第十二話 ある母子の悲劇
二〇二一年、十月下旬。台風が去った後の照り付けるような日差しは思った以上に強かった。例年ならコートを準備し始めるような時期のはずなのに、じりじりとした暑さが晩秋にも残っていた。玄関の庇が陰になっていることに栄は少しだけほっとして、ネクタイを緩めてから鍵を開けた。
「――ひでえな」
栄は呟いて顔を顰めた。ツンとするようなオゾンのにおいが鼻をつく。空調の大きな音が部屋の中に響いていた。高濃度脱臭機がフル稼働している証拠だ。
綾瀬川のすぐ近くにある築年数が四十年ほどになる1Kのアパートが、今回の現場だった。玄関入ってすぐの扉が水回りになっている。バス・トイレ別ではあるが、洗面台はない。
「ここの風呂場、だったんだよな」
栄は日の光の入らない北向きのタイル張りの風呂場を見た。特殊清掃が入った後で生々しい血痕や汚物こそ残っていないものの、悲惨な現場状況を聞かされてしまうと、嫌でもこの薄暗い部屋で起こったことを想像してしまう。
「ここの家主は二十代前半の女性。一週間前にこの風呂場で出産して――その出産した子供と一緒に、死亡」
栄の声は川底に沈む泥のように沈んでいた。
「特殊清掃はすぐ入れましたけど、それより前にどうにかしたかったっすね」
この現場の清掃を担当した『株式会社絆建設』の剛田翔は、半泣きになりながらワンカップの酒の蓋を開け、キッチンに供えた。
「赤ちゃんの声がしたのを隣の部屋の人が聞いてたんすよ。でもその声がすぐに聞こえなくなったから、おかしいなって思って警察に連絡したそうっす。そしたら――」
「既に事切れていた、ってわけか」
栄は壁に掛けられている可愛らしい猫のキャラクターの描かれたカレンダーを見た。一ヶ月前のままだった。日付に赤丸がついている。その下に小さな文字で、『予定日』と書かれていた。
「あんまりっすよ。こんな暑い中、誰にも頼れなくて」
剛田の声が震えている。栄は小さなキッチンの作業スペースの上に、箱に入ったままの哺乳瓶を見つけた。シンクの前に、新生児用のおむつの袋が、封を切らずに置いてある。
「育てようとは、したんだろうな」
「ここの大家さんの話では、よく男が出入りしてたらしいっす。一年くらい前は仲良く一緒にいて、見かけたら挨拶もしてくれるような人だったらしいんすよね。それが、ぱったり男は見なくなって、ここの家の人もずっと暗い顔をしてた、らしいっす。話しかけづらい雰囲気だったみたいっすね」
「最悪だな、その男。ヤるだけヤって、デキちゃったらはい用済みってか。クズすぎるだろ」
紫苑が吐き捨てるように言った。
「俺もクズだけどさ、そういうリスクは取らねぇようにしてたよ。ヒモしてたときにナマでもいいよって言われたけど、そこだけは譲らなかったな」
ヒモにもヒモなりの矜持があるとでも言いたげに、紫苑は続けて言った。
「酷いよな。こういうのって被害を受けるのはいつだって女性だ」
「妊娠って過酷っすよ。まだおなかが大きくないうちはつわりとかで苦しむし、流産するかもとか言われたりするし。安定期入ったってちょっとでも出血があったら即病院行かねぇとだし、後期はおなかが重くて動けないとかっすからね」
「詳しいな。それ嫁さんの話か」
剛田は少し照れたように頭を掻いて頷いた。
「うちの嫁さんは最後までつわりに苦しんでましたよ。マジでマックのポテトしか食えなかったっすね」
あの黄色いMのマークの入ったファストフード店のフライドポテトだ。想像して、栄は驚いた。
「つわりって、吐くんだろ。そんな脂っこいもの食っていいのか」
「いやあ、普通の飯が食えなかったんすよね。色々試したんすけどね、あの塩気がいいらしくて。俺、朝晩毎日Lサイズ買ってきましたよ」
「人間て不思議だな。ポテトだけで育つんだ」
「栄養、大丈夫だったのかな。まあ、剛田さんのところお子さん元気だもんな」
「お陰様で元気に小学校通ってますよ」
栄はメインルームに続くドアを開けた。七畳ほどの部屋には、万年床になっていたのだろう、布団とくしゃくしゃになったブランケット、小さなローテーブルがぽつんと置かれているだけだった。
何度も読んだのだろう。表紙が擦り切れ、端が捲れている子育て情報誌が床に落ちているくらいで、この家主の私物らしい私物はほとんど残っていなかった。
「色々物件見てきたけど、ここまで物がない部屋もなかなかないもんだな。女性なら、メイク道具みたいな細かいもんとかあるはずだけど」
壁際の一角の壁紙が、一部分だけ埃の跡が残っていた。
「あそこには少し前まで棚かテレビがあったはずだ。埃の跡が残ってる。クローゼットの中も空っぽだ。フリマアプリか、リサイクルショップか。ブランド品なんかや売れそうな金目のモノはすべて現金に換えたんだろう」
紫苑は小さなテーブルの上に、空になった錠剤のシートが置いてあることに気付いて、拾い上げた。
「なんだこれ、薬?」
「あ、それ風呂場にもいっぱい落ちてたっすよ。警察が全部持ってっちゃいましたけど。多分一気に飲んだんでしょうね」
薬は精神安定剤の処方薬のようだった。紫苑は顔を顰めた。
「こんなの飲んでまで……」
紫苑は奥歯をギリ、と噛むと、錠剤のシートを投げ捨て、立ち上がって浴室に向かった。
「紫苑、どうした」
「仕事すんだよ」
Tシャツの上から皺くちゃになった袈裟を羽織る。ジャージのポケットから独鈷杵を取り出すと、手に握った。葬儀でよく聞くような、朗々とした声が浴室に響いた。
コンビニの袋から取り出したのは線香だった。百円ライターを擦って、紫苑は火をつけた。
「社長、あれが除霊ってやつですか」
剛田がこっそり栄に耳打ちした。
「いや。俺もあのお経は初めて聞く」
ひとつひとつの所作が恐ろしいほどに丁寧で、流れるように美しい。狭い浴室がまるで厳粛な葬儀会場であるかのように見えた。
紫苑は真剣な顔で読誦を続ける。あまりの剣幕に、栄と剛田も自然と静かに手を合わせた。
「オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニ ハンドマ ジンバラ ハラハリタヤ」
線香の煙が細く伸びていく。天井に到達する前に、音もなく空気に溶けて消えていった。
紫苑の声は泣いているようにも聞こえた。誰も救ってくれなかったこの家主に向けた、紫苑なりの手向けの言葉。
「――ウン」
最後の聖音が消えると同時に静かに紫苑は印を解いた。
「北条、お前」
「光明真言。地獄に落ちた者を救う、最強の救済で……ありがたいお経だよ」
紫苑は袈裟を脱いで、雑にポケットにしまった。
「この男、ホントにクズだよ。この人が嫌がってたのを言いくるめて、ほとんど無理矢理に近い形でヤったみたいだ」
吐き捨てるように紫苑は言った。
「『付き合ってるんだから当たり前だろ?』『ちゃんと責任取るし』――でもそれは大嘘だった。デキたらデキたで『そんなのお前の自己責任だろ、俺には関係ねえ』って突き放した。『いいじゃん、気持ちよかっただろ』って、それはお前だけだよって話だ」
栄は黙って下を向いた。剛田は拳を握り締めて震えている。険しい顔をしていた。
「気付いた時にはもう五ヶ月を過ぎてたんだと」
「五ヶ月って。そんなに気付かないもんなのか」
妊娠周期が二十二週を超えると、母体保護の観点から堕胎はできなくなる。
五か月を過ぎていたころであれば、中期中絶手術はぎりぎりできるくらいなのだろうが、人工的に陣痛を起こし、流産処置をする――つまり、出産と変わらない。体への負担が大きく、高額な費用が掛かるため、この被害者はその治療費を払うことはできなかったのだろう。
「凄いっすね、経過が順調だったのかな。何かしら気付きそうですけど」
「警察とか、役所とかにに言えなかったのかな。いや、動けなかったのか。『暴行や脅迫の証拠がない』『恋人同士のトラブル』――民事不介入、ってやつさ。便利な言葉だよ」
録音や録画などの証拠がなければ、警察は介入できない。
栄のやるせない言葉に紫苑は頷いた。
「そう。区の相談窓口まで行っても、もう一度ちゃんと話し合ってみてください、って追い返されたんだ。もうその男は連絡先も全部ブロックしてトンズラした後だから、話しようがねえのにな」
「不安に思っている間にも、お腹の中の子は待ってくれないよな。誰にも相談できない絶望感を抱えたまま――風呂場で出産した」
「病院に行かなかったってことっすよね。母子手帳受け取らなかったんすかね。検診のクーポンとか貰えたはずっすけど」
「認めたくなかったのかもな。半分はその男の種だ。そんなクズが父親だなんて、考えたくなかったのかもしれない。それでも――何かしらの支援はできたはずなのに。補助金だとか、住宅補助だとか、公的支援だけじゃなくて民間にもあるはずだ。出産したなら、養子縁組とか、そういう手だって打てたはずなのに」
「知ってれば良かったんでしょうけどね。知らないなら『ない』ものと同じっすよ」
俺も結構調べましたよ、と剛田は静かに言った。
「天國社長みたいな頼れる人がいれば、まだ違ったのかもしれないっすね。アタマ、真っ白になりますもん。俺も最初は堕ろしてもらった方がいいのかな、って思ったっすよ。でも、それって生まれようとしている命を奪うことじゃないっすか。麗奈の体にだって負担がかかるし。だったら、俺がケジメとらねえとって。金も職もねえけど、あいつのためならどんな汚れ仕事でもやってやろうって――」
栄は、初めて『絆建設』に仕事を依頼した時のことを思い出していた。まだ剛田翔が会社を立ち上げたばかりの話だ。最初はリノベーションの相談をしていたが、特殊清掃も必要だからどこかいい業者を知らないかと尋ねたところ、だったら自分にやらせてほしい、と剛田は手を挙げたのだ。
現場は、絆建設にほど近い、足立区と八潮市、草加市のデルタ地帯にある、ワンルームのアパートだった。
真夏の、汗が額から噴き出るような日だった。部屋には、独特の腐敗臭が充満し、蠅が音を立てて飛びまわっていた。普通の人間なら、一歩踏み入れただけで嘔吐してしまいそうだった。栄は一瞬えずいて、反射で口をハンカチで押さえた。
剛田は、防護服に身を包み、防毒マスク越しに荒い息を吐きながら、体液で黒ずんだ畳を剥がしていた。
「剛田さん、気をつけろよ」
栄が背後から声をかける。
「体液が床板まで染みてる。釘や木片でスーツを破いたら終わりだ。感染症に罹ったら、あんた一生苦しむぞ」
「うっす。分かってます」
剛田は、体液でドロドロになった布団を、嫌な顔ひとつせずにビニール袋に詰め込んでいった。そこには、ウジやハエの死骸がびっしりと付着していた。生理的な嫌悪感を催す光景だ。
普通の清掃業者なら悪態をつきながら作業するところだろう。
だが、剛田は違った。
「辛かったよな。一人で」
剛田は、布団の隅に残された、苦痛で爪を立てたのだろう痕跡を見て、ポツリと呟いた。
「成仏してくれよな。今、綺麗にしてやっから」
その声は少し震えているようだった。剛田の手つきは汚物を処理するものではなく、怪我人を手当てするかのように丁寧だった。
栄は、黙々と手を動かす剛田の背中を見つめた。どんなに酷い特殊清掃の現場だとしても、彼は家主に同情を示すことはあっても、現場に対する愚痴を一度も発することはなかった。
誰だってやりたくない仕事だ。感染症のリスク、耐え難い悪臭、精神的な摩耗。だが剛田は、目の前の惨状を『汚いゴミ』としてではなく、『かつて生きていた人間の最期の場所』として扱っていた。
栄が剛田に現場を任せる理由は、内装の技術や要望に応えられる能力だけではない。こうした特殊清掃を通じた『死者への礼儀』があるからこそ、天国不動産の事故物件は、弔いになり得ていたのだ。
「世の中みんなお前みたいな男だったらこんな悲しい事件は起こらなかったのにな」
紫苑は遠い目をして言った。
「いやあ、世の中みんな俺レベルだったら困るっしょ。バカしかいねえ世の中になっちゃいますよ」
暗い空気を吹き飛ばすようにしながら、剛田は笑った。
「もしこの人がうちの隣にでも住んでたらな。うちで事務員やらねえかって働く場所を作ってやれたし、事務所に託児所もあるから赤ちゃんも安心だったし」
「事務所に託児所あんの」
紫苑は驚いた。
「うちの連中、子ども多いんすよ。まあ、うちも来年に四人目産まれるんすけどね」
照れながら剛田は言った。
「すげぇなあ、ここだけ出生率高え」
「今度紹介しますよ、うちの家族」
「いい。ごめん、お前のところ眩しすぎて、多分俺溶けるわ」
言葉こそ自虐しているようだったが、確かにそこには棘があった。
「さて。この部屋どうすっかな」
栄は腕を組んだ。




