第十四話 宿業の檻
二〇二二年三月下旬。年度末の慌ただしい中、栄のもとに一つの物件がやってきた。文京区の立派な一軒家だ。
閑静な街の中にあるその住宅は、グレーの重みのあるタイル外壁をしていた。築年数十五年ほどの住宅だが、汚れはない。
外からの視線を完全に遮断する高いブロック塀と、カイヅカイブキの生垣に囲まれている。
黒い鋳物の門は重たく閉ざされていて、警備会社のステッカーが玄関の扉に貼りっぱなしになっていた。
庭に植えてあった花壇の花は、全て枯れ果てていた。
そこに、雪が落ちてきた。
桜の開花宣言から数日。綻びかけた薄桃色の蕾を弄ぶように、東京では珍しい大粒の牡丹雪が凍てつく北風に乗り、白銅色の空を舞っていた。
「寒ぃー……」
紫苑はダウンジャケットのポケットから手を出すと、はぁ、と少し霜焼けた自分の手に長く息を吹きかけた。吐き出された息は湯気のように、空気の中に染み出しては溶けていく。
「まさか雪が降るなんて思わなかったな」
栄は空を見上げた。
まるで大粒の涙を零しているかのように、容赦なく雪はアスファルトの上に落ちては、吸い込まれていく。ところどころ道路を薄墨に汚して、冷たい層を作っていた。
もしかしたら本格的に積もるかもしれない。そう思いながら氷のようなアイアンの門扉に手をかけた。手袋越しでも伝わってくる鉄の冷たさが、この家の体温のなさを物語っているようだった。
「北条の実家って雪降るのか」
「降るなんてもんじゃないよ。あそこは人が住んでいいところじゃない」
紫苑は両手を擦り合わせた。
「古い寺だからあっちこっち隙間風が吹いてきてさ、バカみたいに外は雪が積もってるのに本堂は小さい石油ストーブひとつしかないんだ。そんな中で読誦なんてできると思うか? 寒すぎて頭回んねえし、指先の感覚が死んで印なんて結べねぇ、そもそも声を出したら喉が凍りそうになる。地獄より地獄だよ、あそこは」
「想像するだけで寒そうだ」
栄は身震いした。
「だろ? 観光にはお勧めしないぜ。夏はクソ暑いし、冬は北極みてぇに寒い。おまけに山の中だから店ひとつありゃしねえ」
栄は氷楔のような鍵でドアを開いた。
きれいに片付けられた玄関。三和土は磨き上げられ、まるで入ってくるのを拒絶しているようにも見えた。ワックスのかけられた廊下は鏡のように栄の足元を映し出した。まるで氷原を歩くかのようで、フローリングの冷たさが直に靴下に染み出して伝わってくる。
リビングにも家具は残っていなかったが、まるで執念のように、床だけではなく窓にも指紋ひとつないほどに磨き上げられている。
「すげぇきれいだね。俺もお前に付いてきて色々物件見てきたけどさ、その中で一番きれいかも」
「家主は医者だった――って聞いたよ」
「あぁ、だからかな。なんか消毒みたいなにおいがするんだ」
「よく分かるな。俺は何も感じない」
「お前は花粉症で鼻詰まってるだけだろ」
「うるさい。俺はお前と違って都会っ子なんだよ」
栄は寒さで鼻をすすった。
「キッチンもここで料理してたのかなってくらい、きれいだ。普通は五徳に焦げとか付いてるものだけどな。新品みたいだ」
栄はぐるっと視線を動かして、部屋を眺める。生活感がまるで残っていない。全て『なかったこと』にされている。
「怖いくらいにきれいだな。本当に、このまま入居できそうなほどだ」
栄は廊下に戻って二階に上がる。二階は二部屋あった。主寝室と、子供部屋だろうか。
部屋の中はがらんとしていた。クローゼットの中にも、フローリングの上には埃ひとつ落ちていない。この住宅が建ってからそれなりに年数が経っているはずなのに、壁紙も日焼けがなく、きれいだった。
「やっぱり、なんか消毒くさいな」
紫苑は鼻を摘んで、顔を顰めた。
「塩素みたいなにおいがする」
「潔癖、だったのかな。消毒のにおいは換気したらいずれ消えるよ。壁紙の張り替えも必要なさそうだし、クリーニングもほとんどしなくてよさそうだ」
「――俺、そこの部屋入りたくない」
栄が寝室を出て、隣の部屋のドアノブに手をかけた瞬間、紫苑が栄のダウンジャケットの裾をぎゅっと握りしめて、子供のように怯えた顔をして震えるような声で呟いた。
「ここが現場、ってことなのか」
「ああ。だけど、そこは」
「俺はこの物件を買ったんだ。部屋を確かめないといけない」
「ひっ――」
小さく紫苑が悲鳴を上げて目をぎゅっとつぶっている。栄は部屋のドアを開けた。
そこは、家族の『業』が煮詰められ、凝縮された部屋だった。
壁一面に貼られた『目指せ東大医学部!』と書かれた紙。学習机の上には赤本が塔のように積み上がっている。開きっぱなしのノートの上には、数式が途中まで書きかけてある。
ベッドもそのままで、掛け布団がくしゃくしゃになっていた。
家じゅうの時間が止まっている中、この部屋だけが死の直前の熱量を保ったまま腐敗していた。
何かに取り憑かれていたかのように、壁紙には『合格』『合格』『合格』の二文字が黒や赤のペンでびっしりと書き込まれている。それは祈りというよりは、呪詛のようだった。
「――これは」
「社長。なあ、お願いだ。ドアを閉めてほしい」
紫苑の息は荒く、泣きそうな声をしていた。顔面は蒼白で、脂汗が浮いている。
「そんなにヤバいのか」
「被害者の霊自体は大したことない。ただ、この部屋だけ怨念が凄いんだ。母親の残した罵声とか怨念とか、そういうものが染み付いてる。ごめん、吐きそうだ」
紫苑は口元を押さえ、逃げるように階下のトイレに駆け込んだ。ドタドタという足音の後に、激しく嘔吐する音が、静まり返った豪邸に響いた。
「怨念、ね」
壁に貼られた偏差値表。そこには、『まだ伸びる!』『100点以外は点数じゃない!』とペンで力強く書かれていた。
栄は開かれたままのノートを捲った。震えるような字で書かれた数式。計算式は合っているはずなのに、どこか自信なさげで、誰かの顔色を窺うような筆跡だった。
「教育熱心な母親だったんだろうな。東大医学部、か」
栄は、自分の高校時代を思い出した。都内の私立高校で、サッカー部の二軍。プロになれる才能はなかったが、腐らず三年間続けた実績と、授業を真面目に受けて維持した内申点。それらをカードとして切り、栄は『指定校推薦』という最も安全なルートで早々に私大への切符を手にした。
「俺には雲を掴むような話だ。逃げ道も、損切りのタイミングも与えられなかったのか」
栄は静かにノートを閉じた。合理的な彼にとって、勝ち目のない戦いを強要され、命まで落としたこの青年の結末は、あまりにも割に合わないものに見えたのだ。
「まるで『檻』だな」
青い顔をしながら紫苑が部屋に戻ってきた。
「うー、気持ち悪ィ。朝食ったの全部吐いた」
「大丈夫か? でもこれはお前にしかできないことなんだ。もし無理そうなら日を改めて……」
「いい。どうせ後でやっても、今やっても一緒だ。だったらさっさと終わらせて、エアコンが効いた部屋で麻雀リーグ見てるほうがずっといい」
紫苑は一度大きく息をついた。
「やってやる。これは俺の問題でもあるんだ」
紫苑はダウンジャケットから独鈷杵を取り出した。
「今、解放してやるよ。家ってのは、安らげる場所であるべきなんだ。こんな牢獄みたいな冷たい『檻』なんかじゃない」
『どうしてできないの!』
栄が閉じたはずの数学のノートがパラパラと勝手に捲れる。カリカリ、と静かにペンを走らせる音が響いた。
『医者にならなければ、意味がないのよ!』
被害者の霊は、死んでいるのにまだ勉強机に向かっていたのだ。首にはロープの痕があるが、ボロボロ泣きながら数式を解いている。ノートに震える字で数式が記されていく。
『あなたのためを思って言ってるの!』
『ト……解カナイト……。ママニ、怒ラレル……。次コソ、合格シナイト……』
紫苑はゆっくりと首を振った。
「そんな必要はねぇよ。ここで、断ち切ってやる」
紫苑の叫びとともに独鈷杵がノートを貫くと、部屋中に響いていた不快な母親の金切り声が、ブツン、と唐突に途切れた。まるで、壊れたラジオの電源を引っこ抜いたかのように。
青年が、呆然とした顔で手を止める。シャーペンがカラン、と乾いた音を立てて床に落ちた。
「聞こえねぇだろ。もう、あのうるせぇ雑音はもうお前に届かねぇよ」
紫苑はノートから独鈷杵を引き抜くと、棚の上に飾られていたロボットのプラモデルを手に取り、青年の前に置いた。
「お前は何のために勉強してんだよ。親の顔色伺いか。東大に入りたいからか。それとも親の跡を継ぎたいからなのか。違うだろ。それはお前の『本心』かよ? 本当にお前が勉強したかったのはそんなことじゃないんだろ」
紫苑の声は痛々しいほどに震えていた。
「お前は医者になりたかったんじゃない。本当は……ロボットエンジニアになりたかったんだろ。医学部じゃなくて、工学部に行きたかった。違うのか」
棚の上には、ロボットのプラモデルがきれいに飾られていた。
『エンジニアになるには』――子ども向けの職業紹介の絵本は、他の本に比べて明らかに読み込まれていて、表紙がぼろぼろだった。
「ああ、わかるよ。俺も『出来が良かった』んだよ。霊力も、座学も。だから期待された。『本家にも認められた』『北条家の誉れだ』ってな。……それが、ガキの俺には猛毒だった。俺は坊主になりたくなかった。みんなと同じように『野球選手』とか『パイロット』とか、そんな夢を見ていたかった! でもそんな選択肢なんてなかった! 最初から親に決められて、敷かれたレールの上を進むしかなかった! 『飛行機のパイロットになりたい』なんて言おうものなら張り倒された。俺も、お前と同じだったんだ」
栄は黙って紫苑を見つめていた。彼が己のことを自分から話したのは、初めてのことだった。
「頑張らなくて、いいよ。『俺のやりたいことはこれなんだ、俺の夢を応援してほしいんだ』――両親に言ったのかもしれないけど。教師にでも友達にでも、言い続けてればよかったんだよ。そしたら、きっと、変わってたかもしれない。嫌なものはいやだって、俺はこうしたいんだって、逃げて……よかったんだよ」
青年の目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。それは苦痛の涙ではなく、ようやく許された安堵の涙だった。彼の体が、窓から差し込む雪明かりに溶けるように、淡い光の粒子へと変わっていく。
「お前はよく頑張ったよ。だからもう、いいんだ。好きなだけ……お前が本当に作りたかったロボットを、向こうの世界で作ったらいい」
紫苑の声は慈悲深く、優しい響きをしていた。それは除霊師が対象にかける言葉というよりは、傷ついた弟を慰める兄のようだった。
救いたかったのはこの青年であり、過去の自分自身だったのかもしれない。
栄は、窓の外の雪を眺めた。細雪が舞い、時折雨粒が黒い雲から落ちてくる。
「オン カカカ ビサンマエイ ソワカ」
地蔵菩薩の真言だ。子供を救う仏への祈りである。
他人の痛みを自分のことのように受け取り、共に傷つき、涙を流す。その不器用な優しさだけが、今、凍りついた魂を溶かしている。
「向こうに行ったら、笑って好きなことやれよな」
最後に青年は、憑き物が落ちたような、年相応の少年の笑顔を浮かべ——消えた。
その背中を見て、栄は息を吐いた。親ですら、なかったことにしようと消毒液で塗りつぶした青年の人生をこの男だけは拾い上げ、胸に刻み込んだ。
『あなたを忘れない』――と。
死者の無念を忘れず、その痛みに寄り添い続ける。それは除霊師としてはあまりに脆く、不合理な生き方かもしれない。
だが、だからこそ彼は誰よりも優しい弔い手であり、除霊師なのだろう。
「終わったか」
「ああ。寒かったな、ここ」
紫苑が振り返る。その目は少し赤いが、いつもの憎まれ口を叩く表情に戻っていた。
「帰るぞ。温かいコーヒーでも飲むか」
「いいな。奢ってくれるんだろ」
「『会議費』で計上するからな」
二人は、雪の降り積もる住宅を後にする。栄は冷え切った黒い門扉を閉めた。
庭の隅で、雪の重みに耐えながら、小さな蕾が春を待っていた。
「俺も、宅建一回落ちたから気持ちは分かるよ。内容は違うけどさ。追い詰められると、どうしていいか分からなくなるんだよな。視野が狭くなって、そこから落ちたら死ぬしかないと思い込む」
栄の言葉に、紫苑は悲しげに目を伏せた。
「生きてれば、どうにかなっただろうに。逃げてよかったんだよ。コンビニの廃棄弁当漁っても、ヒモになっても、泥水すすっても――」
「悪い不動産屋に騙されてブラックな仕事しながら、パチンコ打てるかもしれないしな」
それを聞いて、紫苑は一瞬きょとんとして、次の瞬間腹を抱えて吹き出した。
「あっははは、違いねぇや」
雪は止んでいた。ほんの少しアスファルトの上に重なった薄墨は、溶け出して排水溝へと静かに流れていく。
「止んだな、雪。明日は暖かくなるらしいから、全部溶けてなくなるんだろうな」
桜の蕾の上に雪が薄っすらと残っている。太陽の暖かな光が溶かし、いずれ花が咲くだろう。
ふと見せた紫苑の笑顔は、雪解けを告げる暖かな陽だまりのようだった。




