第十一話 雇用主と雇用者
栄はスポーツドリンクを、紫苑はカップに入った氷菓二つと、度数の高いチューハイを手に持っていた。
「お前な。アルコールはやめとけよ、脱水症状になっても知らないからな」
「あー、あと五十七番ひとつ」
「なに人の金で煙草買おうとしてるんだよ、このクズ」
「いいだろ、どうせ経費で落ちるんだから」
栄は苦い顔をしながら会計を済ませる。念のため領収書をもらったが、これは会議費では落ちない。紫苑は酒の缶とアイスを持ってさっさと二階に戻ってしまった。
リビングに続くドアを開ける。相変わらずそこは蒸し風呂のような暑さだった。
紫苑は机の上にレモン味の氷菓を置いていた。そこは、さっきまで霊がいた場所だった。
「それ、溶けるぞ」
「いいんだよ、俺のじゃないから」
自分の分のカップの氷菓に酒を流し入れながら、紫苑は呟いた。
「アイスが食いたかったんだと。買いに行く時間も、食ってる時間も惜しかったらしい。コンビニ行って、戻ってくる時間……急いで食ったって三十分もかからねぇのに。飯食う時間も惜しんで休憩時間返上で働いたって、会社はそいつを助けてくれるわけじゃないのにな」
ザク、と氷を削る音がした。紫苑は酒に漬けた氷菓を口に入れる。
経営者側の栄は――少しだけ胸が痛んだ。
「体壊したって有給休暇、それが尽きたら休職かなんかになって手当がもらえたって、完全にそいつの生活が保障されるわけじゃない。特にこいつらの世代は、『代わりはいくらでもいる』と言われ続けてきた世代だろ。非正規なら、尚更だ。休んだら席がなくなる。一度落ちたら二度と這い上がれない。そんな強迫観念が、熱中症のサインさえ無視させたんだ」
机の上に置かれた氷菓はすでに溶け始めていた。
「それだけ働いて成果出してたなら正社員の可能性もあっただろうに」
「どうだかな。じゃあ、経営者の天國栄くん。彼を雇いたいと思いますか?」
紫苑は木匙で栄を指して、問う。栄は黙ってしまった。確かに仕事ぶりも真面目で、ちゃんと成果物を納期通りに出してくれるなら、雇ってもいいかもしれない。だが、そこまで自分を追い込んでしまっても尚、上司に相談をしなかったのは――問題ありだ。
栄は紫苑を切り捨てようとしていた。報連相もできずに勝手にいなくなる社員は、経営者からすればリスクでしかない。
彼と紫苑は、何が違うのか。
「答えが出ちゃったなぁ。そんなもんだろ。雇う側と雇われる側の溝なんか一生埋まらねえよ」
そう言って紫苑は酒を一気に飲んだ。
「お前もそんな風に思ってたのか?」
「どうだろうな。でも、いい金づるだと思ってんのは確かだよ」
その言葉を聞いて、栄はふっと笑った。
「なら、いい」
「で、どうすんのここ。エアコン入るまでは住まねえよ」
「せめて今夜一晩だ」
「嫌だ。こんな暑い部屋で生活したら溶ける」
「一階のコンビニにイートインあったろ、そこで時間潰してろよ」
「閉鎖されてたぞ。俺ずっと店ウロウロしてないといけないのかよ? 不審者じゃねえか」
「剛田さんに、なるはやで手配してもらうように言っておく」
「さっきの除霊手当、増額しろよ。役職手当もつけろ」
「お前役職ついてないだろう」
栄は呆れた様子で呟いた。
「なんでもいい、つけろ。『海』が呼んでるんだよ」
「パチンコに消えるのかよ、俺の出した給料は。ああ、ちなみにこの物件から駅まで徒歩二十五分。駅前のパチンコ屋行って帰って一時間弱か。いい運動だなあ」
「どこにも行けないだろそんなの。監獄やんけ」
「ロックアイスとハンディファンを下で買ってきてやるよ。金も置いてくから。一晩頑張ってくれ」
「社長はどうすんだよ」
「剛田さんとの打ち合わせと事務作業が残ってる。支払いの処理も先に済ませたいし、やらないといけないことが多くてさ」
栄は苦笑いを浮かべた。誰かさんが手伝ってくれれば、事務作業はもう少しマシなのだが。
「あんまり、無理すんなよ。あんたが過労死したら困る人は多いんだ」
栄は目を丸くした。紫苑の口からそんな言葉が出てくるとは全く予想もしていなかったのだ。
「俺みたいなクズは居なくなっても困らないけど、あんたが居なくなったら困る人はいる」
「困るよ」
栄は真っ直ぐに紫苑の顔を見た。
「俺が困る」
紫苑は栄から目を逸らした。
「節税対策で、除霊装置、ついでにロンダリングしてもらうのに必要だ。居なくなったら業務が立ち行かない」
「……そうかよ。まあ、せいぜい頑張るわ」
表情を崩した紫苑は、どこか嬉しそうに見えた。
***
一ヶ月が過ぎた。真新しいエアコンが設置された部屋で、栄は内見の案内をしていた。
「わぁ、すっごく日当たりいい。洗濯物すぐ乾きそうね」
弾むような明るい声が響いた。
「公園も近いし、生まれてくるこの子もお散歩するの楽しみにしてるよ、きっと」
女性は大きなお腹を抱えながら、笑った。
「駅から遠いけどあなたはフルリモートだから問題ないもんね」
「総合病院も近いから助かるよな。一階コンビニだし、飯だってすぐ調達できるし。いいな、ここ」
男性が寄り添いながら笑う。
――ああ、そうだろう。栄は口元だけで笑った。前の住人にとっても、ここは『仕事場』でコンビニは『冷蔵庫』だったよ。もっとも、自宅は死ぬまで出られない『檻』だったがな。だが、目の前の彼らにとっては、ここは希望に溢れた『城』なんだ。
「何ヶ月ですか」
「今ね、十ヶ月入ったところ。ほんとにもうすぐなのに、今住んでるところの契約が切れちゃって。だからすごくちょうど良かったです。ありがとう、不動産屋さん」
女性は幸せそうに笑った。
「いいえ。じゃあ、こちらが契約書になりますので。進めてよろしいですね」
「はい、お願いします」
幸せそうな若い夫婦を見て、古傷が疼いた。自分もこうあるはずだった。安定した仕事、温かい家庭、守るべき子供。かつて自分が描き、そして『金がない』という理由だけで破り捨てられた未来図が、目の前にある。
「……あの、不動産屋さん?」
「えっ。あぁ、すみません、それでは重要事項の説明に移りますね。座らなくて大丈夫ですか」
「はい、大丈夫です」
栄は自分が説明していながら上の空でいた。もし、あの時彼女と結婚していたら、事故物件専門なんて汚れ仕事はしないで、普通の不動産屋として生きていたかもしれない。
今頃、目の前の夫婦のように子どもができたりしていたかもしれない。
だが――もしそうしていたら。『あいつ』とは出会うこともなかった。
栄の脳裏に、薄汚れたジャージ姿の男が浮かぶ。今頃、南青山の事務所で、エアコンをガンガンに効かせて、店番と称して競馬中継に熱中しながら酒を飲んでいるのだろう。『金づる』と呼び合い、互いに利用し合うだけの、契約関係。だが、あのクズは栄を値踏みしたりはしない。金さえ払えば、文句を言いながらも隣にいる。
過去は、過去だ。あんなダメ人間を養う今の生活も、悪くはない。
栄は小さく、口元だけで笑った。
「では、ここにハンコをお願いします」




