安堵
1570年秋
早川殿:駿河の秋、浅間の社にて
殿が西国遠征へと発たれてから、早いものでもう半年近くが経ちました。堺の館に居りました頃にはなかなか叶いませんでしたが、今川家が古くよりお引立てしております、富士山本宮浅間大社の秋の例祭に、久方ぶりに参列してまいりました。
お義母様やお義父様には駿府の館の差配をお願いし、私は今川家を代表する身として、富士の麓へと足を運びました。秋晴れの空の下、滞りなく進む祭事を見守っておりますと、領民たちの楽しげな声が境内に響き渡り、今年も大変な盛り上がりとなりました。殿が心血を注いで築かれたこの泰平の世が、駿河の地に深く根付いていることを肌で感じ、胸が温かくなる思いになりました。
祭のすべてが終わり、宮司様方に招かれてお話をしておりますと、「ぜひ御台様にご紹介したい方がおります」と、ある女子を引き合わされました。
その方は、伊勢神宮内宮の一禰宜、荒木田氏の孫娘にあたります、五十鈴姫様という方でした。お話を聞けば、殿が伊勢神宮の式年遷宮のために支援を行ったり、平時にも材木や職人を派遣し、手厚い庇護を尽くされたことに、神領の皆様は深く感謝しておられるとのこと。五十鈴姫様は、殿は側室を迎えぬお方だと聞き及んでいたので、せめて侍女としてでもお側に仕えたいと願い、これまで富士の地にて今川家の家風や駿河の歴史を学びにこられたのだそうです。
ですが、詳しく聞き届けてみれば、姫様の本心はやはり「側室として殿をお支えしたい」という一途なものでございました。
五十鈴姫様がそのようにお望みなのは、決してお祖父様やお父様に言われたからではないそうです。以前、殿が神宮に足を運ばれた際、何度かお言葉を交わす機会があったのだそうです。その折の殿の思慮深い振る舞いや、民を慈しむお姿に触れ、心からお側でお仕えしたいと慕うようになったのだと、頬を染めて語ってくださいました。
お歳は龍王丸とそう変わらぬ若さではございますが、非常に教養深く、神宮の出身なだけあって寺社への理解も並大抵ではございません。殿への純粋な興味と敬愛が共存しているそのお姿を見て、私はこの方を駿府の館へ連れて帰ることに決めました。
私にも心強いお話し相手になりますし、何より、殿を支える良き理解者として申し分ない方だと確信いたしました。
「殿がお戻りになるまでは、私が直々に今川家のことをお教えいたしましょう。学問所に通っていただくのも良いかもしれませんね」
そうお伝えしますと、姫様はぱっと顔を輝かせて喜んでくださいました。殿には、今夜にでもお手紙をしたためてお伝えすることにいたします。西国での厳しい戦いの日々の中で、この新たな出会いが、殿にとって一服の清涼剤となりますよう願っております。
1570年冬
龍造寺隆信という男は、最後まで乱世の徒であった。降伏勧告を撥ね付けた彼は、側近の鍋島直茂を城に残し、自らは全軍を率いて筑前へと突撃を敢行した。死中に活を求めるというよりは、武士としての意地を爆発させたような苛烈な攻勢であった。
前線に配備していた大友軍は、この龍造寺の捨て身の突撃にかなりの動揺を見せ、甚大な被害を出した。一時は戦線が崩壊しかけたが、そこで踏みとどまったのが、今川の命を受けて遥か北の大地から参陣していた大浦や九戸といった屈強な北国の兵たちである。
「南の猛者よ、北の執念を見せてやる」
と言わんばかりの激突であった。雪国で鍛えられた粘り強い戦いぶりが、龍造寺の爆発的な武力を押し返し、包囲網を狭めていった。乱戦の中、隆信をはじめとする主だった諸将は次々と討ち死にを遂げた。一代で成り上がり、九州三強の一角を担わんとしたその手腕、そして肥前の熊と恐れられた勇猛果敢な最期は、まさに乱世の終わりを告げる象徴的な出来事であったと言えるだろう。
生き残ったのは、若き当主・龍造寺太郎鎮賢と、城を守っていた直茂、そしてわずかな家臣のみとなった。 氏真は、直茂を肥前の領管に任じ、鎮賢が立派な大名として育った暁には、肥前の統治を龍造寺に任せるという裁定を下した。直茂という男の知略があれば、亡き隆信の遺した傷跡も、そう遠くないうちに癒えるはずだ。
龍造寺の崩壊を受け、日ノ本で唯一、今川に抗う勢力は島津のみとなった。陸と海を封鎖され、秋の収穫すら奪われた薩摩の兵たちは、飢えと絶望の淵に立たされていた。
島津の兄弟たちの間では、死を覚悟した徹底抗戦か、家名を残すための降伏かで、激しい議論が戦わされたという。最後まで今川の肝を冷やしてやろうという過激な意見もあったようだが、最後に重い口を開いたのは当主の島津義久であった。
「民を、そして家名を、ここで絶やすわけにはいかぬ」
義久は、戦う術を知る島津の人間でありながら、同時に家を存続させることの重みを知る冷静な指導者であった。もし彼らが一致団結して最後まで抵抗を続けていれば、九州は間違いなく焼け野原になっていただろう。無駄な血を流さず、現実的な落とし所を選んでくれた義久の決断に、氏真は心の底から安堵した。
島津家に対しては、美作への転封を命じた。義久は美作で当主として残るが、その弟たちはバラバラに各地へ飛ばすことに決めた。南国薩摩で育った彼らにとって、奥羽や北陸の冬は、骨の髄まで堪える厳しさだろう。だが、その過酷な環境を生き抜くことができれば、島津の剛勇なる名は形を変えて後世に語り継がれるはずだ。
かくして、長かった西国遠征は幕を下ろした。氏真は休む間もなく、この広大な新領土の統治体制を構築した。
山陽道には見事な調略で道を切り開いた筒井順慶、山陰道には西国遠征の責任者としてほとんど損害を出さずにこなしきった井伊直親、西海道には四国・九州の兵にも全く臆せず、その類まれな武力を見せつけた本多忠勝を任命することとした。
特に直親には、「単身赴任が長くなってしまい申し訳ないが、三年間だけ、今川の支配を根付かせるために力を貸してほしい」と頭を下げて頼み込んだ。彼の補佐には、今回の遠征で稀代の軍略を見せた黒田官兵衛を置く。三年後、直親が駿府に戻る頃には、官兵衛が山陰の舵取りを担う立派な指導者になっていることを期待してのことだ。
また、かつての名門たちや功労者にも相応の居場所を与えた。 尼子は出雲、山名は但馬、宇喜多は備前。そして今回の遠征で功績のあった佐竹、大浦、九戸ら北国の面々にも、西国の要職を与えた。
「凍える地から来た者たちだ。これからはこの暖かな西国で、のんびりと豊かさを享受してほしいものだな」
そう語る氏真の顔には、ようやく戦が終わったという安堵の色が浮かんでいた。




