浸透
1568年冬
関東の地より、北条氏政からの勝ち鬨が届いた。今川水軍の海上封鎖によって補給を断たれた安房の里見家は、ついに力尽き、降伏したのである。里見という喉元の棘を抜いた北条の勢いは、今や関東全土を席巻しようとしていた。
残る大きな勢力は、下野と常陸のみである。常陸の鬼こと佐竹義重は、北条の圧倒的な武威を前に、密かに今川へ救済の触手を伸ばしてきていた。しかし、氏真の態度は協力的では無かった。
「佐竹はかつて下総において北条と激しく矛を交えた身。北条の許しなき救済は、関東の和睦を乱す種となろう。もしその地を離れ、今川に仕えるというのならば、北条に話をつけよう」
氏真は佐竹の使者を出迎え、受け入れる案を提示した。
この対応はすでに氏政にも伝えられており、退路を断たれた佐竹に残された道は二つに一つであった。今川の軍門に降るか、あるいは玉砕覚悟でその武を証明するか。氏真は、義重という男が抱く誇りの重さを、遠く堺の地で見極めようとしていた。
一方、北陸の能登を任せている義弟・武田義信からは、心躍るような報告が舞い込んだ。
「出羽の安東を通じ、蝦夷地との交易が軌道に乗り申した。昆布、鰊、さらには貴重な毛皮などが、安定して今川領内へ流入しております」
義信は、甲斐という山深い故郷を離れ、海に面した能登の地でその才を遺憾なく発揮していた。今川の海軍力と海運の要諦を叩き込まれた彼は、今や日本海側の物流を支配する若き提督へと成長していた。氏真は義信の働きを高く評価し、「安東との関係をさらに密にせよ」と返した。
史実において奥羽の勢力図が停滞していたのは、複雑な婚姻関係が鎖となっていたからだ。攻める先は皆、親族という閉ざされた世界。その中で、経済的合理性を持って動く安東は、氏真にとって極めて好ましいパートナーであった。
「安東は、単なる武将ではなく、商う者としての目を持っている。今川との相性は悪くないだろう」
氏真は、近いうちに予定している京への再上洛に際し、当主の安東太郎愛季への官位推薦を行うことを決めた。
武力による征服ではなく、経済的な利益と朝廷の権威という恩で北の巨頭を繋ぎ止める。それは、奥羽を今川の巨大な市場へと組み込むための、音の出ない侵攻であった。
京の謁見から一月ほど、関白・近衛前久は、頻繁に堺の今川館へ顔を出すようになっていた。前久の関心は、氏真が提案した天下静謐使という未知の役職に集中していた。
「中将、麿は気になって夜も眠れぬ。なぜ、あのような考えが浮かぶのだ? しかも世襲にせぬとは…。武家の棟梁を目指すなら、子々に至るまで権力を残したいとは思わぬのか?」
前久の質問は止まらない。形式と先例を重んじる公家の頂点に立つ男にとって、氏真の機能的な支配という考え方は、あまりにも刺激的であった。
氏真は、暖炉の火を見つめながら静かに答えた。
「殿下。私は、武力で土地を奪い合う時代を終わらせたいのです。日ノ本を一つの大きな理でまとめ、安全を確保し、時代を次へ進める。つまらぬ領土争いに若者の命を散らすのは、あまりに無益です。私が求めているのは、土地そのものではなく、その土地で生きる人々が今川の秩序に従うことで豊かになれる仕組みなのです」
前久は嘆息した。
「中将は、真に不可思議だ。武家とも公家とも違う、まるで未来からこの世を眺めているかのような…。到底理解はできぬが、正しい。お主の言葉は、恐ろしいほどに正しいのだ」
前久は膝を叩き、力強く宣言した。
「麿が、御所の連中を是が非でも拒ませぬよう動こう。安心するが良い。…して、呼び名はどうする? 中将のままか、それとも静謐使か? どちらもいささか収まりが悪いな」
氏真が「呼び名にこだわりはございません」と微笑むと、前久は少し考え込んだ後、顔を輝かせた。
「ならば『静謐中将』と呼ぶが良い。中将という貴公の今の位に、世を鎮める理を冠した名だ。これでどうだ?」
「静謐中将、ですか」
氏真が頷くと、前久は満足げに笑い、さっそく筆を取った。
「静謐中将」その名は、ただの軍事司令官でも、単なる官僚でもない。法と経済によって、戦乱という名の病を治癒する、時代の名医としての称号であった。冬の終わりの柔らかな日差しが、堺の海を照らしている。新たなる時代の定義が、今まさに定まろうとしていた。
1568年春
今川領内において、富士札の浸透はほぼ完了した。今や駿河の農民から堺の豪商まで、この黄金に代わる紙を疑う者はいない。しかし、普及すれば次なる課題が生まれる。氏真は造幣所の富士信忠と、その均衡について深く議論を交わしていた。
「左京亮、札が行き渡った今、最も警戒すべきは出し過ぎと集め過ぎだ。市場に札が溢れれば価値は落ち、回収を急ぎすぎれば経済の血の巡りが止まる。この微細な加減こそが、今川の命脈を握るのだぞ」
信忠は真剣な面持ちで頷き、帳簿を改めた。氏真の狙いは自領の安定に留まらない。この便利な紙という武器を、他領へも浸透させ、経済的な従属を強めることにある。
「すでに導入を明言している北条、そして三好の領内にも少しずつ供給を始めよ。彼らの経済を富士札なしでは成り立たぬようにしてやるのだ」
さらに氏真の視線は、北の軍神・上杉輝虎へと向けられた。蘆名を鮮やかに追い散らした後の越後は、かつてない静謐に包まれているはずだ。
「輝虎にも声をかけてみるか。案外、喜んで受け入れるかもしれぬ。戦場でこそ輝くあの男が、この平穏をどう捉えているのか。あるいは、戦なき世に飽きて出家でもしてしまうのか…。一度、その本心を聞いてみたいものだ」
経済という名の見えざる鎖が、じわじわと日ノ本の勢力図を塗り替えようとしていた。




