太平丸
1570年春
駿府の今川館に新しい命の産声が響き渡った。早川殿が無事に四男を出産したのである。産後の床で、少し顔色の戻った彼女が抱く赤子を、氏真は愛おしげに見つめた。
「名は、太平丸とする」
氏真がそう告げると、早川殿は慈しむようにその名を口に馴染ませた。日ノ本から戦を失くし、真の泰平を築く。その決意を込めた命名であった 。これで男子が四人。それも健康体だ。この時代の感覚からすれば、もはや早川殿は奇跡の母だと言っていいだろう。
そんな早川殿は少しだけ恥じらうように、しかし強い光を宿した瞳で氏真を見上げた。
「殿、もしこの子が女子であれば、もう若い方に譲るべき。そう考えていたのですが、あともう一度だけ、機会をいただけませんか。この手で、殿に似た女子を抱きたいのです」
その控えめながらも切実な願いに、氏真は苦笑しながら早川殿の手を握った。正室が増えることや側室を探していることもあり、自らの立ち位置について、悩んでいたのだろう。だが、氏真にとって早川殿は何にも代えがたい伴侶である。
「断る理由などない。だが、身体が一番だ。無理はせず、ゆっくりとやっていこう」
早川殿の献身的な支えに感謝しつつ、氏真は西への出陣を決意した 。総大将として先行させている井伊直親に合流するためである。駿府の留守は、嫡男の龍王丸に託した。いまだ幼い我が子を支えるのは、父・義元と、朝比奈泰勝である。
「父上、龍王丸を頼みます。今川にとって最後の大きな戦としてまいります」
義元は、酒杯を置き、楽しげに目を細めた。
「案ずるな、五郎よ。我ら大御所相談役が、この駿府を盤石に守ってやる。そちは思う存分、西の地を理で染め上げてくるがよい」
父の力強い言葉を背に受け、氏真は春風を切り裂き、駿府を発った。
西へと進軍する氏真の元に、北の地から驚くべき早さで朗報が舞い込んだ。東国探題・朝比奈泰朝率いる奥羽遠征軍が、南部家の本拠である三戸城を無血開城させたというのである。
事の顛末は、まさに氏真が目指す、戦わずして勝つを体現したものだった。今川軍が北上を開始し、南部領に入ってもなお、泰朝は強引な力攻めを避けた。代わりに徹底したのは、今川の富と正義の宣伝である。富士札による安定した経済と、朝廷から授かった天下静謐使という大義名分は、国衆たちに抗う意思すら与えなかった。
「戦えば滅び、降れば富む」
この単純明快な理を前に、道中の国衆たちは次々と今川へと寝返った。三戸城にたどり着く頃、今川軍は一滴の血も流すことなく、逆に兵を増やす有様であった。城内に籠った南部勢は、外に広がる圧倒的な質量の軍勢と、全く戦闘が起きなかったという不気味な報告に、完全に戦意を喪失していた。
そこで泰朝は、最後の一押しとして書状を投じた。
「当主の首一つで、一族全員の命を助けよう。家名も残す。今、協力する者は帝への忠義を示す、天下静謐の功労者として称えられるであろう」
この揺さぶりに、南部の内部は即座に割れた。養子である南部信直が、自ら晴政の首を携えて開城を申し出たのである。三日月の丸くなるまで南部領と謳われ、広大な版図を誇った晴政であったが、最後はその身内によって引導を渡されることとなった。彼の政治手腕や武勇に疑いの余地はなかったが、氏真が作り出した理という時代の奔流を読み違え、大きすぎた野心が自らを滅ぼす刃となったのである。
南部領の平定を終え、今川軍はすぐさま次なる段階へ移行した。氏真の従兄である瀬名氏詮を奥羽道領管として残し、現地の統治を盤石なものとする。一方で、戦う余力のある大浦氏や九戸氏らは、今川の軍門に下ると同時に毛利攻めの先鋒を志願した。
「泰朝と元信。この二人が奥羽で見せた連携は、今後の今川を支える大きな糧となろう」
氏真は報告を読み、満足げに頷いた。東国探題として共に戦った泰朝と元信は、この遠征を通じて互いの実力を認め合い、強い信頼関係を築いていた。引き継ぎが終わり次第、彼らは東海府と近畿府の領管として戻り、氏真の機能的国家を支える中心人物となる。北の憂いが消えた今、全ての網は西へと絞り込まれつつあった。
駿府を出発して十数日、氏真は畿内を迅速に抜け、備前の地へと足を踏み入れた。宿敵・毛利を眼前に捉えるこの地に、今川の威信をかけた大軍勢が集結しつつある。
到着早々、氏真の元に小姓の本多忠勝から息つく暇もない報せが届いた。
「長宗我部、降伏いたしました!」
四国を席捲した一領具足の精強な進軍も、土佐の山間に響いたゲリラ戦の叫びも、今川の圧倒的な物量と、水軍による海路封鎖の前には無力であった。忠勝は氏真の指示通り、元親を徹底的に追い詰めつつも最後には助命を条件に降伏させたという。元親は今、忠勝の監視下で次なる西国攻略の準備に協力させられている。
「北の南部、四国の長宗我部…。一月も経たぬうちに、どちらも落ちたか」
氏真は備前の本陣で、地図を指でなぞった。残るは西の雄・毛利、そして九州のみである。隣国が瞬く間に今川の理に飲み込まれていく光景は、彼らの耳にも嫌というほど届いているはずだ。
「無用な血を流す必要はない。恐怖ではなく、絶望的な格差を見せつけてやればよいのだ」
氏真の瞳には、すでに戦の後の景色が見えていた。戦わずして勝つ、あるいは戦う前に心を折る。それが氏真の、乱世に対する最後にして最大の洗礼であった。




