第十五話 『失踪宣告』
栄は月末の支払いの作業をしていた。
請求書をまとめ、振込リストを作成し、金額を間違えないように慎重にテンキーで入力した。一度入力したものを紙に出力し、請求書の原本と振込リスト、入力した金額が合っているかどうかのダブルチェックを行う。金額が合っていればそのまま振込の作業は完了だ。余裕があれば会計ソフト『飛鳥会計』で仕訳を入力する。それが一連の流れだった。
ダブルチェックした金額が合っていることを確認して、栄はネットバンキングの『振込実行』ボタンをクリックした。
「天國社長ー、給料まだっすかー。俺、腹減って死にそうなんだけど……」
紫苑はソファに寝転がりながら、力なく言った。
「明日にでも振り込まれるから、待ってろ。だいたいなんで金がなくなるまでパチンコ打ってんだ、お前は。メシ代くらい別にしておくもんじゃないのか」
「最悪百円ショップに売ってる菓子で飢えを凌ごうとは思ったんだけどさ、その百円がボートレースに消えちまって……」
「平和島の爺さん、余計なこと教えたな。舟券買ってんじゃねえよ」
栄はぐるぐると回るカーソルを眺めていた。現れたのはいつもの『振込が完了しました』のメッセージではなかった。
【エラーコード:ER-XXX 受取人口座の状態により、お取り扱いできません】
「はぁ?」
栄は眉をひそめ、無意識に舌打ちをした。入力ミスだろうか。もう一度手元のリストを確認する。金額も、振込先も合っている。残高が足りないのか。否、あり得ない。天国不動産の資金繰りは完璧だ。となると、原因はこちら側ではない。
「おい、北条」
栄はオフィスチェアをくるりと回転させ、冷ややかな声でソファに転がる部下を呼んだ。
「お前、口座解約したか。それかサラ金かなんか借りてないだろうな」
「はぁ? そんな借金してねぇよ。先週もコンビニで金下ろしたし、普通に使ってたぞ。サラ金はまあ、使ったことあるけど返したよ……多分」
最後の方は頼りなさげな言い方だった。
「多分じゃねぇよ。お前な、年度末のクソ忙しいときに手間をかけさせるな」
栄はスピーカーフォンで銀行のサポートデスクに電話をかけた。無機質な保留音が、事務所に苛立ちを煽るように響いた。五分ほどしてようやく繋がり、栄は受話器を持った。
「――そうです。従業員の口座に給与の振り込みができない状態です。口座凍結の心当たり? こちらにはないですね。本人は今、目の前で貧乏揺すりをしている」
栄は紫苑を冷ややかな目で見ながら話を進める。しかし、受話器の向こうのオペレーターの言葉を聞いた瞬間、栄の指が止まった。
「は? あの、もう一度言ってもらえますか」
部屋の空気が変わる。紫苑も異変を感じたのか、貧乏揺すりを止めた。
「――『名義人の死亡を確認したため、口座を凍結しました』?」
「はい?」
紫苑は間の抜けた声を上げた。
「はあ――はい、いや、確認します。どうも」
栄はゆっくりと電話を切り、目の前で生きているのか死んでいるのか分からない部下を見据えた。
「おい、ゾンビ。お前、いつ死んだ」
「ゾンビじゃねぇよ! 普通に人間だ、生きてるしなんなら腹減って今死にそうだわ!」
「銀行のシステム上、お前は死人になってた。考えられるのは――『失踪宣告』か。家族か誰かが、お前を法的に抹消したんだ」
「し、死人ぉ? なんで、俺死んでないのに勝手に死んでる扱いとかできんの」
「民法三十条」
「知らねぇよ俺は北条だ」
栄は額に手を当てて大きくため息をついた。
「お前なぁ。まあ、知らないのも無理はねぇか。『不在者の生死が七年間明らかでないときは、家庭裁判所は、利害関係人の請求により、失踪の宣告をすることができる』」
「バカでも分かるように説明してくれる?」
栄は二回目のため息をついた。
「つまりだよ。お前が家を出てから行方をくらまし、連絡を絶ってから満七年が経過した。その時点で、お前の実家の誰か――両親か親族か分からないけど、家庭裁判所に『あいつはもう死んだことにしてくれ』と泣きついたんだ。これを『普通失踪』と呼ぶ」
「普通失踪……」
紫苑は天井を仰いだ。その表情から、先ほどまでのふざけた色が消える。
「そんな経ってたんだな。東京に初めて来たときに、実家に帰りたくないからそのまま逃げたんだ。最初はネカフェ難民して、金が尽きたら適当な女の家に転がり込んで……ヒモして、飽きたから捨てて、ホスト始めたりして、また別の女のとこ行って……。そんなこと繰り返してたらあっという間に七年かよ」
「ああ。そして法律上、お前は期間満了の時をもって『死亡したもの』とみなされる。つまりお前の親族にとって、お前はこの世に存在しない――ってことになっている」
もうお前は必要ない、というはっきりとした拒絶だった。
「おかしいだろ。よく分かんねぇけど、裁判所とかから『お前明日で死にますからよろしく』みたいな手紙とか来ねーの? ここの事務所とかに」
「来るわけないだろ。お前さ、住民票を実家から移したか。してないだろ」
「それは――だって、移すと居場所がバレそうで嫌だったし」
「それだよ。裁判所からの通知は、お前の『最後の住所』である実家に届いたはずだ。だが、両親はそれを黙殺した。官報には載っただろうが、そんなもん隅々までチェックしている人間なんて、暇人か金融業者くらいだ。お前、読んだか」
「……カンポー?」
紫苑は首を傾げた。
「それ以前の問題だったな」
「じゃあ、親父たちは俺が東京で生きてるかもしれないってわかってて、無視して手続きを進めたのか」
「あるいは、お前が野垂れ死んでいると本気で信じているか、だな。いずれにせよ、銀行口座が凍結されたということは、彼らは既に『遺産相続』の手続きに入っているということだよ」
「ふざけんな、俺の金は俺のもんだ! あいつらになんてびた一文くれてやるもんか! だったら全部パチンコ台に突っ込んだ方がマシだぜ」
「あのな、俺も困ってるんだよ。死人に給料は払えない。年末調整もやり直しだ。お前が死んだことになれば、これまでの社会保険料の納付も全部ひっくり返る。過誤納の還付手続きに、修正申告。いいか、ただでさえ忙しい年度末だ。ゾンビの尻拭いで、俺の貴重な時間をこれ以上奪うな」
「な、なんとかならないのかよ。俺このままだと無給労働じゃん」
「俺はそれでもいいけどな。でも死人に働かせても法人税が安くなるわけじゃないからな。失踪宣告の取消しは『民法第三十二条』だ。お前本人が申し立てれば、裁判所は認めざるを得ない」
「え、じゃあ裁判所行けばいいのか。楽勝じゃん。『ここから一番近い裁判所』――と」
紫苑はスマホで検索を始めた。
「間て。お前、実家どこだっけ」
「言ったじゃん。京都の山奥だって」
「管轄はお前の『住民票に記載してある住所』――つまり実家のエリアだ。京都家庭裁判所に出頭する必要がある」
「京都ぉ? い、嫌だ、帰りたくない! あそこに戻ったら、またあの気持ち悪い母親と、説教親父に囲まれて……無理無理! あんなところ行くぐらいなら俺死んだままでいい! ホームレスでも何でもやってやる!」
栄は静かにパソコンを操作した。カチカチとマウスを動かし、何か入力するとエンターキーを強く叩いた。プリンターが起動し、一枚の紙が吐き出された。
予約完了画面の控えだ。
「取ったぞ、新幹線のチケット。明日の始発だ」
「し、始発って……夜中じゃねぇかよ。俺寝てるよ」
「だろうな。だから俺も一緒に行く」
「え、一緒に行ってくれんの」
「当たり前だ。お前一人で行かせたら、どうせ親に丸め込まれて、諦めて京都で軟禁生活を始めかねない。お前はウチの備品だ。減価償却も終わってないのに、勝手な処分は許さん」
「社長ぉおおお!」
「ぐわっ!?」
感極まった紫苑が、タックル気味に栄に抱きついた。
「マジで神! 仏! 一生ついてく! 靴でも何でも舐める!」
「寄るな死人! ちょっ……やめろ!」
栄は紫苑の頭を引っ剥がそうとするが、紫苑のホールド力は凄まじい。それでも栄は、本気で彼を蹴り飛ばしたりはしなかった。
「俺は必要な書類をこれから集めなきゃならねぇんだ。お前は明日に備えてさっさと寝ろ。目の下にクマを作ったまま帰省したら、俺がこき使ってるみたいに思われるだろうが」
「へーい、お休み、社長」
紫苑はヘラヘラと笑いながら、ようやく栄から離れてソファにダイブした。栄は乱れた襟元を直しながら、大きなため息をつく。だが、その横顔は、厄介な仕事を抱え込んだにしては、どこか満足げでもあった。
「まさか、な」
紫苑には言っていない。
三日前に差出人不明の封筒が届いていた。中身は、写真だけ。栄と紫苑の二人が写った写真だが、全て栄の顔が油性ペンで黒く塗りつぶされている。どれも望遠レンズで撮影されたもので、少しぼやけていたり、粒子が粗いものだった。
同業者からの嫌がらせかと思ったが、まさか――
栄はパソコンのモニターに向き直ると、驚くほどのスピードでキーボードを叩き始めた。
***
年度始まりの日だというのに、栄と紫苑は品川駅にいた。時刻は五時半を回ったあたりだった。まだ早い時間だというのにキャリーケースやバックパックを背負った旅人が行き交う駅で、紫苑は楽しそうに弁当を選んでいた。
「すっげぇ、イクラとカニが乗ってる。栄はどれにする?」
紫苑は店先に並べられた弁当に目を輝かせながら弾んだ声で言った。
「牛肉すき焼き弁当にするかな」
「あ、いいね。うまそう。俺もそれにしようかな」
栄は二つ弁当を手に取った。冷蔵のケースから緑茶を二本取り出して、会計する。
最近はスマホのコード決済がどこでも使えるようになってきている。現金を触る必要がない、管理が不要、電子化した明細で帳簿の管理も楽、と一石三鳥だ。
「新幹線乗るのなんて何年ぶりだろうな」
栄は券売機で切符を出しながら呟いた。
「社長ってさ、旅行とかすんの」
「最近は忙しくて行ってない。まあ、またそのうち行きたいけどな」
ふーん、と自分から尋ねておきながら紫苑は興味なさそうに言った。
「最後に新幹線に乗ったのは……八年前か」
「勝った。俺七年」
「何の争いだよ」
ほら、と紫苑に切符を渡す。紫苑は瞳に影を落としながら、それを受け取る。
「指定席だからな」
ホームに降りる。同じように西へ向かうビジネスマンや旅人が、列車を待っていた。
やがてベルの音と同時に新幹線は入線した。栄と紫苑は席につく。紫苑が窓側だ。
定刻通りに新幹線は品川駅を滑り出した。車窓から品川のビル群がゆっくりと後ろへ流れていくのを横目に、紫苑はテーブルを展開した。
「メシ食お」
紫苑の声は、先ほど弁当を選んでいた時のような弾んだものではなかった。買ってきた牛肉すき焼き弁当の蓋を開ける。甘辛い割り下と、牛肉の脂の匂いがした。普段なら食欲をそそるものだが、今の紫苑には、それが胃を締め付ける重石のように感じられた。
「いただきまーす……」
割り箸を割ろうとする。だが、カチ、カチ、と空回りの音がした。指先に力が入っていないのだ。手が小刻みに震えている。
「あー、ははは。なんだよこれ、手が滑るな」
紫苑は引きつった笑みを浮かべ、震える手を隠すように太ももの下に敷いた。その様子を横目で見ていた栄は、無言で自分の箸を割り、紫苑の弁当の上に置いてやった。
「……ありがと」
紫苑は箸を手に取るが、肉を口に運ぼうとしても、箸先が震えてポロリと落ちてしまう。
「社長」
「なんだ」
「無理だ」
紫苑は、先ほど栄が買ったペットボトルの緑茶を恨めしそうに見つめた。
「手が震えちゃってさ。なんか、緊張してるときみたいな」
「食わないともたないぞ。裁判所で待たされたら、食事なんか摂れないんだ」
タイミング良く、通路の向こうから「車内販売でございます」というアナウンスが聞こえてきた。紫苑にとっては、まさに地獄に仏だ。
「社長。お願いがあります」
「お前な。まだ朝の六時過ぎだぞ」
「頼むよぉ。従業員貸付金に入れといていいから。利子とっていいから。胃の中アルコール消毒しないと、俺、新横浜に着く前に吐く自信がある……」
言葉こそ軽いものだったが、紫苑の瞳は揺れていた。不安。動揺。そして――恐怖。
どんな霊にも怯むことのないこの男は、ただ実家の影に子供のように怯えていた。
栄はため息をついて手を挙げた。
「すみません、ビールひとつ。あと、乾きものも」
「かしこまりました」
栄は現金で支払うと、プルタブを開けた。カシュッ、という音を立てて開いた缶を黙って紫苑の前に置いた。
「これは貸しじゃない。お前がちゃんと戦えるようにするための給油代だ」
「ビールかぁ。俺さぁ、もっとこう、『ほろ酔い』のホワイトサワーとかさぁ、『ストロング』のレモンとかが良かったんだけど」
「お前の舌は、いつまでガキのままなんだ」
栄は呆れながら、自分の弁当を一口食べた。紫苑は文句を言いながらも、現実を麻痺させるために、苦いビールを何かを振り払うようにして一気に煽った。
「京都まで時間がある。お前、どうせ昨日の夜寝れてないだろ。飲んで、着くまで寝ちまえよ。米原過ぎたら起こすから」
「寝れるわけねぇだろ」
はあ、と息をついて紫苑は言った。
「山奥の寺だって言っただろ。あの閉鎖空間にいたら分かるよ。逃げられなくてさ。俺、進学するのに必死だったよ。仏教系の大学しか受けさせてもらえなかったから、俺の人生はやっぱり決められてんだ、って絶望したよ」
紫苑は食べる気のない弁当の肉をつついた。
「でも同時に逃げるなら今しかないって思った。大学の入学式の翌日に、住んでたアパート放り出して、ネットカフェに逃げたんだ。書類に名前書く手が震えたよ」
栄は黙って緑茶を一口飲んだ。口の中に残った肉の脂を洗い流してくれるようだった。
「次の日からどうしよう、って思ってさ。とりあえず日雇いのバイトに登録して、SNSで一晩凌げそうな相手探したりしてさ……色々あって、ヒモにならねぇかって誘われて、どうにか生きてた。SNSってすげぇよな。『除霊します』って言ったらすぐに仕事が来たよ。本当に憑いてる人なんていなかったけどさ」
そう言いながら紫苑は弁当を無理やり半分食べた。
「もう食えねえ。あげる」
「食いかけもらっても困るんだけどな」
栄は苦笑しながら弁当を受け取った。
「実家から連絡って来なかったのか。電話番号変えたりとかしてなかっただろ」
「母親から鬼電来てたよ。うるさかったからブロックした。着信かかってこなくなったらさ、あぁ、俺自由になれたんだって、すげぇ解放感があったな」
――それは自由なんかじゃない。栄は心の中で毒づいた。連絡が止まったその時こそ、親族が紫苑を息子として扱うのをやめ、処理すべき故人へと切り替えた瞬間だったのだ。その残酷な事実を、今の紫苑に告げる必要はないだろう。
景色は徐々に田園風景へと変わりつつある。かつて紫苑が必死に逃げ出したその場所へ、今度は時速二八五キロで引き戻されている。
栄はノートパソコンを取り出して、仕事を始めた。トンネルをいくつも抜け、列車が掛川を過ぎたあたりで紫苑はうつらうつら舟を漕ぎ始めた。
メールの返信、顧客フォロー、動画編集、役所への申請——のんびりと休暇を楽しむ旅は、大きな仕事が片付いてからでもいいかもしれない。栄はそう思いながら、キーボードを叩き続けた。




