第十七話 鞍馬山の神童
その子供は確かに優秀だった。
まだ5つになる前から勧請句を諳んずることができた。父親はこの子は神童だと讃えた。子供はただ、褒められることがたまらなく嬉しかった。難しい漢字を書き、意味も分からないままお経を覚え——それは、ただ親から愛されたいと願った、小さな子供の必死な祈りだった。
だが、父親はそのサインを見逃した。『出来ることがあたりまえ』。そう思うようになり、子供は絶望の淵に立たされた。期待という名の氷壁に囲まれ、奈落に落ちた子供は——やがて、心を殺して逃げ出した。
***
氷のように冷たいメンソールの煙が、山の空気の中に溶けていく。細いロングの煙草はじりじりと短くなっていく。紫苑は大きく息をついて、吸い殻を携帯灰皿のなかにしまった。
参道には朱く塗られた灯篭が並んでいた。溶けかけた雪塊が石階段の上に長い冬の名残のように居直っていた。周囲には誰もいない。新緑や紅葉のシーズンになれば、観光客も多いだろう。まだ寒さが居座りもの寂しい空気を醸し出している光景は、侘び寂びで片付けられるようなものではなかった。
「マジでなんもないとこだろ」
紫苑の吐き出される息が、澄んだ山の空気に消えていく。階段を見上げて、ダウンジャケットのポケットに両手を突っ込むと、紫苑は遠い目をした。
「学校行くのめっちゃ大変だったんだ。遠いから友達となんか遊べないし、そもそも毎日修行だなんだってやることが多くて、遊ぶ時間なんかなかった。羨ましかったよ、友達が。みんなが見てるテレビ番組なんて見れなかったし、ゲームやマンガなんかも全部禁止だった。兄貴は許されてたのに、俺は全部ダメだった。こっそり兄貴の部屋に忍び込んで、読み終えて捨てようとしてた漫画雑誌を一冊だけ盗んで、それをボロボロになるまで布団の中で隠れて読んでた」
栄は紫苑の後に続く。一段、また一段と登る度に紫苑の足取りは錘がついているかのように重くなっていく。
何年も往復した知っている道だ。もう登ることはないと思っていた。
「ある日それが親父にばれてさ。本堂の奥にある、あそこ、あの蔵の中に一晩閉じ込められた。真冬にだぜ。マジであの時俺死ぬのかなって思ったよ。真っ暗な中、寒くてさ。母さんがこっそりと小さいカイロひとつだけくれたんだけど、それだけが頼りだったな」
紫苑が指差した先には、黒漆喰の重厚な蔵があった。
「出してくれなかったのか」
「親父には逆らえないんだよ。母さんも……俺が小さい頃は可愛い可愛いって言ってくれたけど、その意味は違ったんだ」
参道を抜けて、本堂の屋根が見えてくる。紫苑は立ち止まり、肺の底に溜まった澱を吐き出すように、深く息を吐いた。
「母さんが欲しかったのは俺じゃない。『可愛い顔をしたお人形さん』――母さんは俺を娘として扱っていたんだ」
いまだに覚えている。男の子が着るような服を紫苑が着ることは許されなかった。長く伸びた髪にリボンを結ばれ、奇妙な美貌を持った小学生の紫苑は同級生から気味悪がられていた。
北条家の名前を背負ってしまったばかりに、誰も紫苑を表立って笑ったりできなかったのだ。
荘厳な山寺の中という檻に住んでいた北条紫苑は、逃げる場所もなく、心を真冬の山の中に閉ざしていったのだ。少しずつ体温を奪われ、やがて凍り付いていく。
紫苑が大学へ進学するために必死に勉強したのは、檻から逃げるためだった。
北条紫苑ではない、別の人間になろうとして——必死でもがいていたのだ。
「行ってこい。それから、お前に知恵を貸してやる。覚えておけ。これは法律で決められたことだが――」
栄は努めて冷静な声を出した。
法律は、己を守るための盾だ。だが、知っていれば同時に攻撃できる武器でもある。
天國栄はそうやって生きてきたのだろう。
紫苑は大きく頷いて、一段ずつ階段を上った。息が切れる。荒い息が冷え切った空気の中に溶ける。
ようやく上り終えると、そこにはかつて紫苑を拒絶し、そして殺した家が、巨大な口を開けて待っていた。
「……あ」
作務衣の上に半纏を羽織った若い男が箒を持ってちょうど出てきたところだった。その目つきは神経質そうで、愛嬌は欠片もない。どこか人を見下したような表情は、昔と変わらない。
「お前――まさか紫苑か」
その声は紫苑のものによく似ていた。
「親父、おる?」
紫苑は答えずに問う。彼は侮蔑のこもった冷たい視線を投げかけた。
「今更どのツラ下げて戻ってきた。お前はもう死んでるんや。戸籍上も、俺たちの記憶の中でもな。ここは寺で、神聖な家だ。お前はもう忘れられてんねん。この家に居場所なんかあらへん。去ね」
「へぇ。兄貴は、俺のことを『忘れた』んやなぁ、可愛い可愛い紫苑ちゃん、この家におったはずやのになあ」
紫苑は不敵に笑った。お前なんか怖くない、とでも言いたげに。
「ある兄弟の話をしよか。親の死を悲しんで、忘れるためにワスレグサを植えた兄と、忘れないためにシオンを植えた弟の話」
「だから、なんや」
「鬼はなぁ、弟の方を守ったんやで。『人の痛みや過去を忘れへんこと』こそが、人の道やってな」
今昔物語の一節だ。
「そして鬼は弟に力を授けてん。俺の方が優秀やったもんなあ。霊力も、学力も」
「き、貴様。言っていいことと悪いことが」
「——ようさん勉強しはりましたもんなぁ、あにさま」
にやりと笑う紫苑を、兄の翠蓮は忌々しげに睨みつけた。
「道を開けろよ。お前なんかお呼びじゃねえっつってんだ」
紫苑はずかずかと歩みを進めていった。
立派な瓦屋根を持つ旧家の引き戸を開ける。廊下の先が座敷になっていた。そこに待ち構えるようにして、北条慧真——この寺の住職が待っていた。
座敷は線香のにおいが立ち込めていた。嫌というほど嗅いだ実家の匂いだった。
「紫苑。まさか、生きていたか」
「親父……」
慧真は驚愕とも憤怒とも言えない形相で、紫苑を睨みつけた。
「今更何しに来たんや。お前は既に死んでいる。仏門に入り損ね、家を捨てた時点で」
そうだ。淡々と、慧真は紫苑を嬲るように追い詰める。七年前と変わらない。
「殺生はあきまへん。生きてる人間を勝手に殺してええ権利は誰にもおへんのですわ」
紫苑は分厚いクリアファイルを机に叩きつけた。
『株式会社天国不動産 事故物件のご相談なら当店へ!』の箔押しがされている。この中に、紫苑の生きている全てが収められている。給与明細も、雇用契約書も。
「余計なことしてんじゃねえよ。真っ当に働いて、真っ当に生きてる人間を消すな。俺は、お前らの人形じゃない」
慧真は冷酷に笑いながら、クリアファイルを一瞥した。
「事故物件のお祓いやて? 落ちるところまで落ちたもんやなあ、紫苑。人の不幸や死に群がり、金銭を貪るハイエナのような商売。恥を知れ。北条家の面汚しが」
「――訂正しろ」
「なに?」
「俺のことはクズでも出来損ないでも、好きに呼べばいい。あぁ、そうだよ。親父の言う通り俺は親不孝なゴミだよ。逃げた俺に否定なんかできねぇよ」
紫苑は真っ直ぐに父親を睨みつけた。今まで一度も逆らえなかった絶対的な支配者を、食い殺さんとばかりに。
「何がハイエナだよ。俺の霊力を利用しようとしたのか何なのか知らねえが、そっちの方がよっぽどハイエナだよ」
「お前、親に向かってその口の利き方はなんや!」
逆上した慧真は手を振り上げた。何度も見た。そして、避けることをしなかった。
だが、紫苑は慧真の手首を掴んでいた。
「民法第八百二十条――親権は『子の利益のため』に使わな、あきまへん。あんたが俺の利益を考えたことが一度でもあったのか」
紫苑の瞳が揺れた。足がすくむ。怖いことに変わりはない。だが、戦わなければ勝てない。
今決別しなければ、ずっと逃げ続けなければならないのだ。
脳裏に浮かんだのは、新幹線の始発のチケットを取った社長だった。年度始めの日に、わざわざ京都まで来て、階段の下で待っている。
「なあ、親父にとっての『北条紫苑の価値』ってなんや」
紫苑の問いに、慧真は言葉に詰まった。この寺を継がせるためだけの道具。そのために施した厳格な教育という名の虐待。小さな子供の夢を砕き、希望を奪い、ただ経を読むだけの人形を作り上げようとした過去。
「俺が本家の養子になるって話、あったんだろ。でもあんたは拒んだ。俺の霊力が惜しかったからだ。北条の方が本家より上だって証明したくて、欲をかいたんだろ。ただ己の名声が欲しかっただけだ」
慧真は青い顔をしている。
「寺を継がせるだけだったら兄貴でもよかったんだよ。本家へのメンツも潰れた。だから、七年前に逃げ出した北条紫苑の失踪宣告を申し立てて、法律の上で俺を殺した――違うかよ」
「もうええ。勝手に出ていくなりなんなりせえ。二度とこの寺の敷居を跨ぐな。本日付で、貴様を北条家から絶縁する」
「……それでええ。北条紫苑は、もうこの寺には存在せえへん」
慧真は紫苑の腕を振り払って背を向けた。紫苑は、少しだけ寂しそうな顔をして、小さくなった父親の背中を見た。七年前に家を出た時よりも深く刻まれた皺。歪んだ愛情の果てにある孤独。だが、同情はしない。
罪は、罪だ。
七年という決して短くはない時間、彼は何を思って生きていたのだろう。行方不明の息子を案じた日はあったのだろうか。だが、それは本人にしか分からないことだ。
紫苑は振り返ることなく玄関へ進む。それは閉ざされた鳥籠の中から踏み出すための力強い一歩だった。
「紫苑ちゃん。待って、紫苑ちゃん!」
廊下の角から、なりふり構わず走り寄ってくる影があった。母親だ。
「紫苑ちゃん、今からでも遅くないわ。かあさまと一緒に、お父様に謝りましょう。絶縁なんてあきません。あなたは私の大事な大事な家族なんやから」
縋り付く母親のその手の湿った感触に、鼻をつく香水の香りに、紫苑の背筋に悪寒が走り、吐き気がした。かつて愛だと信じようとしたそれは、ただの執着と欲望の塊だった。
紫苑は、氷のような冷徹な視線を向けた。
「『かあさま』が欲しかったのって、本当に『俺』か?」
「紫苑ちゃん、なんて言葉――」
「あんたは俺に何をしてきた? 嫌がってんのに女の格好させて、成長したら気色悪い言うたんは誰や。吐き気がする。触んな」
紫苑は母親の顔を見ることなく、腕を振り払った。
「児童虐待防止法二条四号。あんたのしてきたことは、虐待だ」
「待って、待って紫苑ちゃん!」
泣き叫ぶ声を背に、紫苑は玄関の引き戸に手をかけた。最後に一度だけ、足を止める。振り返りもしないまま、独り言のように呟いた。
「ただ、俺は普通に、子供として愛されたかっただけなんだよ。普通に過ごして、温かいメシ食って、ただ笑っていたかった。それだけだったんだよ」
その願いは、もうこの家では永遠に叶わない。だから、今捨てるのだ。
「——地獄に落ちろ」
そう言って、引き戸を強く閉めた。
外に出ると、日が落ちようとしていた。西の空が毒々しいほどのオレンジ色に染まり、夜の闇がその光を飲み込もうとしている。道端に残された雪は、春の泥と混ざり合い、黒く汚れていた。それはまるで、今まで紫苑が背負わされていた業そのもののようだった。
紫苑は黙って車の助手席に乗り込む。栄もまた何も言わずにエンジンをかけ、車を発進させた。黒く汚れた雪を踏みしめ、車は山道を下りていく。
「待たせて悪かったな」
「そうだな、顧客とのメールもアポ取りも全部終わったよ」
「あのさ。社長は、俺でよかったのか」
「なにが」
栄はハンドルを握りながら尋ねた。
「証明書書くだけなら、俺じゃなくてもいいだろ。ネットで探せば坊主の出張サービスなんていくらでも出てくる。それに俺は、掃除もリフォームもできねぇし、事務のスキルもねぇ。絆建設の剛田みたいに、真面目に働く根性もねぇ」
紫苑は自嘲気味に笑い、窓の外へ視線を逃がした。
「法改正でロンダリングもできなくなった今、俺なんてただのコストだろ。専属除霊師なんて言ってさ、本当は、俺なんかいらねぇんじゃねぇの」
「お前バカなのか」
栄は呆れたように息を吐き、紫苑の方を見ずに言った。
「剛田さんは確かに優秀だよ。でもな、あの人には守るべき家族があり、真っ当な幸せがある。俺たちが扱うような、人の業が煮詰まった『闇』の底まで付き合わせるわけにはいかないだろ」
紫苑は解せない、といった表情で運転する栄の方に顔を向ける。
「どういうことだよ」
「お前は地獄を知っている。親に否定され、社会からはじき出され、それでも泥水を啜って生きてきた。だからこそ、死者の絶望や怨念に立ち向かえる」
車はやがて、市内に入っていった。夕方、家路を急ぐ車やタクシーで道は混雑している。
「俺が必要としているのは、機能としての除霊師じゃない。『北条紫苑』という人間だ。それ以外の代用品で、俺が納得するとでも思ったかよ」
「……ズルいよ、栄は」
紫苑は目元を腕で隠し、声を震わせた。
「そんなこと言われたら、俺もう、どこにも行けねぇじゃんかよ」
「行かなくていいよ。そのための手続きを今やってんだろ」
信号待ちで車が止まる。
栄は紫苑の頭をぽんと撫でた。
「今まで頑張ったよ、お前は。いいんだ、もう」
「う、ぅ……あぁぁ……ッ!」
紫苑は車の中で声を上げて、子供のように泣いた。七年前、あの家を出た時に泣けなかった分まで、全てを吐き出すように。栄は何も言わず、ただ黙って箱ティッシュを紫苑の膝の上に置いた。
レンタカーを選んだのは、恐らくこの瞬間のためだったのだろう。
信号が変わり、車が動き出す。窓の外には、京都御所の長い塀が続いていた。その向こうから、満開のソメイヨシノが溢れ出し、風に吹かれて花びらを散らしている。
薄紅色の花吹雪が、フロントガラスを流れていく。それは、泥と雪に塗れた過去を洗い流し、二人の新たな門出を祝福するようだった。




