期限
1570年春
日ノ本の歴史を塗り替える天下の大号令、その最終回答期限を迎えた。
駿府の広間に広げられた地図の上には、依然として今川の理に従わぬ勢力が点在している。北の南部、山陰山陽を統べる毛利、南海の雄・長宗我部。そして西海では、いち早く恭順を示した相良を除く諸勢力。これらを多いと見るか、少ないと見るか。氏真の目には、概ね事前の予測通りであると映っていた。
明るい兆しもある。最後まで粘り強く抵抗の構えを見せていた会津の蘆名や播磨の別所が、ついに折れて軍門に降ったことだ。これにはそれぞれ藤吉郎と官兵衛の二人が、泥臭く、かつ執拗に働きかけてくれた功績が大きい。戦わずして勝つ―その価値を正しく理解し、実行できる彼らこそ、氏真が最も重用する天下静謐のための駒であった。官兵衛は以前の約束通り、直接今川に仕えることになった。今や西国遠征の中心メンバーだな。
氏真は静かに命を下す。静謐使としての武力執行は、三方向同時に開始されることとなった。
まず着手すべきは、山陰山陽に根を張る毛利である。毛利元就が築き上げたこの版図はあまりに巨大だ。一度の野戦で全てが瓦解することなどあり得ない。だが、巨大であるが故に、その内実は決して一枚岩ではない。氏真は、そのわずかな綻びを徹底的に突く策を練り上げた。
戦の主軸は、但馬の山名祐豊、美作の尼子勝久、そして備前の宇喜多直家。これらを連携させ、因幡、伯耆、備中備後へと一斉に兵を向かわせる。
氏真が全軍に徹底させたのは、毛利の得意戦術に絶対に乗らないことだ。 海上からの奇襲と補給路の確保を得意とする村上水軍に対しては、三好家から安宅冬康を招き、安宅水軍をぶつける。深追いする必要はない。ただ巨大な安宅船を海上に並べ、組織的な行動を封じれば良い。こちらが海に居るという事実そのものが、村上に対する強烈な圧力となるからだ。
備中備後方面は、宇喜多直家に任せることにした。毒蛇と恐れられる直家が先陣に立てば、国衆は猛烈な警戒心を抱き、かえって頑なになるだろう。だが、氏真にとってそれこそが好機であった。
「直家の首輪を握っているのは、この今川だ」
頑なになった国衆に対し、直家の主人として慈悲を説く。備前の再来、あるいは浦上の再来を望むのか。壊される前に、狂犬ではなく今川に降れと迫るのだ。既に出雲には尼子と山名が入り、北と東から包囲網を狭めている。毛利という遠い主を頼るか、直家すら飼い慣らす今川の理を頼るか。彼らに残された時間は、極めて少ない。
因幡、伯耆、出雲の攻略については、かつての盟主である山名と尼子の名を最大限に利用する。圧倒的な物量を見せつけつつ、「これは裏切りではなく、旧主への復帰であり、天下のための正当な行いである」と正当化してやるのだ。心理的な障害を取り除けば、国衆の寝返りは雪崩を打って進むだろう。 同時に、かつて山名や尼子に敵対した者たちに対しても、今の主君は今川である。と厳命し、私怨による殺戮を禁じた。この繊細な調略の舵取りは、官兵衛に委ねられた。
要所である月山富田城を守る天野安房守隆重と吉川元春、備中高松城を守る小早川隆景は最後まで粘るだろうと氏真は踏んでいた。ここは無理攻めをしても、被害が大きくなるだけだ。毛利の一門の絆は深い。早々に降伏をすることは望めない。であれば、周囲を囲み、補給を断ちつつ、先に進めば良い。難攻不落の城とて、無視してしまえば意味がない。射程外に道を通し、その奥を落としてしまえば後詰めも出来なくなる。将を無駄に配置するだけになるな。
次に、土佐の長宗我部元親である。 ここは三好軍との共同戦線となる。氏真は本多忠勝に一万の精鋭を託し、西から三好、東から今川という形で土佐を挟撃する布陣を敷いた。海上は九鬼水軍に封鎖させ、元親を本拠である岡豊城に押し込める。
長宗我部が最も得意とするのは、険しい地形を利用したゲリラ戦だ。これに対し、氏真はかつて飛騨の山岳地帯でその勇名を轟かせた飯富虎昌を筆頭に、大和や飛騨から集めた山岳戦のスペシャリストたちを直轄軍として投入した。目には目を、の戦術である。 さらに、伊賀の者たちに作らせた精密な地図が、地元の利というアドバンテージを無効化する。敵が背後を取ったと確信した瞬間、そのさらに背後に今川の旗が立っている―そんな、予測不能の恐怖を長宗我部軍に植え付けるのだ。
氏真の計算では、南海道の平定は毛利戦よりも早く決着するはずであった。元親という男の才覚を、氏真は高く評価している。ゆえに忠勝には、「弥三郎を絶対に殺すな」と念を押した。彼にはまだ、今川の統治下で果たしてもらうべき仕事があるからだ。
そして最北の南部である。 ここについては、もはや軍を動かすまでもなく大勢が決していた。既に南部家臣団の有力者である大浦為信や九戸五郎政実が今川に内通しており、組織的な抵抗は不可能な状態にあった。唯一の懸念は、北国の峻険な自然と、川という天然の要塞に守られた三戸城の堅牢さであったが、それすらも内側からの亀裂には抗えない。
南部家の現当主・晴政に、待望の実子が産まれたという。本来なら慶事であるが、この時期においては家を滅ぼす毒となった。家督を継ぐはずだった養子・信直を廃し、産まれたばかりの幼児に跡を継がせようとする晴政の独断は、家中に修復不可能な不信感を植え付けていた。
「わが子が可愛いのは道理だが、家を守るというのはそれだけでは済まぬものよ」
氏真はこの内紛に、容赦なく付け入る。南部家臣団に対し、「晴政の首を差し出せば、信直を正式な当主として認め、家名存続を約束する。民の命も保障する」という条件を提示した。 大浦、九戸、さらには安東や伊達といった周囲の勢力が城を包囲する中、主君への忠義か、それとも家と民の生存か。首一つで全てが決まるという究極の選択を前に、彼らが悩む余地など、もはや残されていなかった。
一方、北条氏政と上杉輝虎には、奥羽の諸将が万が一にも変心を起こした際の防波堤として、後詰めの位置に留まらせた。特に北条には、常陸の仕置を任せている。佐竹義重は忠勝と共に長宗我部攻めに同行させており、主がいなくなった常陸を今川の法と秩序で塗り替える。それが、氏真が描いた東国の最終図面であった。
氏真が放った静謐という名の猛威が、日ノ本を覆い尽くそうとしていた。




