第十話 冷たい世代と暑い部屋
「あーくそ、また一方通行かよ。これだから世田谷の住宅街は嫌いなんだよ」
栄はハンドルを切りながら悪態をついた。一歩住宅街の路地に入れば、軽自動車同士でもすれ違えないような狭い道が迷路のように入り組んでいる。そのくせ通るのは栄たちの乗る車のような外車が多いのだからタチが悪い。
「社長、運転荒すぎ。酔う」
「今更。酒に酔うのも車に酔うのも変わらないだろ。着いたぞ」
栄はマンションの駐車場に車を止めた。
駅から徒歩二十五分。真夏に歩くのはさぞ地獄だろう。バスか自転車を使わざるを得ない距離だ。
大きな公園が目の前にある閑静な住宅街にその物件はあった。
一階がコンビニエンスストア。出社するなら地獄だが、リモートワークをするなら最高の環境だった。食料と飲料、ちょっとした日用品の調達が容易で、仕事が煮詰まれば目の前の公園を散歩するなりしてリフレッシュできる。駅から遠いことを除けば、最高の物件だった。
「いつでも酒と煙草買えるじゃん。最高だな」
「駅からクソ遠いから出社するなら地獄だけどな。ここの二階だ」
外のコンクリートの階段を上がる。籠った熱気で背中にじっとりと汗をかいた。
「へぇ、悪くない部屋だ」
築十五年のマンションの部屋はところどころ経年劣化はあるものの、設備自体はきれいだった。部屋のクリーニングこそ終わっていないが、特殊清掃は済んでいる。最低限、住める環境だ。
「元家主は四十代前半くらいのITエンジニア。ほぼリモートワークだったらしいな」
「ずっと家にいた割にはきれいだな。コンロなんてほとんど使ってない」
「一階にコンビニがあるだろ。自炊の必要がなかったんだよ」
「それか――そんな暇なんかなかった、ってところか」
紫苑は廊下を通ってリビングに出る。この物件は1LDK。南向きで、リビングも広い。南向きのバルコニーから公園の緑がよく見える。風呂の追い焚き機能に独立洗面台、モニター付きのインターフォンとひとりで住むには十分すぎる設備だった。ファミリー向け物件なのかもしれない。
リビングの隅には、主を失った大きなデスクが鎮座していた。椅子はおそらく発見時に座っていたからなのだろう、撤去されていた。
「うわ、暑い。エアコンないと地獄だよこれは」
紫苑がエアコンのリモコンのボタンを押す。が、反応がない。何度もボタンを連打して紫苑は忌々しそうにリモコンを見た。
「電池切れてんのか?」
「あー、エアコン故障中だ。やられた。エアコン代ウチ持ちじゃねぇか」
栄が悲鳴をあげた。
「最悪だ。とりあえず、窓開けようぜ」
紫苑が窓を開ける。むわっとした湿気を孕んだ熱風が紫苑の髪を撫で、彼は顔を顰めた。公園の広葉樹の葉が音を立てて揺れている。
「まさかと思うけど、その家主って……」
「エアコン修理する暇もなかったんだろうな。熱中症だってよ。一日に四回くらい下のコンビニに顔を出してたらしいが、ぱったりと来なくなったから店員が訝しがって、オーナーに通報したら案の定、だそうだ」
「暑かっただろうな」
紫苑は窓の外を見た。刺すように照りつける日差し。その熱を窓ガラスが一身に受け止めている。
「リモートワークだろ。上手いことサボれたり出来なかったのかな」
「責任感が強かったんだろ。氷河期世代ってやつだ。一度レールを外れたら終わりだと思ってる。クソ激務で、仕事が山積み。それでも締め切りは待ってくれない」
「やだねぇ、俺やっぱ働きたくねえよ」
「今だってほとんど働いてねぇだろうが」
「はぁ? じゃあここの除霊してやらねぇからな。適当にリノベでもなんでもして客を呼ぶんだな」
「雇用契約書、ちゃんと読んだか? 特殊勤務手当は固定。除霊手当は案件ごと、難易度と物件相場に応じて変動」
栄は芝居がかったような言い方をした。
「いらないんだな」
「……ッ、いる。よこせ。軍資金」
紫苑はポケットからしわくちゃの袈裟を取り出した。
「それにしても大人しいな。音もしないし」
——ッターン!
キーボードのエンターキーを叩きつけるような音がした。
「したわ、音。こんなくそ暑い中働くんだ、アイスの一つくらい奢ってくれたっていいだろ」
「あとで一階で好きなもん買ってやるよ。ガキかお前は」
紫苑は独鈷杵を取り出した。いつもの真言を唱える。
『ア、アァ。終ワラナイ、終ワラナイ……デスマーチガ……』
ぼんやりと浮かび上がったのは真面目そうな眼鏡をかけた男だった。机に向かってブツブツと言っている。
『納期……バグ……スイマセン、スイマセン……デモ、休メナイ……ココデ切ラレタラ、モウ後ガ……』
男の指は、肉が削げ落ちんばかりの勢いでキーボードを叩いている。
『正社員ニ……ナリタイ……』
氷河期世代。新卒の切符を逃し、非正規で食いつなぎ、ようやく掴んだ仕事だったのかもしれない。コロナ不況で真っ先に切られるのは自分だという恐怖が、彼をデスクに縛り付けていたのだ。
「終わったんだよ。仕事は。今日からお前は長い有給休暇の消化に入るんだ」
『有給休暇……食エルノカ……ソレハ……』
男の手が止まる。その目は、安堵よりも『自分の居場所がなくなること』への不安に揺れていた。
「これで終業時間だぜ。今日はノー残業デーだ。追加手当で好きなものでもなんでも食えよ、あの世でな!」
紫苑は手に持った法具で机を殴り飛ばした。合板が少しへこむ。
やがてキーボードの音はしなくなった。
「終わった。アイス食おうぜ」
紫苑は袈裟を脱ぐとすたすたと玄関に向かっていった。
栄はただ、紫苑が殴った机のへこみを見ていた。
「どうにかならなかったのかな」
誰に言うでもなく呟いて、リビングのドアを静かに閉めた。




