第十三話 『浄化完了報告書』
「なんで? いつもと同じだろ。俺がここで寝泊まりして、いい感じにリノベして、ロンダリング完了。めでたしめでたし、だろ」
「できないんだよ」
栄が発した言葉に紫苑は凍り付いた。
「――は?」
「今年の五月に国交省がガイドライン案を出して、今月正式に決定したんだ。『心理的瑕疵物件』に関する、な」
「なんだよそれ。俺たちの仕事無駄ってこと」
紫苑の声が少し震えている。
「無駄じゃねえよ。ちゃんと掃除して、ちゃんと供養してやった。でも物件にはケチがつく。ここは事故物件です、ってな。今までは『誰かがそこに住んだ痕跡があれば』その告知義務は消してもいい、そういう慣習だった。法律で決められてたわけじゃない。黙って見逃してもらってただけなんだよ」
紫苑は打ちのめされたように俯いた。剛田は黙って、栄の言葉を聞いている。
「『人の死の告知義務は、原則三年』――誰が住もうが住まいが、発生から三年間は『ここは事故物件です』と言い続けなきゃいけないルールになった」
「そしたら、この前の平和島のおっちゃんみたいなところはどうなるんだよ。俺たちの知らないところで孤独死なんか、よくあることだろ」
「孤独死とか自然死は告知しなくていいことになってる。まあ、見つかるまでに時間がかかって特殊清掃が必要だとか、そういう物件は知らせないとまずいけど。そうじゃなかったら世の中事故物件だらけになっちまうから、お国がそう決めたってことだよ」
「ここだと、自殺にあたるんすかね。赤ちゃんはこの人の手で……それから薬を大量に飲んで死のうとして、吐いたもんで窒息死、って聞きましたけど」
「ああ、完全にアウトだ。母親の自殺だけならまだしも、赤ん坊の件は『殺人』扱いになる。警察が介入したような案件は、自然死の枠には入らないんだよ。残念だが、紫苑がいくらお経をあげたとしても、いくら剛田さんがきれいに掃除したとしても、この『三年の呪い』は法的に消せないんだ」
栄は窓の外を見た。通りすがりの人がカメラを構えているのを見つけて、睨みつけて舌打ちをすると忌々しそうにカーテンを閉めた。
「ロンダリングするにも、ここはあまりにも有名になりすぎちまった」
ここで起こった悲劇は、すでにワイドショーやネットニュースの餌食になっていた。十か月にも及んだ女性の孤独と苦しみは、わずか五分にも満たないニュースとして切り取られ、大衆に消費され、そしてすぐに忘れ去られていくのだろう。
「じゃあ、事故物件として貸すことになるんすね」
「そういうことになるな。だからこそ、北条、お前の力がいるんだよ」
「なんだよ。ロンダリングできねえんだろ。じゃあ俺いる意味ないじゃん」
紫苑は体育座りをしたまま顔を膝の間に埋めた。完全に不貞腐れている。
「『除霊師がしっかり供養して除霊済みで、安心安全の物件です』。この証明書をつける」
栄は鞄から、一枚の書類を取り出した。そこには『浄化完了証明書』という、いかにも厳めしい文字が印字されていた。
「なんだよこれ」
紫苑はその書類を受け取る。普通のコピー用紙ではなく、ざらついた和紙のようだった。
「これからは『隠す』必要はなくなった。だから『安心』を売る。『当社専属の除霊師による完璧な除霊済み。霊的瑕疵は一切ございません』。この証明書をつけて、相場より少しだけ安く貸し出すんだ」
紫苑が顔を上げて、栄を見る。その顔は自信にあふれていた。
「今の世の中、幽霊よりも『得体の知れない不安』の方が圧倒的に嫌われる。だが、お前が責任を持ってここを供養して、俺がそれを保証する。そうすれば、この部屋は『ただの気味が悪い事故物件』から、『プロが安全を保証したお買い得物件』に変わるってわけさ」
栄はニヤリと笑った。
「お前の仕事は『悪霊の掃除屋』から『天国不動産のブランド』になるってわけさ。ここにサインしろ、北条。お前の名前が、この部屋の価値になる」
「勝手に決めてんじゃねえよ」
紫苑は栄からひったくるようにして筆ペンを手に取った。深呼吸する。ペンを持った手が震えた。
「嫌なこと思い出させやがって」
筆先が紙に落ちる。流れるような運筆。力強く、しかし優美な文字で、『北条紫苑』の名が刻まれた。
「すっげぇ。なんか、坊さんが書く字って感じだ」
「坊主じゃねえよ。これでいいのかよ、社長」
紫苑が書類を渡す。出来上がった文字を見て栄は満足そうに頷いた。
「完璧じゃねえか。やっぱり思った通りだったな。お前筆で書いたほうが字が上手い」
「死ぬほど写経させられたからな。終わるまで飯が食えなかったんだよ。そのくせ、間違えたら最初からやり直し。マジで地獄だぜ。賽の河原のほうがマシ」
紫苑は筆ペンを放り投げて、煙草を取り出した。火をつける手が震えている。
「大丈夫っすか」
「別に、なんもねえよ」
心配そうに尋ねる剛田を拒絶するかのように、紫苑の声は冷たかった。
ふう、と吐き出されるメンソールの冷たい紫煙は、部屋に溶けるように消えていく。
「社長、この部屋どうすんだ。リノベするったって限度がありそうだけどな」
「風呂場の床材変えるくらいか。剛田さん、タイルの目地に取れない汚れがあったよな」
「できる限りやったんすけどね。経年劣化もありましたし、タイルは寒いからこれからの季節のことを考えて、張り替えちまっていいかもしれないっす」
「オーケー、じゃあその方向で行こう。後で見積り投げてくれ。いつもありがとうな、剛田さん。また頼むよ」
「こちらこそっすよ。天国不動産のおかげで、うちは成り立ってるようなもんですから」
「……焼肉でも食ってこうか。剛田さんもどうだ」
「はい、ありがとうございます」
剛田は白い歯を見せて笑った。
平日の夜にもかかわらず、現場の近くにあった焼き肉店は混雑していた。
網の上で肉がじゅうじゅうと音を立てて煙を上げる。網の下に落ちた脂で一瞬炎が上がった。
栄は肉をひっくり返した。車を運転する栄と剛田はウーロン茶、紫苑はレモンサワーを大ジョッキでオーダーしていた。
「不思議なことにさ、その男すげぇ普通の見た目をしてたんだよな。ぱっと見は真面目そうな――ホストとかじゃない、その辺にいそうな普通の男」
そう言って紫苑は栄のひっくり返した肉を箸でつかんで、自分の皿に移してタレをかけた。そのまま丼のようなサイズのご飯の上に載せる。つやつやとしたごはんと、甘い醤油のたれが染みこんだご飯に、紫苑は器用に脂の載ったロースの肉を包んで口に入れた。
「そういうヤツは仕事だって中途半端なんだ。プライドばっかり高くて、いずれどっかで破滅するよ」
栄はトングで焼けた肉を剛田の皿へ移してやった。焼肉屋に来たとき、栄は奉行になる。焼き加減の沙汰は全て栄次第。
タン塩から始まり、ロース、カルビ、一度網を変えてもらい、栄の好物であるハラミとホルモンを同時に展開する。
肉の枚数の管理もきっちりとしている。ハラミは栄が少し多めにもらうのだが。
「違いねぇっす。自分の女ひとり守れないような男は、結局なにも守れないもんすよ。ほんとダセェなって思います」
紫苑は特上ロースを口に入れたあと、満足そうに頬を緩め、大口でごはんを頬張った。丼のご飯は半分がなくなっている。
「ま、心配しなくても制裁は下ってるよ。そいつ、同じこと繰り返すだろうから水子の霊が背中にいっぱいいるだろうね。一生幸せになんかなれねえよ。精々苦しめばいい」
「じゃ、これはあの女の人への弔い――ってことで」
剛田がグラスを持ち上げると、栄と紫苑も顔を見合わせて、グラスを静かに合わせた。
***
「いいんですか、こんなに安くて。もーめっちゃ助かりますー」
金髪の長い髪をした女性は、部屋に入るなりスゲェきれいじゃん日当たり良すぎ、とまるでテーマパークに入るような口ぶりでずんずんと進んでいった。
「本当に良かったのか」
栄はじっとりと横目で剛田を見た。彼は苦虫を噛んだような顔をしながら、頭をかいた。
「いやあ、本人たっての希望っすからね。言ったんすよ、ちゃんとここでなにがあったか」
絆建設の託児所の子供が増えてきたので、新しく保育士を雇うことになったのだ。どうせなら職場に近い場所で家賃の安い場所に居を構えたいという彼女自身の希望があったため、絆建設社長である剛田は例の事故物件を紹介した。悲惨な事件があったこと、除霊現場に彼自身も立ち会ったことを伝えると、保育士の女性はガチのやつなら大丈夫っしょと、内見を決めたのだそうだ。家賃が浮いた分で子供たちに絵本を買うつもりでいたらしい。
「見ましたよ、幽霊? のお祓い、とかそういう証明書。あの筆文字ガチのやつじゃないですか。なんつーか、『今年の漢字』とか書いてそうなお坊さんの字」
浄化完了証明書は、やはり効果があったようだった。紫苑の筆文字が格を上げてくれたのだ。
「切ないですよね。ママも赤ちゃんも辛かったんだろうなー。でもあたしがここ住んだら解決っすね」
「先ほどの証明書の通り除霊は済んでますから、多分もう大丈夫だと思いますけど」
栄は不思議そうに言った。
「もし出てきても赤ちゃん可愛がれるじゃないですか。生まれたてっすよ。ママさんも若かったって聞きますし、仲良くなれたら楽しくないっすか。子育て大変ですよね~、みたいな話しながら手遊び歌歌うんすよ。そしたらお互いに超ハッピーじゃないですか? やべぇ、考えたらすごい楽しそう。いいですか、契約しても」
保育士の女性の言葉に、栄は一瞬言葉に詰まった。きっと、ここに住んでいた女性が欲しかったのは捨てた男の庇護じゃない。ただこうして、「大変っすね」と笑い飛ばして、同じ目線で悩みを聞いてくれる誰かだったのかもしれない。紫苑がお経で救い上げた女性を、目の前の太陽のような保育士がきっと癒し、成仏に導いてくれるだろう。
――あぁ、そうか。栄は気付いた。
ロンダリングしなくても、物件が背負った傷は、人の手で癒すことができるのだ。
「天國社長?」
剛田に声をかけられ、栄は我に返った。憑き物が落ちたような、不思議な軽やかさが胸に残っている。
「もちろん、よろしくお願いします。では、契約に移りますね」




