七難八苦
1568年春
ある日の午後、堺の執務室。氏真は側近たちとの雑談の中で、奇妙な報告を耳にした。
「殿、近頃領内で、尼子家の再興を掲げて兵を集めようと奔走している者がおります」
報告したのは真田昌幸である。昌幸はどこか困惑したような、あるいは哀れむような苦笑いを浮かべていた。
「それが、なかなか兵が集まらぬようでしてな。西国から流れてきた浪人どもは、今や今川の直轄軍や街道整備の要員として安定した給金を得ております。命を懸けて不確かな再興戦に身を投じるより、今川の下で汗を流して妻子を養う方が良いと、誰も首を振らぬのです。その勧誘の者、見ていて少しばかり不憫に思えるほどで…」
氏真はその言葉に興味を惹かれた。この豊かな今川の平和こそが、旧来の忠義や野心を阻む壁になっているという皮肉。
「源五郎、その主たる人間をここに連れてきてくれ。詳しく話を聞いてみたい」
「…なぜです? 殿は尼子家に何か思い入れでも?」
「いや、全くない。だが、来年にはもしかすると、尼子に思い入れが湧くことになるやもしれぬからな」
一週間も経たぬうちに、その男は氏真の前に現れた。身なりは質素だが、その眼光には死をも恐れぬ強靭な意志が宿っている。男はいきなり畳に額をこすりつけ、平伏した。
「山中鹿之介幸盛と申します。この度は領内を騒がせ、誠に申し訳ございませんでした!」
氏真は静かに声をかけた。
「待て、鹿之介。咎めるために呼んだのではない。そなたが尼子家再興のために兵を集めているという噂を聞いた。それは真か?」
鹿之介は顔を上げ、熱を帯びた声で語り始めた。かつて宿敵・毛利に敗れ、本拠の月山富田城が陥落したこと。再興の機会を求めて畿内へ逃れ、東福寺で僧となっていた尼子孫四郎勝久を説得して還俗させ、主君として奉じたこと。そして、打倒毛利を掲げて再び立ち上がろうとしていること。
「なるほど。で、兵はどの程度集まったのだ? 今川領以外でも声をかけておるのだろう?」
氏真の問いに、鹿之介は一転して苦渋に満ちた表情を浮かべた。
「…いえ、それが、兵はほとんど集まっておらず。他国へ声をかける以前に、路銀も、兵を養う糧も底を突きかけておりまする」
氏真はふっと笑みを漏らした。
「よかろう。鹿之介、ならば私がそなたに銭を出そう。今川が尼子家再興を支援してやる。孫四郎殿が尼子家の正当な当主であることも、この私が認めよう」
「な…!?」
鹿之介は耳を疑った。天下の今川が、縁もゆかりもない自分たちを助けるというのか。
「そなたは孫四郎殿を支え、丹波、丹後、但馬にて浪人を集めよ。今川の銭があれば、人は動く。兵が集まったら、但馬の山名氏に声をかけるが良い。彼らもまた毛利によって領土を脅かされ、腹に一物ある連中だ。尼子・山名連合軍で因幡へ攻め入るのだ」
氏真の言葉は、具体的かつ冷徹な戦略であった。
「もし因幡を取り返すことができたなら、今川の法に従うことを条件に、尼子を正式な領管として認め、今川の庇護下に置こう。準備が整えば言え。いくら毛利といえど、そなたらの死に物狂いの勢いを同時に凌ぐのは容易ではあるまい」
「そのような…そのような破格の御温情、なぜ、我らごときに…?」
困惑する鹿之介に、氏真はまっすぐな視線を向けた。
「尼子家に特別な思い入れがあるわけではない。だが、鹿之介。そなたの目を見ればわかる。その忠義、その燃えたぎるような闘志。それを野垂れ死にさせるのは、日ノ本の損失だ。…だが、毛利を相手にするのは地獄だぞ。理屈では通らぬ苦しみが待ち受けていよう。どうだ、やれるか?」
鹿之介の瞳に、熱い涙が滲んだ。彼は再び深く平伏し、魂を絞り出すように叫んだ。
「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ…! 中将様。この鹿之介、必ずや尼子の名を再び天に轟かすため、泥をすすり、石を噛んででも戦い抜く所存にございます!」
「銭は出す。思う存分、その想いを毛利にぶつけてこい」
こうして、鹿之介は西へと向かった。今川の黄金の紙を懐に忍ばせ、再興という不可能に思える夢を実現するために。氏真はその後ろ姿を見送りながら、毛利という西の巨頭を揺さぶるための、新たな楔が打ち込まれたことを確信していた。丹波、丹後から浪人を集め、彼らが因幡の土を踏むのは、まだ少し先のことである。だが、今川の経済力という翼を得た不撓の三日月は、西国の空を赤く染める嵐の予兆となっていた。




