隠居
1568年冬
北条との和睦を機に始まった、上杉輝虎との積極的な文の往復は、今や氏真にとって欠かせぬ外交の柱となっていた。ある日、輝虎から届いた書状には、これまでの苛烈な戦の日々からは想像もつかぬような、穏やかな、しかしどこか寂寥感の漂う言葉が綴られていた。
「西と南は、友である中将が管理する安全な今川領に囲まれ、北東の脅威も消えつつある。毘沙門天の導きか、私が刃を振るうべき場所は、もう終わりなのかもしれぬ。もともと静かに過ごすことを好む身。養子・喜平次に家督を譲り、彼を支えながら穏やかな余生を送りたいと考えている」
氏真は、その文を読み終えると、ふっと溜息をついた。
(あの輝虎が隠居だと? 乱世の象徴とも言える男が剣を置くというのか。だが……)
氏真は、地図を広げた。越後の北東には依然として蘆名盛氏が粘り、さらにその先では、野心家・伊達輝宗が蘆名の衰退を好機と見て、周辺の国衆を飲み込もうと牙を剥いている。このまま輝虎が引けば、伊達という巨大な野心が今川・上杉の境界に迫ってくることは明白であった。
氏真は即座に返信を書いた。それは、引退を望む軍神への最期の餞別でもあった。
「弾正殿。お気持ちはよくわかる。だが北の憂いは完全には消えていない。もし弾正殿にご助力をいただけるのであれば、北の掃除をしたいと考えております」
さらに、氏真は将来の楔として婚姻を提案した。
「喜平次殿の正室を、今川から出したいと考えております。私に娘はおりませんが、重臣の娘を養女として送り、上杉と今川の血を分かちたい。穏やかに過ごすためにも、北の憂いを絶ち、豊かさを手に入れる必要がありましょう」
氏真の文は、輝虎の隠居したいという個人的な願望を、平和な世を作るための最後の義務へとすり替えるものであった。軍神が再び動くか、あるいは真に静寂を選ぶか。氏真は、その返答が北の歴史を決めると確信していた。
北の軍神と文を交わす一方で、氏真は西の火種にも向き合っていた。堺の館を訪れたのは、備前の浦上宗景の使者、岡本太郎左衛門氏秀である。三好家を通じて今川の支援を打診してきた浦上家にとって、今や氏真は唯一の、そして絶大な救いの神であった。
「三好殿より、中将様もご支援いただけるとの報せ。誠にありがたき幸せにございます。浦上与次郎が家臣、岡本太郎左衛門、命に代えてもお礼申し上げます」
氏真は、平伏する太郎左衛門を見下ろしながら、あえて厳しい口調で問いかけた。
「礼は良い。それよりも、備前の有様はどうなっている。宇喜多という男が、主君である与次郎殿を食い破ろうとしていると聞くが?」
氏秀は苦渋に満ちた表情を浮かべ、備前の惨状を語り始めた。
「…はっ。家臣である宇喜多和泉守は、もはや独立した領主のように振舞い、西の毛利と密かに通じております。主君の座を狙うその眼光、まさに毒蛇。しかし、和泉守の武略がなければ、周囲の圧力を凌ぐことができぬのも事実。内には毒を飼い、外には狼を抱えている。我が主君は、まさに生きた心地がせぬ日々を過ごしております」
宇喜多直家。その名は氏真の耳にも届いている。暗殺、裏切り、調略を呼吸のようにこなす、乱世が生んだ怪物だ。今の浦上家では、その毒を制しきれない。
「太郎左衛門よ。一つ、突拍子もない提案をしても良いか」
「はっ、何なりと」
「与次郎殿、そしてそなたら重臣一同で、備前の地を離れてはいかがか」
氏真の言葉に、太郎左衛門は息を呑んだ。
「お、土地を捨てよと…?」
「そうだ。宇喜多を排除して毛利と戦うのは、あまりに犠牲が多すぎる。それならば、備前の統治権を今川に預け、そなたらは今川領内の安全な地、あるいは新たに平定する領地へ国替えという形を取る。そうすれば、宇喜多の刃に怯える必要も、毛利に踏み荒らされる心配も、一切なくなるのだ」
太郎左衛門は沈黙した。実は、彼自身も、このまま備前にいても、いつか直家に殺されるだけだ。という恐怖を抱いていたのだ。氏真の提案は、まさに心の奥底を見透かしたものであった。
「…恐れながら中将様。某も、許されるのであれば地を差し出し、平穏を買いとうございます。ですが、主君が先祖代々の地を捨てる決断ができるかどうか…」
氏真は低く笑った。
「ならば、こう伝えよ。『今川の中将が、備前を明け渡せと言ってきた。拒めば支援を打ち切ると脅された』とな。そなたが提案したのではない。私が、私の理のためにそう命じたのだ。主君にはそう言い訳をさせてやればいい」
「中将様…」
「太郎左衛門。決断を急かすつもりはない。だが、毒蛇が鎌首をもたげてからでは遅いのだ。今川という巨大な傘の下で、安全な生活を送るか。それとも備前という泥沼で、いつ終わるともしれぬ恐怖に耐えるか。与次郎殿によく考えさせるがいい」
太郎左衛門は、氏真の圧倒的な覚悟と逃げ道の鮮やかさに震えながら、備前へと帰った。
北には隠居を望む軍神。西には死を恐れる旧勢力。氏真は、彼らが抱く平和への渇望を、自らの静謐という巨大な構想の歯車として組み込んでいく。冬の風は冷たかったが、氏真の胸中では、戦わずして領土が平定される春の景色が、すでに形を成しつつあった。
「さて、来年になれば静謐使の正式任命だ。それまでに、この日ノ本の隅々まで、今川の理を染み渡らせておかなければな」
独りごちる氏真の瞳には、雪のように清らかな、しかし揺るぎない統治の意志が宿っていた。




