第九話 北条紫苑の失踪
暦の上では秋になったというのに、外は相変わらず強い日差しが照り付けていた。
ここまで暑いと、人通りは減る。最近はリモートで内見対応をするようになってきた。
Webカメラを使って部屋の様子をリアルタイムでビデオ通話しながら見せるのだ。
顧客は家にいながら内見することができるが、エアコンのない部屋でカメラを片手にウロウロするのは中々堪えるものがある。
内見業務が終わった後、中野坂上のワンルームに寝泊まりしている紫苑を回収しなければならない。
栄はため息をつきながら、車を発進させた。
鍵穴に鍵を入れて回すと、奇妙な重さがあった。栄は不思議に思いながらドアノブを回す。部屋の鍵は開いていた。
「北条、どうし――」
部屋はもぬけの殻だった。ワンルームの部屋には寝袋一つ落ちていない。紫苑がいつも持ち歩いている、コンビニのレジ袋も落ちていなかった。
出かけているのだろうか。栄はスマホをポケットから取り出し、紫苑の番号をタップした。
三コール……五コール……一向につながる気配がない。栄は舌打ちして、スマホをポケットに戻すとエアコンのリモコンを入れた。
ようやく涼しい風に当たれる。夕方の日が傾いてからも、アスファルトからの照り返しが強かった。
「まあ、飛ぶにしてももった方か」
北条紫苑とは、正式な労働契約書を交わしていなかった。
判子も持っていない。身分証明書も持っていない。労働契約どころではなかった。
どうにか住民票を取り寄せ、健康保険証を作成したのはつい半月ほど前の話だった。
病院に世話になることがなくて本当に良かったと思う。
「どうするかな、これ」
保険組合から送られてきたプラスチックのカードを、栄は手で玩んだ。
このカードの持ち主はもういない。いや、どこかへ出かけているだけかもしれない。
もう少し待てば、戻ってくるかもしれない。
家具ひとつないワンルームのフローリングに座り込んで、栄はスマホでメールの返信を始めた。
仕事は山のようにあった。スマホひとつだけでも、やることは多い。
部屋から差し込む光が少しずつ薄くなっていく。
しんとした静寂の中、エアコンが風を送る音だけが響いていた。
***
紫苑は戻ってこなかった。入居日は一昨日の日付だから、部屋のロンダリングは問題ない。
急ぎで除霊しなければならない物件もない。
あの除霊の才能は惜しかったが、事故物件の供養方法などいくらでもある。何も紫苑である必要はないのだ。
栄はいつも通りの仕事をしていた。
だが朝の就業時に淹れるコーヒーを二杯分作ってしまうことが習慣になっていた。
「北条、コーヒー……ああ、そうか。あいついないんだ」
調子が狂う。一年間という時間は長くもあるが、習慣が定着するのに必要な時間はとうに過ぎていたのだ。
残ったコーヒーをどうしようか考えて、飲まなかった分を冷蔵庫にしまった。
あとできっと作ったことを忘れるだろうと思いながら、栄は物件の管理画面を開いた。
固定電話が鳴る。栄はマウスを動かしながら、受話器を取った。
「はい、天国不動産でございます」
「内見のお願いをしたいんです」
「ええ、どうぞ。気になる物件はございましたか」
「日当たりのいいワンルームを探してまして」
「都内のどのあたりをご希望ですか?」
「新宿に近いと助かるんですが」
栄は心の中でガッツポーズをした。経歴を洗いたての、最高の物件がある。
にこやかに案内しながら、栄は電話を切った。
「北条がいなくてもどうにかなるもんだなあ」
既に除霊は済んでいる。紫苑に初めて栄が出会ったときに憑いていた霊が、前の入居者だったのだ。
栄は物件自体は問題ないだろうと、クリーニング済みの部屋に紫苑を押し込んだのだ。
だが、その北条紫苑はいない。
「あいつ、ちゃんとメシ食えてるのかな。野垂れ死んでないといいんだが」
栄はコーヒーを一口飲んだ。落ち着かない。
机の上には、まだ退職の手続きをしていない紫苑の健康保険証が置きっぱなしになっている。
任意継続の手続きをしておこうか。いや、どこにいるかわからないような人間の保険証を、ましてや本人が持っていないのに継続する意味などない。
「……くそっ」
栄はパソコンの電源を落として、立ち上がった。
外苑通りの人通りは、今日は少ない。『外出中』に札を掛け替えて、栄は外に出た。
アスファルトの上に蜃気楼が揺らめいた。今年初めての猛暑日なのだと、テレビの中の天気予報士はにこやかに告げていた。
首元のネクタイを緩めながら、栄は外苑通りを歩きだした。
ひとつ入った通りにある児童公園。日の高い、暑い日に子供は一人も遊んでいなかった。クマのトンネル遊具を覗いてみても、そこには誰もいなかった。
***
中野坂上のアパート、新宿の歌舞伎町、渋谷の駅前のパチンコ屋。どこを探しても、光に当たると紫色の髪色をした男は見つからなかった。
半日探し続けて見つからないのだ。
「あとは、平和島か」
だが、今日はレース開催日ではない。開催日でもない日に競艇場にいるとは思えない。
「何をしているんだろうな、俺は」
彼女と別れたときでさえ、栄は追うようなことはしなかった。なのに今、身分もなにもよく分からないような男を探して、東京を彷徨っている。
歩き疲れた栄は、ため息をつきながら混雑する銀座線に乗った。スマホを見ると、着信が数件入っていた。
通知を見ると、絆建設の剛田からだった。北条紫苑の名前はひとつもない。
剛田は栄が電話に出ないとみると、メールでの連絡に切り替えてくれていた。メールの受信箱にも、紫苑の名前はない。
外苑前の駅に着いたときにはもう既に日は落ちていた。これから帰宅するのであろうサラリーマンとすれ違う。笑顔で居酒屋に入っていく集団もいる中で、栄は事務所までの道のりを戻っていく。外苑通りの弁当屋は、ふたりの行きつけだった。
栄は決まって生姜焼き弁当、紫苑は焼き鮭弁当を頼む。生姜焼き弁当をひとつだけオーダーし、街灯の少ない道を帰っていく。
「拾った野良猫が野生に帰っただけだ」
言い聞かせるようにしながら、事務所の鍵を開けた。ブラインドを降ろして、大きく息をつきながら栄はソファに沈み込んだ。
弁当の蓋を開けるとまだ温かかった。少し甘めのたれがかかった生姜焼きと、付け合わせのポテトサラダ。黒ゴマのかかったご飯は、少し硬めに炊かれている。
明らかに業務用の、自然の色をしていない蛍光色のたくあんを噛み切りながら、明日は普通の業務に戻らなければとスマホを見た。
着信が一件。もう終業時間は過ぎている。こんな時間にかけてくるなんて、何があったのかと栄は通知をタップした。
着信 一件 北条紫苑
「――ッ」
栄は震える指先で通話をタップした。
数回のコールで、つながった。
「おい北条、お前――」
『おかけになった電話は、電源が入っていないため繋がりません』
「なんなんだよ!」
コンコン、と事務所の扉がノックされた。ブラインドを避けると、そこには小さく笑った紫苑がいた。
「北条!」
栄はスマホをソファに投げ出すと、事務所の扉を開けた。
「よう、社長」
「お前っ……」
どこに行ってた、なのか。無事だったのか、なのか。栄は言葉が出てこなかった。
ただ俯いて、ひとつ息をついた。
「腹、減った」
「中野坂上の物件の鍵はどうした」
「持ってる。ちゃんと。失くしてない」
「なら、いい」
紫苑はフラフラとソファに座り込んだ。
「平和島のレース行ったんだけどさ。スッちゃって。親切なおっちゃんがメシ奢ってくれたんだけど、帰りの電車賃ないし、歩いて帰るかって」
「なんで、俺に連絡しなかった」
「悪いだろ、仕事してるのに。俺のせいで仕事の手、止めたらさ」
「半日」
栄の腹の底から沸々とした怒りが浮かび上がってきた。照り付けるような日差し。いくら普段からランニングをしているとはいえ、半日も歩き通せば足はパンパンになる。
それも、目の前にいる男のせいで。
「お前のことを探した。歌舞伎町も、渋谷の駅前のパチンコ屋もしらみつぶしに当たった」
紫苑は目を逸らした。
「俺は天国不動産の社長だ。従業員のお前の安全を守る義務がある」
「……勝手に出て行って悪かったよ」
「お前に与えたスマホは何のためにある? 報告も連絡も相談もできない従業員は、俺には必要ない」
「ほんなら、俺はお払い箱ってことか」
「違う」
栄はデスクからクリアファイルを取り出すと、テーブルの上に叩きつけた。
「お前の労働契約書だ。『北条』の印鑑も作ってきた。今ここで俺と契約を交わせ。できないなら、ここからいなくなって構わない」
「なんで、そこまでして」
「お前がここに来てから、売上は前年比の1.5倍になってる」
じっと栄は紫苑の顔を見た。
「俺の事業にお前が必要だ」
「わかったよ! わかった。書けばいいんだろ」
紫苑はボールペンで殴り書くように署名すると、契約書を栄に突き出した。
「これで満足かよ」
「いいか、次俺に断りもなく勝手にいなくなるようなら。俺はお前を訴える」
「物騒なこと言うなよ!」
「持っておけ」
結局返納しなかった健康保険証は、そのまま紫苑の元に渡った。
「喜べよ。株式会社天国不動産、初めての正社員だ。お前は」
「はは、余計なことしやがって」
苦笑しながら、紫苑はプラスチックのカードを見つめた。
「おう、余計なことだ。社会保険料と厚生年金払わないといけないからな。出費が増えてんだよ」
だからしっかり働けよ、と小さく付け加えた。紫苑の笑った顔が少しあどけなく見えた。




