第十六話 京都家庭裁判所
米原駅を過ぎたあたりで栄は完全に寄りかかって寝ている紫苑を叩き起こした。
静かに列車は京都駅に辿り着く。紫苑は唇を噛んだまま下を向いていた。
「家庭裁判所に行くんだよな」
「そうだな。その後、お前の実家に行く」
「はあ? なんでだよ、裁判所で全部手続きが終わるんじゃねえの」
紫苑の声が裏返った。明らかに動揺している。
「できるよ。裁判所で『失踪宣告の取り消し』の手続きをする。俺が雇用主として、お前の給与明細や源泉徴収票も用意した。お前がウチで働いて生きている証明だ。でもな、それだけじゃダメだろ」
栄は改札の方へと歩き出しながら、冷ややかな声で続けた。
「死んだことになっている戸籍を生き返らせれば、お前はまた『北条家の人間』に戻る。お前は、実家の戸籍に入ったままでいいのか」
「嫌に決まってんだろ。でも、どうしようも――」
「できる。『分籍届』を出せばいい」
栄の力強い言葉に紫苑の瞳に再び光が宿った。
「分籍届?」
「親の戸籍から抜け、お前一人の新しい戸籍を作る手続きだ。これを出せば、お前は法的に『北条家』から独立できる。奴らの干渉を受けない、真っ白な戸籍だ」
栄は、紫苑の胸倉を軽く小突いた。
「ただし、自由になりたいならケジメをつけろ。お前の口から『分籍する』と家族の前ではっきりと言うんだ。まあ、言わなくてもできないことはないんだが。お前の家族の問題だから俺が口出すことじゃないが、過去と決別しない限り、お前はいつまでたっても籠の中の鳥だぞ」
「――俺は」
「お前はどうしたいんだ。このまま裁判所だけで手続きして、一生ビクビクして暮らすのか。それとも親の目の前でちゃんと決別して、本当の自由を手に入れるか」
紫苑は拳を握りしめた。震えは止まっていない。だが、その目には確かな熱が戻りつつあった。
「もう、逃げねぇよ。俺はもう『寺の息子』の北条紫苑じゃねえ。『天国不動産』の除霊師の北条紫苑だ」
栄はふっと息をつくように笑うと、八条口のレンタカー屋へと足を運ばせた。
「車で行くのか」
「地下鉄使ってもいいんだけどさ。この方が小回り効くし、いいだろ」
「違いねえ。市内は息苦しいからな」
栄はレンタカーの手続きをした。スタッドレスタイヤになっていることを確認して、免許証を見せてから受付書にサインをした。
「スタッドレスなのか。金かからねぇ?」
「山の奥なんだろ。もしスリップして崖の下に突っ込んだらどうする。失踪宣告の取り消しをするまでもなくなると思うけど。そもそも金払うのは俺だ。さっさと乗れ」
車は静かに京都タワーを見上げながら、烏丸通を北上していく。市内はソメイヨシノが満開だった。観光客だろうか、笑いながら歩いている人々を見かける。
「『まん防』明けたからって、みんな浮かれすぎだろ。まあ、花見したい気持ちはわかるけどよ」
紫苑は固い助手席のシートに背中をつけて、息をついた。
「煙草吸っていい?」
「ダメだ。この車禁煙車」
「……裁判所って喫煙所あるのかなあ」
「まあ、着いたら五分くらいは待ってやるよ」
紫苑は文句を言いながら窓を開けた。前日に雨が降ったせいか、少し肌寒い。京都特有の重みをもった空気が、紫苑の頬を撫でた。
京都御苑を通り過ぎて賀茂川を渡ると、無機質なカーナビの音声が、目的地の到達を告げた。
「ついた。行くぞ」
「俺裁判所なんて初めてだよ。喫煙所どこ?」
「残念だったな。敷地内全面禁煙だそうだ」
「はあ!? 騙したな!」
「騙してない。知らなかったんだよ、俺もここに来たのは初めてだ」
目の前に現れた、無機質で威圧的なコンクリートの建物。『京都地方裁判所』の看板を見て、紫苑はごくりと唾を飲んだ。
「怖ぇ。俺みたいなのが入ったら、警備員に取り押さえられるんじゃ……そのまま法廷に運ばれて裁判が始まっちゃうんだ……」
「馬鹿言え。ただの役所だよ。公判にだってスケジュールがあるんだから、飛び込みで裁判はできないよ」
栄はまるで近所のコンビニにでも入るような気軽さで、正面玄関へと歩き出した。
「俺は競売の入札や、滞納者の追い出し訴訟で、東京地裁にはよく行ってる。中の空気も手続きの流れも、どこだって同じだよ」
「マジかよ。社長何者だよ」
「ただの不動産屋だよ。ほら、さっさと行くぞ。金属探知機のゲートがあるから、ポケットの小銭は出しておけよ」
さらっと言いながら栄は自動ドアをくぐり、セキュリティゲートを抜ける。
紫苑が金属探知機のゲートをくぐろうとした時、警備員がトレイの中身を見て手を挙げた。
「あ、すいません。ライターは持ち込み禁止なんですよ」
「は?」
紫苑の動きが止まった。トレイの上にあるのは、コンビニで買った百円ライターだ。
「いやいや、ただの安物のライターっすよ」
「火気厳禁ですので。あちらのコインロッカーに入れていただくか、こちらでお預かりすることになります」
警備員は事務的に告げる。喫煙者の紫苑にとって、ライターは生命線だ。
「ま、待ってくれよ。俺、これがねぇと」
「おい、ゴネるなよ。みっともない」
後ろにいた栄が、紫苑の背中を蹴飛ばすようにして前に出した。
「たかだか数十分の手続きだ。ニコチン切れで死にはしない。さっさと車に置いてこい」
「鬼! 悪魔! 非喫煙者!」
紫苑は泣きそうな顔をしながら栄から車のキーを受け取って、駐車場へと走っていく。栄は紫苑の言葉にため息をつきながら警備員から荷物を受け取った。
館内は、奇妙なほど静かだった。清潔に磨き上げられたリノリウムの床。コツコツと栄の革靴の音だけが響く。壁沿いのベンチには、数人の男女が座っていたが、誰一人として言葉を発していない。離婚調停か、遺産争いだろうか。誰もが足元を見つめ、鉛のように重い空気を纏っている。
「なんか、病院みてぇだな」
紫苑が小声で呟いた。だが、ここは病気ではなく、人間関係の『死』を処理する場所だ。治療の見込みが低い分、病院より質が悪い。
「行くぞ。『家事受付』はあっちだ」
栄が指差したのは、高いパーテーションで仕切られた窓口だった。区役所のようだが、そこにあるのは生活感ではなく、乾いた『法律』のにおいだけだった。
栄は整理券を取り、慣れた手つきで持参した書類の束——申立書、戸籍謄本、そして紫苑の給与明細などをクリアファイルから取り出した。
紫苑は落ち着かない様子で視線をあちこちに動かしていた。番号が呼ばれ、栄はパイプ椅子から立ち上がる。
「ほら、行くぞ」
「うぅ、怖い。逮捕される」
「なんで裁判所で逮捕されるんだよ」
「どのようなご用件でしょうか」
窓口に座っていたのは、眼鏡をかけた真面目そうな中年女性の書記官だった。
「『失踪宣告取消し』の申立てをお願いします。被申立人は、こちらの北条紫苑」
書記官は、手元の端末を操作し、怪訝な顔で画面と紫苑を交互に見比べた。
「北条、紫苑さん。ええと、データ上では――既に死亡扱いになっていますが」
「ええ。ですが、ご覧の通り生きています。ここに本人が出頭しています」
栄は淡々と言い放つと、次々に書類を広げた。
「これが申立書。添付書類として、戸籍謄本、住民票の除票。それから『本人であることの証明』として、健康保険証、私の会社での雇用契約書、給与明細、源泉徴収票です」
「は、はぁ」
書記官は圧倒されたように書類を受け取った。通常、失踪宣告の取消しは『実は生きていたことが判明した』という事例がほとんどだった。『死んだはずの本人が、窓口に立っている』という状況は、彼女にとっても珍しいことだったのだ。
「あ、あの。俺、本当に生きてます。足もあるし、幽霊とかじゃないです」
紫苑が恐る恐る口を開くと、書記官は少しだけ表情を緩めた。
「そうですね。お話しできるようですし、幽霊ではなさそうです。では、ご本人確認のために、奥の調査室で少しお話を伺ってもよろしいですか。調査官が参りますので」
「えっ、面接あんの」
「当たり前だ。お前が『よく似た偽物』じゃないことを証明しなきゃならん」
栄は紫苑の背中を押し、窓口の奥にある無機質なドアへと向かわせた。通されたのは、『調停室』と書かれた小部屋だった。よくニュースやドラマで見るような裁判長がいるような法廷ではなく、長机とパイプ椅子だけが置かれた、殺風景な部屋だ。
向かいに座ったのは、地味なスーツを着た初老の男性調査官だ。彼は手元の資料と、紫苑の顔を何度も見比べた。
「身分証明書は、この健康保険証だけですか」
調査官の静かな声が響く。
「あ、はい。免許は、持ってないです」
「なるほど。顔写真がないとなると、慎重にならざるを得ませんね。では、いくつか質問をさせていただきます」
調査官はペンを走らせながら、矢継ぎ早に質問を投げかけ始めた。
「まず、ご自身の生年月日は」
「平成八年、十月十六日です」
「本籍地は」
「京都府京都市左京区鞍馬――」
紫苑はスラスラと答えた。自分の誕生日と、忌々しい実家の住所を忘れるはずがない。 だが、調査官の目はまだ疑っている。
「では、お父上のフルネームと生年月日は」
「北条慧真。生まれ年は知らないですけど、十一月十五日です」
「お兄様の名前は」
「……北条、翠蓮」
「ふむ」
調査官の手が止まった。ここまでは住民票を見れば誰でも答えられる情報だ。調査官は眼鏡の奥の目を細め、少し声のトーンを変えた。
「では、少しプライベートなことをお聞きしましょうか。ご実家は古くから続くお寺だそうですが――あなたの部屋は、家のどのあたりにありましたか」
「は?」
「間取りの質問です。あなたが本当に北条家の次男なら、即答できるはずですよ」
紫苑は息を呑んだ。思い出したくもない記憶の蓋を、無理やりこじ開けられる感覚。 だが、隣に座る栄が、机の下で紫苑の足をトン、と軽く蹴って横目で睨んだ。答えろ、という合図だ。
「実家は……本堂の裏にある、離れです。兄貴の部屋が一番日当たりのいい南側で。俺の部屋は、その隣の北向きの四畳半。窓から墓地が見える、一番寒い部屋でした」
紫苑の口をついたのは、思い出したくもない自宅の風景だった。檻のようなあの家の中で、紫苑は絶望的な日々を過ごしていたのだ。
「なるほど」
調査官は初めて小さく頷いた。彼は紫苑が答えた内容ではなく、それを語る時の表情の曇りを見て、本人だと確信したようだった。
「結構です。間違いなく、ご本人ですね。では、これで調査を終了します」
紫苑と栄は顔を見合わせて、安堵のため息をついた。
***
「あー終わったぁ。早く煙草吸いてぇ」
調査室を出た紫苑は、壁に背中を預けてズルズルと崩れ落ちそうになった。魂を削られるような三十分だった。
「調査官の人、『あとはこちらで審判を進めて、ご実家にも通知を送ります』って言ってたな。これで晴れてお前は『生存者』だ。申立書の送達場所に事務所の住所を書いたから、文句も言えねぇよ」
安心したように栄は言った。
「自分自身を証明するのって、難しいことなんだな」
「そうだな。自分が誰かなんて自分自身が一番よく知っているはずだったのに、意外とわからなかったりするもんなんだよな」
「なぁ社長。行くんだろ、俺の実家」
紫苑の言葉には意志が宿っていた。栄はそれを聞いてニッと笑った。
「俺、怖いけどさ。戦うよ。怖いけど、そうも言ってられないよ。俺はここにいる。これ以上俺の人生めちゃくちゃにされてたまるかって」
紫苑は刺すような視線で前を睨みながら、シートベルトを締めた。




