官兵衛
1568年春
氏真は、かねてより会いたいと願っていた一人の若者と対峙していた。以前、氏真が関東へ下っていた際、館を訪ねてきたという播磨の小天才。
「黒田官兵衛孝高にございます。昨年は不意にお伺いし、失礼いたしました」
目の前に平伏する官兵衛は、まだ二十代前半。だが、その瞳に宿る知性の光は、半兵衛が「ぜひ殿にも会ってほしい」と太鼓判を押した通り、凡百の将とは一線を画していた。
「顔を上げよ、官兵衛。半兵衛がそなたをあれほど称えるのだ。呼び立てて済まなかったが、一度じっくりと話がしたかった」
「滅相もございません。中将様の理による政、そして一兵も損なわずして国を屈服させる兵法…他家の臣ながら、常に羨望の眼差しで拝見しておりました。今、こうして堺を歩いてみれば、その豊かさと活気、街道の整備に至るまで、まさに日ノ本一と確信いたしました」
「褒めすぎだ、官兵衛」
氏真は苦笑しながら、鋭い眼差しを向けた。
「だがな、私はそなたの主君ではない。主君でない者に耳触りの良い言葉ばかり投げると、真の主君が悲しむぞ」
「…失礼いたしました。ですが、申し上げたことはすべて、この目で直に見て感じた真実にございます」
氏真は頷き、本題を切り出した。
「官兵衛よ。私は今、西の情勢を憂いている。尼子は落ち、山名は追われ、赤松は家臣をまとめられず、浦上は内に毒を飲んだ。西国は無秩序の闇に呑まれようとしている。隣国として、これを見過ごすことはできぬ。…そなたも私や半兵衛と同じく、無駄な犠牲を出すことを嫌う男であろう?」
官兵衛は居住まいを正し、氏真の言葉を一字一句逃さぬよう聞き入った。
「官兵衛。もし、そなたが見事播磨をまとめ上げ、今川の法と理を受け入れさせることができたなら…そなたは播磨一国に収まるような器ではない。私と共に、この日ノ本を根底から作り変える大仕事をしないか?」
氏真は、官兵衛の瞳の奥を覗き込むように言葉を重ねた。
「播磨という国の中にある、小寺という一族の一家臣としてその一生を終えるか。それとも、今川という天下の舞台で、代えの効かぬ役割を担うか。どちらに心が惹かれるか。…今、答えずとも良い」
官兵衛の喉が、緊張で動いた。
「一年だ。一年やろう。そなたが播磨で何を成し、何を思うか。一年後、その時に、そなたの真実の答えを聞かせてくれ」
「…畏まりました。一年後、必ずや、中将様にご納得いただける答えを携えて参ります」
官兵衛は深く、長く平伏した。その背中には、未来の天下を担う知略の萌芽が確かに感じられた。
「半兵衛、官兵衛に土産を持たせてやれ。珍しい書物も、銭も、たっぷりとだ。…彼が播磨で、新たな時代の風を吹かせるための軍資金としてな」
春の風が、堺の港から播磨の方角へと吹き抜けていく。竹中半兵衛、そして黒田官兵衛。日ノ本の歴史を動かす両兵衛が、静かに、しかし確実に形を成そうとしていた。一年後、この若き天才がどのような答えを持って再び氏真の前に現れるのか。氏真は、遠く沈みゆく夕陽を眺めながら、その再会を心待ちにするのであった。
堺の今川館に、一人の貴公子然とした武将が訪れた。三好家当主の長治の後見人であり、三好水軍を率いる安宅冬康である。
「中将様、此度は富士札の三好領内での流通をお認めくださり、誠に痛み入ります。当主の千鶴丸からも丁寧な礼を伝えてほしいと預かって参りました」
氏真は、茶を一口啜り、穏やかに微笑んだ。
「こちらこそ、感謝いたします。今川だけでなく、同盟国である三好殿の領内でも富士札が使われるとなれば、瀬戸内の交易はかつてない勢いで流れるようになりましょう。銭の価値が一定であるということは、商人たちにとって何よりの安心。これは双方にとって、莫大な利を生むはずです」
二人の会話は、経済の話から、西国の不穏な情勢へと移っていった。
「して、中将様。我ら三好家は山陽の地にも多少の縁がございまして…近頃、備前にて少々厄介な火種が燻っております」
「宇喜多のことにございますか?」
氏真の即答に、冬康は驚きの色を隠せなかった。
「さすがはお耳が早い。左様にございます。宇喜多和泉守直家。元は浦上家の家臣でありながら、今や主家の首を虎視眈々と狙う危険な男。その背後には毛利の影もちらついております。備前が荒れれば瀬戸内の航路も乱れる。これは三好としても、海を司る安宅としても見過ごせぬ事態にございます」
三好家としては、浦上家を支援し、毛利・宇喜多の膨張を阻止したいという。氏真は地図を指でなぞりながら、即座に一つの策を提示した。
「ならば、そこに今川も一枚噛ませてもらいましょう。浦上には三好だけでなく、今川の名も出すと良い。背後に天下の今川がいると知れば、宇喜多も迂闊には動けまい」
「今川の名があれば、後ろ盾としては心強いことです。加えて、三好は播磨にも縁がございます。そちらにもお声掛けいたしますか?」
「ありがたきご提案でございますが、播磨は未来を委ねたき者がおります故、その者の器量を図る機会と考えております」
冬康はその構想に深く頷いた。
「承知いたしました。では、備前の浦上へは、こちらから力強くお声をかけさせていただきます。…それと中将様、我が三好軍、来年あたりから伊予への出兵を考えております。兄が没してより沈んでおりましたが、中将様のお力添えのおかげで、ようやく四国の覇者として天下を支えるべく動く余裕が出てまいりました」
「それは良きこと。実は静謐に向けてこちらも準備していることがあります。それが整い次第、こちらからも兵も物資も出しましょう。今しばらくお時間をいただきたい」
「かたじけない…! 中将様と共にある限り、三好の未来は明るい」
冬康は清々しい顔で堺を後にした。今川の経済力と三好の水軍力が合わさり、瀬戸内という巨大な動脈が、氏真の掌中で脈打ち始めた瞬間であった。




