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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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悪評

1569年冬

「……これが、天下の中将様のお力か」


 肥後、人吉城の奥深く。届けられたばかりの木箱を開けた相良頼房は、そこに並ぶ黒光りする鉄砲の列と、山積みの弾薬、そして貴重な米や塩を前に、言葉を失っていた。


 東国でその名を轟かせる雑賀衆や根来衆が、今川の中将に忠誠を誓っているという噂は聞いていた。だが、まさかこれほど過酷な海を越え、敵対勢力の目を盗んで、最果ての地にまで物資を届けてくれるとは。はじめは、ただ「従属を誓っておけば、島津が少しは尻込みするだろう」という、自らの保身を優先した浅ましい考えであった。それが今や、届いた軍備をもって、猛攻を仕掛けてくる島津を押し返せるほどになったのだ。


 頼房は、遠く駿府の空を仰ぎ見た。


「自らの浅ましさが恥ずかしい。中将様は膨大な銭と人員を割いて、名もなき我らに手を差し伸べてくださった。これに応えねば武士ではない」


 もはや領土がどうとか、名誉がどうとか、そんな小さな話はどうでもよくなった。頼房の胸に宿ったのは、かつてない高揚感―自分は今、天下を創るという大仕事の一部を担っている。という誇りであった。


「任せてください、中将様。この地を死んでも守り抜く。あなたが海を越えて来られた時、我らが背後から島津を突き、道を切り開いてみせましょう。この命、すべてあなたに捧げます」



 一方、北の最果て、陸奥。大浦為信は、主君である南部晴政のあまりの頑迷さに、冷ややかな怒りを覚えていた。


「天下の大号令に、返事もしないことに決めた、だと? 正気か、あの御仁は」


 今や日ノ本のほぼ全域を掌握しつつある今川に対し、たかだか北の一大名が無視を決め込む。それがどれほどの破滅を招くか、為信には手に取るように分かっていた。奥羽では伊達が早々に下り、欲をかいた蘆名もついに折れた。残るは、孤立無援の南部のみだ。


「誰がそんな泥舟に残り続けるか。俺はまだ、ここで朽ちるつもりはないぞ」


 すでに為信は今川の中将に密使を送り、内密に従属を誓っていた。それどころか、津軽の者たち、九戸や閉伊といった南部傘下の国衆たちも、水面下で次々と今川へ靡いている。南部という旧態依然とした組織に留まることが、いかに割に合わないことか、誰もが気づき始めていたのだ。


 今川は、外様であっても能力があれば重用するという。西国ではまだ戦が続いていると聞く。ならば、この北の閉塞した大地で主君の意地のために家族を道連れにするより、一騎当千の活躍を見せて新時代の階段を駆け上がる方が、よほど合理的ではないか。


「これは反逆ではない。天下の『理』への参加だ」


 為信の瞳に、野心と理性が火花を散らす。この好機、逃すわけにはいかない。



早川殿:正室の覚悟、愛ゆえの願い

 しんしんと冷える駿府の冬ですが、私の心は、少しずつ大きくなってくるお腹をさするたび、温かな幸福感で満たされます。これで四人目…。殿から授かった新しい命を、こうして大事に、大事に育む時間は、私にとって何物にも代えがたい愛おしいひとときです。


 ふと、これまでのことを思い返します。幸運なことに、三人の子供たちは誰一人欠けることなく、毎日元気に走り回ってくれています。この時代、それがどれほど稀有で、ありがたいことか…。


 殿が私に授けてくださり、ともに広めた石鹸。そして学問所で皆に説いている衛生の教え。その一つひとつが、子供たちの小さな命を守り、強く育ててくれているのです。 殿はとにかく私の無事を、そして健康を願ってくださいます。これほどまでに妻を慈しみ、想ってくださる旦那様は、日ノ本のどこを探しても、他にはいらっしゃらないでしょう。


 先日、殿が龍王丸の伴侶について、ふと私に相談されました。


「龍王丸が自由に相手を選び、自ら見初めた人に婚姻を申し入れる。…そんなふうに、彼自身の意志を尊重してやるのはどうだろうか」


 殿は真剣な眼差しでそう仰いました。


 確かに、同盟や外交の道具として嫁ぐことは、必ずしも幸せになれるとは限りません。ですが、私は殿にこうお返しいたしました。


「殿…私のように、政略による婚姻であっても、これほど幸せになれる者もおります。私自身がそれを否定してしまえば、それは、殿とのこれまでを、殿ご自身を否定することに思えてしまうのです」


 すると、殿はひどく狼狽して、


「す、すまぬ! そんなつもりで言ったわけではないのだ。私も御前で…いや、御前が良いのだ!」


 と、顔を赤くして慌ててお答えになりました。普段、天下を相手に堂々と差配されている殿が、あのように慌てふためく姿はとても珍しく、私はつい、愛おしさのあまりからかってしまいたくなりました。


 ですが…そんな殿の優しさに甘えてばかりはいられません。 私は、決意を固めて切り出しました。


「殿、その件は、お義父上様にも相談してみましょう。それと、私からも、もう一つ大事なお話がございます。…これまで殿は、私をとても、とても大切にしてくださいました。ですが、ここのところで急激に今川の勢力が拡大し、家臣の方々も増えましたわね。…今、皆様の間では、私のことが『殿に側室を持たせない、嫉妬深い女』だと思われているようなのです」


 殿は驚き、絶句されました。


「そんな、嫉妬深いなどと…。私はただ、御前のためを思って…」


「わかっております。殿が私を想って、側室を持たぬようにしてくださったこと、そのお気持ちは充分に、痛いほど感じております。ですが殿、周囲の方々は、なかなかそうは思っていただけないものです。遠方の方々は、主君が持たぬ以上、自分たちも側室を持ってはいけないのだと嘆いているとか。これでは、大事な世継ぎの男子が産まれず、家名が途絶えることにもなりかねません」


 今川家は今や、日ノ本の希望です。その家名に影を落とすようなことがあってはなりません。


「私には出過ぎた真似かもしれませんが…どうか、側室をお迎えください。それが殿のため、今川のため、そして私の誇りのためでもあるのです」


 殿はしばらく立ち尽くし、やがて深い溜息をついて謝られました。


「…すまぬ。御前のために良かれと思っていたことが、逆に御前を苦しめていたのだな。本当に、すまなかった」


「謝らないでくださいませ。殿の深い愛は、私が一番よく知っておりますから」


「…わかった。では、天下静謐に目処が立つ頃には迎えるようにしよう。それまでに、良き人を探さねばならないな」


「私のほうでも、殿に相応しい方を心を込めてお探しいたします。殿、無理なご負担をおかけして申し訳ありません」


 私がそう頭を下げると、殿は私の肩を優しく抱き寄せ、力強く仰いました。


「いや、御前が謝ることはない。なんとしても、御前の悪評などは私が取り払ってみせる。…しばし待ってくれ」


 その頼もしいお言葉に、私は胸がいっぱいになりました。 このお腹の子が産まれる頃には、新しい今川の形ができていることでしょう。 私は、この慈愛に満ちた殿と共に、新しい時代を歩んでいけることを、心から誇りに思うのです。

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