天下静謐使
1568年冬
大和の騒乱が落ち着きを見せ始めた頃、氏真は、これまで直轄領として扱ってきた畿内の統治体制を一段階進める決断を下した。特に大和という土地は、旧来の宗教権威が根強く、その統治には繊細な感覚が必要とされる。
氏真は、大和の領管として浅井長政を指名した。長政は武将としての器量は申し分ないが、氏真は彼に武功を立てさせること以上に、今川流の理と統治の実務を学ばせようと考えたのである。
「武勇のみでは国は治まらぬ。新九郎には、この大和で民の腹を満たし、秩序を守る術をその身に刻んでもらいたい」
氏真の期待に応えるべく、長政は若き情熱を持って、大和の行政に没頭していくこととなる。
また、筒井順慶が竹中半兵衛の与力として堺へ移るに際し、氏真は順慶が信頼を寄せる二人の男、松倉右近と島左近を共に連れてこさせた。
筒井の右近・左近と称されるこの二人は、それぞれ戦術と規律において稀代の才を持っていた。半兵衛という巨大な頭脳に、順慶、左近、右近という強力な手足が加わる。氏真は、自らの側近組織が日ノ本最強の知の軍団へと進化していくのを頼もしく見守ったのである。
氏真は京へと足を踏み入れた。目的は、延暦寺および興福寺の清浄化を成し遂げたことを、帝と朝廷に正式に報告するためである。これは単なる武家による領土拡張ではない。帝ですら制御できなかった宗教勢力の腐敗を、今川が肩代わりして一掃したのだという正当性を、公に認める必要があった。
朝廷の反応は、氏真の予想以上に熱烈なものであった。長年、僧兵の強訴や理不尽な要求に悩まされてきた帝や公家たちにとって、今川が武力に頼りすぎることなく、その経済力を背景に寺社勢力を沈黙させたことは、奇跡にも近い救済であった。
「中将殿、実に見事であった。これで京の都も、ようやく平穏を取り戻せよう」
帝・正親町天皇や関白・近衛前久をはじめ、公家たちは口々に氏真の功績を称えた。そしてその褒賞として、朝廷から官位昇進が打診されたのである。
「中将殿。次は参議、あるいは左近衛大将へと昇られよ。公卿の仲間入りを果たし、我らと共に帝をお支えいただきたい」
だが、氏真はこの申し出を、極めて丁寧な、しかし揺るぎない態度で辞退した。周囲が驚愕に目を見開く中、氏真は淡々とその理由を述べた。
現在、今川家の当主である父・義元は権中納言の地位にある。親子二人が公卿の列に加われば、他の名門公家からの嫉妬を買い、不要な諍いを生むことになる。さらに、将軍・義輝にとっても、氏真がこれ以上の権威を持つことは、自らの地位を脅かす脅威として映るだろう。
「私は権威を競うためにここに来たのではございませぬ。官位は現状のままで充分にございます。諍いの種は、一つでも少ない方が日ノ本の安定に繋がります」
氏真のこの言葉に、帝も前久も息を呑んだ。武士というものがこれほどまでに名を捨て、実を取ろうとする姿を、彼らは見たことがなかった。
しかし、氏真はただ無欲であったわけではない。官位という名を捨てる代わりに、彼はこれまで日ノ本の歴史になかった全く新しい実を求めたのである。
「陛下、そして関白殿下。私に官位は不要にございます。その代わりに、一つだけ、新たな役職を創設することをお認めいただきたい」
「新たな役職…? それはいかなるものか」
氏真はまっすぐ帝を見据え、その名を口にした。
「その名は『天下静謐使』。朝廷および幕府より治安維持と秩序の管理を委任される、臨時の代理人にございます」
氏真が提案した、天下静謐使の権限は、極めて具体的かつ強力なものであった。
一、今川直轄軍と専用法廷による、京および周辺の治安維持。
一、街道、関所の整備管理、および富士札による経済の安定化。
一、宗教勢力の武装解除、および既得権益の管理と監視。
「私は関白にも、将軍にもなるつもりはございませぬ。それは古き良き伝統として、皆さまが守り続けてください。私はただ、外側からその平穏を守るための箒であり、盾でありたいのです。そのために必要な実権だけを、私に委ねていただきたいのです」
この提案は、御所に激しい議論を巻き起こした。特に二条家や九条家といった伝統を重んじる公家たちは、即座に反発を示した。
「前例がない! 結局のところ、朝廷の権限を骨抜きにし、実質的な支配権を今川が独占しようとしているだけではないか!」
「中将は権力を寄越せと言っているに等しい!」
氏真は、冷ややかな視線を彼らに向けた。
「仰るとおりにございます。今川にこれらの権限がなければ、現状の警備も、経済の支援も、続けることが出来なくなります。皆さまがご自身の手で、僧兵や賊を追い払い、道を整え、米の値を安定させられるのであれば、私は今すぐ駿府へ引き上げましょう。いかがですか?」
この現実的な問いに、反論していた公家たちは言葉を詰まらせた。今川なしでは、自分たちが飢え、賊に怯える生活に逆戻りすることを彼らは知っているのだ。
「それに…」
氏真は言葉を継いだ。
「これはあくまで委任にございます。私が、静謐使として不当な行いをしたならば、いつでも解任してくだされば良い。世襲として我が子に引き継ぐつもりもありませぬ。私はただ、この日ノ本から戦を無くしたい、その一心にございます」
沈黙が続く中、ついに正親町天皇が重い口を開かれた。
「…中将の申すこと、誠に理にかなっておる。今、我らがこうして穏やかに過ごせているのは誰のおかげか。中将を認めぬと言うならば、代わりの天下人を誰に求めるのだ。将軍か? 任せた結果が、この戦乱の世ではないか。他に適任がおれば、今すぐ申してみよ」
帝の威厳ある一言に、広間は静まり返った。誰も、氏真の代わりを務められる者などいないことを、痛いほど理解していたからだ。
ここで、前久が助け舟を出した。
「陛下。なれば、まずは一年間、中将を『臨時静謐使』として任命してはいかがでしょう。その働きを一年間見届け、異論がなければ、翌年の正月に改めて正式に任命する。検討の時間を設けることで、皆の不安も解消できましょう」
「異存ございませぬ」
氏真は深く平伏した。
「私はあくまで秩序を正すための実行者。不審ありとなれば、いつでもこの印を陛下にお返しいたします」
こうして、氏真は天下静謐使という、日ノ本の歴史を塗り替える新たな立場に近づいた。それは、家格や名誉に縛られる旧来の武士の姿ではない。経済と警察権、そして法を握り、実質的に日ノ本の心臓部を管理する管理者としての姿であった。
氏真は御所を後にしながら、静かに冬の空を仰いだ。これからの一年、自らの働きをもって、公家たち、そして民に、今川なしでは生きていけないことを証明しなければならない。権威としての朝廷を守りつつ、実権としての秩序を自らの手に集中させる。氏真の描く戦なき世への巨大な歯車が、この日、京の都から回り始めたのである。




