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暗君と呼ばれた男  作者: 蜜柑次郎


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107/123

時代

1568年夏

 初夏の風が駿河の茶畑を揺らす頃、今川家、そして日ノ本全土に激震が走った。


「大御台所様、危篤」


 その報に、堺で政務を執っていた氏真と早川殿は、すべてを放り出して駿府へと馬を走らせた。しかし、あとわずか、一日の差で最期には間に合わなかった。


 今川家の女将軍として支え続けた寿桂尼が、その波乱に満ちた生涯を閉じたのである。大往生であった。



 駿府、竜雲寺で行われた葬儀には、今川家の重臣のみならず、近隣諸国からの使者や、彼女が学長を務めた学問所の教え子たちが数千人と詰めかけた。


 氏真にとって、寿桂尼は単なる祖母ではなかった。彼女は今川の伝統そのものであり、同時に氏真が推し進める理の変革を、いち早く理解し、老練な政治感覚で補完してくれた最高のパートナーであった。


「…最後は、安らかなお顔でございました。今川の繁栄をその目で見届け、何も思い残すことはないと、そう仰るかのように」


 早川殿は、寿桂尼の亡骸を前に、静かに涙を拭った。早川殿にとっても、寿桂尼は武家の女としての規範であり、憧れの存在であった。


 今川家全体が深い喪に服した。しかし、氏真は悲しみに暮れる暇を与えられなかった。寿桂尼が亡くなったことで、今川家の内部構造に一つの大きな穴が開いたことを、重臣たちが敏感に感じ取っていたからである。


 葬儀の喧騒が落ち着いたある晩、家老の三浦正俊、庵原忠政、瀬名氏俊の三名、そして若狭領管を務める小原鎮実が氏真の前に現れた。彼らは今川家の古き良き時代から義元、そして氏真の二代にわたって忠義を尽くしてきた宿老たちである。


「殿。折り入ってお話がございます」


 正俊が、かつてないほど引き締まった、しかしどこか晴れやかな表情で口を開いた。


「我ら老兵、来年の春をもって、役目を退かせていただきたく存じます」


 氏真は言葉を失った。寿桂尼を失った直後に、今川を支えてきた屋台骨たちが一斉に身を引くという。


「皆…。老いたなどと謙遜してくれるな。そなたたちは今川の知恵袋だ。私の歩むべき道を示してくれた教科書ではないか。今、そなたたちに去られては、私は…」


「殿。お言葉ですが、我らはもう時代遅れにございます」


 忠政が、泣き笑いのような顔で氏真を見つめた。


「大御台所様が亡くなられ、時代の風が完全に変わったことを肌で感じております。殿が作ろうとしておられる静謐の世は、算盤と法、そして迅速な判断が求められる新時代。我らのような泥臭い戦を生き抜いてきた者たちが中心にいては、若き才ある者たちの邪魔になりまする」


「それに、本音を言えば…体力が、もう持ちませぬ」


 氏俊が苦笑いを浮かべた。


「殿の変革の速さに食らいつこうと必死でございましたが、そろそろ腰も膝も悲鳴を上げております。これからは、殿の側に立つのは半兵衛殿や源五郎殿といった若き獅子たちの役目。我らはその後ろ姿を見守り、迷ったときにだけ声をかける、そんな余生を過ごしたいのでございます」


 彼らの目は、真剣であった。それは今川家への甘えではなく、氏真が描く新世界を完成させるための、最後にして最大の忠義であった。


 氏真は深く頭を下げた。


「…長きにわたる忠義、誠に感謝いたす。そなたたちがいたからこそ、私はここまで迷わず走ってこられた。…わかった。引退は認めよう。だが、完全に縁を切るなどとは言わせぬぞ。父上と共に、駿府で大御所相談役として詰めてもらいたい。現場の若造たちが迷い、立ち止まった時、そなたたちの厚みのある知恵を貸してやってほしいのだ」


「我らでお役に立てるのであれば、喜んで」


 老臣たちは一斉に平伏した。寿桂尼の死と、家老たちの勇退。氏真は、これまでの一族経営としての今川家から、より機能的で組織的な国家機構へと意思決定機関を大幅に変更することを決意した。それは、来年正月に予定されている天下静謐使の正式任命に合わせた、新生今川家の誕生への序曲であった。



 家老たちとの話し合いを終えた後、氏真は父・義元の私室を訪ねた。二人の間には、極上の駿河の酒が並んでいる。寿桂尼が亡くなってからというもの、義元はどこか寂しげな表情を見せることが増えていたが、息子と差し向かいで座る今夜は、穏やかな父の顔に戻っていた。


「人が亡くなるというのは、やはり寂しいものよのう。…五郎よ」


 義元は杯を傾け、窓の外の月を見上げた。


「左様でございますね。幾度重ねても、こればかりは慣れるものではございませぬ。お祖母様は、今川の魂そのものでした」


「此度の重臣らの隠居の件、そなたには突然のことで驚かせたであろうな」


 義元の言葉に、氏真は頷いた。


「驚きました。ですが、彼らの決断を聞き、改めてその忠義の深さを知りました。彼らは私が止まらぬよう、自ら道を譲ってくれたのです」


「奴らも悩んでおったのだ」


 義元はふっと笑った。


「余もそうだが、時代の変革の早さに必死で食らいつこうとしても、老体には堪える。慣れぬ算盤や複雑な法を扱うのは、どうも億劫になってくるのだよ。歳を重ねるというのは、不便なものだ」


「ですが、父上。重ねた年月には、若者には到底及ばぬ厚みがございます。その知恵と経験を、これからも私に貸していただかねばなりませぬ。隠居される皆様と共に、今川の根幹を支えていただきたい」


「うむ。隠居勢は出番がないことを願いつつ、ここ駿府で穏やかに過ごさせてもらうとしよう。余計な手出しはせぬが、そなたが転びそうになった時だけは、この老骨が支えてやる」


 義元は再び酒を注ぎ、話題を変えた。


「して、天下静謐使か。よくぞ思いついたものよ。あの古臭い朝廷を、実利だけで動かすとはな。正式な任命は、手繰り寄せられそうか?」


「ええ。帝と関白殿は非常に前向きです。慎重派の公家たちもおりますが、今や今川の後ろ盾なしには、彼らの贅沢な暮らしも、京の治安も成り立ちませぬ。今川を拒むということは、再び飢えと戦乱の世に戻ることを選ぶということでございます。そんな勇気のある公家は、今の京にはおりませぬ」


「はっはっは、違いない。余からも、二条家や九条家には根回しをしておる。彼らは明確に反対はしておらぬよ。ただ、余やそなたに権力が集中するのを、ちとばかし羨んでいるだけだ」


 氏真は苦笑した。


「羨まれるような、楽な暮らしはしていないつもりなのですがね…」


「それでよいのだ、五郎よ」


 義元は真剣な眼差しを息子に向け、その肩に手を置いた。


「皆、他人が羨ましいもの。だが、そなたが作ろうとしている世界は、誰もが羨むほど平和で、豊かなものになる。余はそれを信じておる。…五郎よ、そなたのやりたいようにやれ。余が、そして引退する重臣たちが、そなたの背中を守る最強の盾になろう」


「…父上。ありがとうございます」


 親子で酌み交わす酒は、少しだけ、寿桂尼を失った悲しみを和らげてくれた。偉大なる祖母が遺した光を受け継ぎ、古き支柱たちが道を譲る。氏真は、独り立ちする時が来たことを悟った。父という盾に守られながら、彼は静謐という名の鋭い矛を振るい、日ノ本という巨大な大地を塗り替えていく決意を新たにした。


 夏の夜、駿府の空には、亡き祖母を導くかのような美しい星々が輝いていた。その下で、氏真の脳裏には、来年の静謐使任命に向けた、新たなる今川の統治構造の図面が、鮮やかに描き出されていたのである。



早川殿:義祖母との縁、老臣たちの想い

 大御台所様が亡くなり、今川家は、特に古くから仕えている方々にとっては、まるで背骨を抜かれたような、深く大きな喪失感で溢れておりました。それほどまでに大御台所様の影響は、精神的な柱としての存在感は大きかったのだと、改めて痛感いたしました。


 殿に反対することや、咎めるようなことはほとんどございません。ですが、あの大御台所様が認めたなら。そんな空気を感じることは多々ありました。お義父様も相談役に加わり、お二人が殿を全面的にお支えいただいていることが、殿の改革の大きな後押しになっていたのだと思われます。


 そして、そのような方が亡くなるということ、先代や先々代の頃から今川家に仕えていらっしゃる方々にとっては、一つの時代が終わった。そのように感じられた方が居たとしても不思議なことではありません。


 私も、今川家に嫁いでからというもの、家や屋敷の差配、家臣との関わり方、礼儀作法まで、その全てを大御台所、そして家老の皆様に教えていただいたと言っても過言ではありません。そのような方々が自ら退かれること。歳を取るということは誰しも避けられぬことではありますが、寂しく思うのは止められません。


 この寂しさを原動力にして、明日への活力にして進まねばなりません。いまだ殿の天下静謐への道は道半ば。私は最後まで、そして静謐が訪れたとしてもその先まで、殿と歩むと決めたのです。


 寂しさで歩みを止めるわけにはいきません。皆様がくださった知恵や経験を次代に引き継ぐ。守ることこそ、殿の妻としての運命であると信じて。

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