正室
1570年冬
年が明けたというのに、氏真の心は晴れなかった。 昨年末に早川殿と交わした、側室を巡る会話が、まるで喉の奥に深く刺さった棘のように、いつまでも抜けないでいたからだ。
氏真は、己の情けなさに打ちひしがれていた。
「私の行いが、最も愛すべき妻を、そして忠義を尽くす家臣たちの選択をこれほどまでに苦しめていたとは…」
氏真は彼女を愛し抜くことが最良の道だと信じて疑わなかった。側室を持てという重臣たちの声を遮り、早川殿が三人の子を健やかに産み育ててくれたことで、その重責からは解放されたとばかり思っていた。家臣たちには「側室を持つも持たぬも自由だ」と説き、信長などが数人の側室と上手くやっているのを見て、それで良いのだと納得していた。
だが、それは氏真の独りよがりに過ぎなかったのだ。氏真が側室を持たないことが、早川殿を、主君に側室を許さぬ嫉妬深い女。という汚名に晒していた。家臣たちは主君の顔を窺い、自分たちも欲望を律せねばならぬのかと溜息をついていた。
それを早川殿自身の口から言わせてしまった。天下を平らげようとする男が、足元の妻の尊厳さえ守れていなかったという事実に、氏真は自嘲の笑みを浮かべるしかなかった。
恒例となっている帝への新年謁見のため、氏真は京へと上った。 華やかな正月の空気とは裏腹に、氏真の頭の中には冷静な戦略図が広がっていた。まずは年始の挨拶を滞りなく終え、帝へと天下の大号令の進捗を報告した。
「大号令の締め切りは間近に迫っております。現状を申し上げます」
氏真は言葉を選びながら、各地の動静を伝えた。北の南部大膳大夫はいまだ返答を寄越さぬが、その懐刀である大浦為信をはじめ、九戸や閉伊といった主要な国衆の多くがすでに氏真へと内通している。冬が明け、雪が解けるとともに、南部という組織は内側から崩壊するだろう。
「南海の長宗我部、そして山陰山陽の毛利はいまだ抗う構えを見せております。西海においては大友と龍造寺が接触を繰り返しておりますが、未だ条件闘争の域を出ませぬ。彼らは東という壁がある限り、自分たちまでは手が及ばぬと高をくくっております。しかし、肥後の相良がこちらに付いたことは極めて大きい。これが西海平定の楔となります」
氏真はすでに長宗我部と毛利への侵攻準備を完了させていた。南部は春とともに片付ける。九州は四国を平らげた後、その勢いをもって一気に飲み込む。報告を終えた帝の満足げな表情を見届け、氏真は重い足取りで関白・近衛前久のもとへと向かった。
「ちと元気が無いのではないか? いかがした、静謐中将」
前久は、点てたばかりの茶を差し出しながら、見透かしたような目を氏真に向けた。氏真は深く溜息をつき、包み隠さず胸中を吐露した。
「…実は、早川殿から側室を持てと言われまして。私が彼女を想って側室を持たなかったことが、逆に彼女を苦しめる風評を生んでいた。私の無知が彼女を傷つけていたのかと思うと、やるせなくて…」
「なるほどのう」
前久は茶を啜り、事も無げに言った。
「して、側室は持つことに決めたのか?」
「ええ。どなたか良い方がいれば、と思ってはいるのですが…」
「実はの、今回の号令で、土佐一条家が長宗我部の猛攻から解放されたであろ。一条家当主の一条権大納言内基は中将殿に大変感謝しておってな。その縁で、妹君の嫁ぎ先を探しておるのだ。どうだ、静謐中将?」
氏真は目を丸くした。
「恐れながら、五摂家である一条家の姫君でございますか? 私にはあまりに家格が違いすぎます。それに、そのような高貴な方を側室に迎えるわけには参りませぬ」
「では、正室としたら良い」
前久は事も無げに続けた。
「摂家からの妻だ。これ以上ない天下静謐使への箔付けになるであろ? すでに一条殿とも話はしておる。是非にと言っておったぞ」
あまりに鮮やかな手際に、氏真は絶句した。側室を増やすはずが、朝廷との盤石な繋がりを持つ正室を迎えることになるとは。しかし、天下平定の大義を掲げる身として、この申し出を断る選択肢は氏真にはなかった。
「…分かりました。では私から権大納言様に、改めてお話に伺います」
京の屋敷で対面した一条内基の妹、菫姫は、冬の陽だまりのような静かな気品を纏っていた。昨年裳着を終えたばかりだという彼女は、深々と頭を下げた。
「行き遅れるのではと案じておりましたが、あのかの有名な静謐中将様のもとへ行けるとのこと、心より感謝申し上げます。公家の娘として武家の理には疎い点もありますが、中将様のお力に少しでもなれればと存じます」
氏真はその初々しくも芯の強そうな言葉に、申し訳なさが込み上げた。
「今川左近衛中将氏真と申します。かような年配者で申し訳ない。正室としてそなたを丁重に迎え入れたいと思う。だが私はこれから戦に参る身。婚約の上、婚儀は今しばらくお待ちいただきたい。勝手な願いで申し訳ない」
「とんでもございません」
菫姫は柔和に微笑んだ。
「中将様が静謐のために尽力されていること、京でも聞き及んでおります。ご無事のご帰還、心よりお待ち申し上げます」
駿府に戻った氏真は、出迎えた早川殿の前で、躊躇なく畳に額を擦り付けた。 側室を増やすという話が、いつの間にか摂家から二人目の正室を迎えるという大事になってしまったのだ。氏真は、この上ない背徳感と申し訳なさに震えていた。
「…御前、すまぬ! 側室をと思っていたのだが、関白殿の仲立ちで一条家の姫君を正室として迎えることになってしまった。私にはそなた以外の妻を迎える甲斐性など無いというのに…!」
氏真が必死に謝罪する中、早川殿は驚くこともなく、穏やかな笑みを浮かべて氏真の肩に手を置いた。
「殿…。殿ほどの方には、そのような方こそ相応しいと、私は思っておりました。謝ることなどございませんよ。きっと、一緒に殿をお支えしてくださる方だと思います。駿府で共に過ごせる日々が待ち遠しいですね」
その慈愛に満ちた表情は、まさに聖母そのものであった。氏真は、勧められるがままに妻を増やしている己の状況が、客観的に見れば極悪非道にさえ感じられた。天下を震え上がらせる静謐中将も、愛する妻の前ではただの小心者である。
「すまぬ、御前。本当に、すまぬ…。だが私は、何があろうとそなたを…」
氏真の情けない言葉を、早川殿は優しく包み込んだ。これから始まる西国遠征。戦場での死闘よりも、この家の中での誠実さをどう保つかということの方が、氏真にとっては困難な戦いになるのかもしれない。静謐への道は、未だ険しく、そして予想外の方向に広がっていた。




