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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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慈光

1569年秋

 秋風が涼しくなり始めたある日、氏真は妻・早川殿から四人目の子を授かったことを告げられた。


「四人目か…。それは喜ばしいことだ!だが御前、無理はしないでくれよ。これから先の季節は冷える。暖かくして、それにたんまり食べるんだぞ」


 氏真は彼女の手を握り、心底からの労いを伝えた。この時代、出産は命がけである。三人の子が皆健やかに育っていること自体、奇跡のようなものだ。だが氏真はそれを単なる幸運で終わらせるつもりはなかった。


 今川領内では、氏真の主導により、衛生革命が進行している。早川殿が作り、領内に広めた石鹸が、すべての民が当たり前に使っている。


「病の多くは、目に見えぬ汚れから来る。食事の前には手を洗い、身体を清めるのだ」


 学問所を通じて広められたこの単純な教えが、乳幼児の死亡率を劇的に低下させていた。


 さらに、氏真が制定した子宝法も大きな成果を挙げていた。


「産まれてきた子は今川の宝である」


 人別帳への登録をすることによる米の支給により、この時代の悲しき常識であった間引きは今川領内から姿を消しつつある。だが、人口が増えれば当然、食糧や土地の問題が再燃する。


(今の常識では、避妊などという概念は薄い。産んでから、どうにかする。それを変えねばならん)


 家族計画という概念をどう説くべきか。氏真は悩んだ。だが、依然として幼い命が病で消えるリスクは他国に比べれば低いとはいえ存在する。産めるうちに産んでおきたい。という、女性たちの本能的な願いも無視できない。


「焦らず少しずつ、だな。まずは子供たちが、冬を越せるだけの滋養と安静を確保しよう」


 氏真は、命を繋ぐことの重みを、秋の夕暮れの中で深く噛み締めていた。



 九州、肥後の相良頼房へ送った支援物資の第一陣は、概ね成功裏に届いたとの報告があった。


「やはり頼りになるな」


 彼らは氏真が用意した金を懐に入れ、物資を巧妙に隠し、時には力ずくで道を切り開いた。


 道中、大友領内を通る際、あからさまな荷物検査や、野盗を装った小競り合いがあったという。


「金を受け取っておきながら、大友はまだ静謐の重みを理解していないようだな」


 怪我人まで出たと聞き、氏真の瞳に冷たい光が宿った。どれほど甘い言葉で交渉してこようとも、一度でも実力行使を見せた者を安易に許すつもりはない。



 そんな折、堺の屋敷に住まうルイス・フロイスがわざわざ駿府までやってきた。


「中将様、良き理解者である大友を優遇してはいただけませんか。彼はデウスの教えを広める尊き友なのです」


 フロイスは殊勝な態度でそう切り出した。


 氏真は内心で舌打ちした。


「フロイス殿。以前、政には口を出さぬと約束したはずだぞ」


「ええ、もちろん理解しております。ですが、これは政ではなく、友を助けたいという私情にございます」


(私情だと? お前たちが本国と何を企み、物をどう動かしているか、こちらには筒抜けなのだぞ)


 氏真はその言葉を飲み込み、静かに、しかし断固として告げた。


「そなたには友かもしれぬが、私には友ではない。私は私情で国を治めるつもりはないのだ。大友が、他の大名と同じように正規の手順で従属を申し出れば、私はいくらでも受け入れる。それをせず、自分だけは特別な条件を引き出そうと小細工を弄しているのは、あちらの方ではないか」


 宗麟のような条件闘争を繰り返す手合いは、戦が終わった後も利権を手放そうとせず、内部に火種を残す可能性が高い。氏真が目指すのは、一見平和に見えて内部が腐った社会ではない。透明で均等な法治国家である。


 とぼとぼと帰っていくフロイスの背中を見送りながら、氏真はキリスト教についても考えを巡らせた。


「教えそのものを否定はせぬ。信じたい者は信じればよい。だが、信仰を盾に法を曲げ、組織の秩序を乱すことは断じて許さぬ」


 一度、その理を物理的な重みをもって教え込む必要があるかもしれない。相良への支援を強化し、大友の影響力を削ぐ。それが九州を静謐へ導く最短ルートであると、氏真は確信していた。



 秋が深まる頃、越後に華やかな吉報が舞い降りた。上杉家の後継者、長尾喜平次景勝と、今川の養女となった松の婚儀が、無事に執り行われたのである。かつて妹の藤が三好に嫁いだ時にも勝るとも劣らぬ盛大な式典であった。


「これで、今川は北条、三好、上杉と血の繋がりを得た。家中の武田も含めれば、日ノ本の主要な動脈はすべて今川の縁戚で繋がったことになるな」


 氏真は、地図上の同盟国たちを眺めた。かつての三国同盟とは比較にならないほど強固な今川連合が、今や日ノ本の土台となっていた。


 そして、氏真の視線は隣で静かに書を読んでいた龍王丸に向けられた。


「龍王丸も、もうじき十か」


 そろそろ嫡男の将来を考えねばならない。同盟国から娶るか、名門の公家から迎えるか、あるいは…。


「自由恋愛、などと言い出したら家中はひっくり返るだろうな」


 氏真は苦笑した。早川殿と仲睦まじく過ごしている自分だからこそ、息子にも愛する者と共に歩んでほしいという願望がある。


「皆に相談してみるか。龍王丸の伴侶選びは、今川の次の百年を決める大事な仕事だ」


 秋の夜長。今川館には、平和を願う慈光と、迫りくる決戦の予感が同居していた。氏真は、これから迎えるであろう激動の一年に向け、静かに刀を研ぎ澄ませていた。

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