくる。今川の家格は、もはや武家の限界を突破してしまった。決まったことの大きさに冷や汗をかき、少し休もうと思ったところで、関白・近衛前久から誘いがかかった。
(嫌な予感がする。今日はもう、勘弁してほしいのだが…)
しかし、この策士に背を向けるわけにはいかない。氏真は重い腰を上げ、前久の待つ部屋へと向かった。
部屋に入るなり、前久は不敵な笑みを浮かべて切り出した。
「静謐中将よ。麿は、鷹司家を再興したいと考えておる」
氏真は眉をひそめた。詳しく聞けば、五摂家の一つである鷹司家は現在後継者がおらず、実質的に廃家状態にあるという。外部から人間を入れねば再興は叶わない。ところが、近衛・一条の陣営と、二条・九条の陣営が、水面下でその後継を巡って静かな攻防を繰り広げており、なかなか話が進まないのだという。
「そこでだ、静謐中将よ。貴殿の嫡男には内親王が降嫁するのであろう? であれば、中子はどうだ? 適当な娘と婚姻させ、鷹司を名乗らせるのはいかがかな。父が一条の妻、兄が内親王の妻。これ以上の血筋は五摂家の中にもおらんよ。中将の血を、五摂家という聖域の中に入れられるのだ。悪い話ではなかろう?」
まただ、と氏真は思った。天下人とは、こうも周りが勝手に外堀を埋めていくものなのか。あまりにも全てが噛み合いすぎていて、逆に怖くなる。上手くいきすぎて、何かに騙されているのではないかと、いらぬ心配をしてしまうほどの出来事であった。
「もちろん、すぐにとは言わぬよ。相応の準備も必要だ。二年後が中将の婚儀、翌年が内親王の降嫁。その翌年に、いかがかと思うておる」
前久の言葉に、氏真は必死に思考を巡らせた。次男の五郎丸の将来については、氏真なりに考えていたことがあった。
「左様にございますか。実は五郎丸には、私の側近として長く務めておりました明智中務大輔の娘を嫁に、そう考えておりました。明智は本流ではないと謙遜しておりますが、多田源氏の流れを汲むとも言われております。なんとか、形になりませぬでしょうか」
前久は、くっくと喉を鳴らして笑った。
「そんなもの、どうにでもなろう。家系図なぞ、麿が書き換えてしまえば良い。理屈など、後からいくらでもついてくるものよ」
「はは…。それは、聞かなかったことにいたしましょう」
この男の恐ろしさを改めて痛感した。氏真は、これからの企みに腹を括るしかなかった。
「それでは私の方も、話を進めるよう準備いたします。このことは、どうか内密に」
「そうよの、まずは麿と静謐中将の、密かな企みとしようではないか」
冬の京で交わされたこの密約は、今川家を単なる武家を超えた、統治の権化へと変貌させる決定打となった。
宿舎に戻った氏真は、どっと溢れ出た疲れに身を任せ、布団に倒れ込んだ。
西国の遠征を終え、ようやく一息つけると思っていたが、事態は想像を遥かに超える速さで動き始めていた。「側室に五十鈴姫」「自分は菫姫と婚礼」「嫡男は内親王と婚礼」「次男は摂家を継承」。
「…家族に早く会いたいな」
家族の顔を思い浮かべながら、氏真は意識を失うように眠りに落ちた。外では、新元号、民和の夜明けを祝うかのように、静かに雪が降り積もっていた。




