第八話 理趣経
紫苑は喉を押さえながら、ふらふらと立ち上がった。
「くそ……やっと終わった。本当に胸糞悪い」
「気持ちは分かるよ」
栄は珍しく沈んでいた。紫苑はそれを横目で見ると、ひとつ大きなため息をこぼした。
「しょうがねえな、サービスしてやるよ。普通の念仏じゃねぇぞ。真言宗の中でも特別な代物だ。シロウトさんには扱えないものだぜ。その中でも極上のやつをくれてやる」
紫苑は読経を始めた。それは普通に法事で聞くものとは違う、不思議な響きを持っていた。荒々しくもどこか美しい。重厚で、複雑で、高尚な響き。紫苑の細い指が、目にも止まらぬ速さで複雑な形を結んでいく。
栄は黙ってそれをじっと見ていた。
その姿は神々しくもあり、服装のせいか俗っぽくも見えた。
「なんか、すげぇお経だな」
「そりゃそうだろ」
紫苑は印を解きながら言った。
「こいつはシロウトさんが唱えたらいけねぇことになってる高級ブランド品だからな。『理趣経』《りしゅきょう》っていうんだが、たとえばセックスして気持ちイイってなるのも、実は清らかな仏の境地だぜ——そう説くんだ」
「げぇ、なんだよそれ。本当に仏教かよ……俗っぽいな」
「だろ。俺も最初は耳を疑った。人間の営み自体は悪いもんじゃないんだ。女抱くのも、金稼ぐのも、美味いもん食って自分の欲を満たすのもオッケー。でもその欲望を間違った方向に向けたりすんのが悪い、って話なんだ。最高にロックで、欲望にまみれたおっさんにぴったりだろ」
そう言って紫苑は笑った。
「でもな、これは普段から真言宗で日常的に読誦されるもんだし、葬式でも読まれるもんなんだよ。密教の極意、なーんて言われたりもする。要はさ、『お前はそのままでいいんだよ、受け入れな』って教えなんだよ」
「受け入れる」
栄はその言葉に救われた気がした。自分が金に汚いのも、見栄を張って着飾ったりすることも、肯定してくれる。それが『お経』という教えを説くものであれば、尚更のことだった。
「誰だって金が欲しいし、いい女がいれば付き合いたいなとか、そもそものところ誰かに認められたいもんだよ。自己顕示欲ってやつ? 生きてりゃ当たり前のことだ。それを『汚い』とか『恥ずかしい』って隠すから歪むんだよ。『俺は欲深い人間です』って認めちまえば、それはもう清らかな『仏の境地』なんだとさ。俺実家は嫌いだけどこの教えは好きなんだ。俺はこのままでいいんだ、欲望にまみれたクズでも生きてていいんだ――そう思えるんだ」
紫苑は栄の方を向き、悪戯っ子のように笑った。
「社長だってそうだろ。お前も、その金に汚い性格のままでいいんじゃねぇの」
その言葉は、栄の胸にストンと落ちた。
そのままでいい。自分のあるがままを受け入れる。それはとても単純なことだが、最も難しいことだ。誰もがそれに気付いてはいても、心の底から自分の弱さや醜さを許容することはできていない。だからこそ、この投資家のように虚飾という鎧を着込み、窒息してしまうのだ。
ありのままを認めること——それが、古来より伝わる密教の『極意』とされる理由が、今なら少しだけ分かる気がした。
「行くか、北条」
「おう。腹減ったな」
栄は背を向け、虚飾の部屋を後にした。背中には、少しだけ軽くなった、ありのままの自分を感じながら。
***
「オリンピックにぎりぎり間に合ってよかったよ。すぐにでも引っ越してきたいくらいだ」
四十代の後半くらいだろうか、男性は笑いながら言った。
「コンロ三口、食洗器付き。ディスポーザーもついてる。ペットもOKなんでしょう。前から犬ほしいって言ってたじゃない。部屋も明るいし。決めちゃおうよ、ここ」
「そうだよな、もうすぐ開会式だし。まあ、見えなくてもなんとなく熱気が伝わってくるからどっちでもいいけどさ。いいですか、契約」
「え、ああ――勿論です。安い買い物じゃないですから、もう少しゆっくり考えていただいても大丈夫ですよ。ローンはどうされますか」
思った以上にあっさりと決まって、栄は拍子抜けした。
投資用と銘打っているが、建っているのはただの箱だ。箱の仕切りに栄は興味がない。だったら、早く手放してしまおうと分譲として相場よりも少し安く売りだしたのだ。事故物件だという履歴は消えているから、人によってはお買い得なのだ。
「住み替えローンで検討してます。二人合わせて年収は三千万ほどあるので、審査は問題ないかと。ぜひお願いします」
男性は強い調子で言い、にっこりと笑った。悲劇も、怨念も、強力な資本と生活のエネルギーがこの箱を上書きしていく。小型犬が走り回り、この夫婦が笑い合う未来が、死の記憶を塗りつぶしていくことだろう。
「ありがとうございます。良い物件ですよ。貴方たちのような、『生きる力のある方』に住んでいただけて、この部屋も喜んでいるでしょうね」
栄は、プロの営業スマイルで頭を下げた。それが、亡き家主への最後の手向けだった。
無事にパワーカップルとの契約が決まった日の夜、栄と紫苑は、特盛の牛丼を食べながらぼんやりとニュース番組を見ていた。続々と選手団が日本にやってきて熱気にあふれています、とレポーターは笑顔で伝えていた。
「あの部屋見えるのかな。開会式」
「さあな。でも見えても見えなくてもどっちでもいいんだと。なんとなくその空気を感じて、なんとなく盛り上がる。交通の便がいい場所だから職場だって近いだろうよ。歩道が広いから犬の散歩コースにも困らない」
栄は紅しょうがを食べながら言った。
「稼ぐやつは稼ぐんだよ。あの夫婦、二人合わせて年収三千万オーバーだってよ。あの物件を買っても痛くも痒くもない。住み替えだって言ってたけど、ローンだってすぐ返せるだろうな。職場からも近くて、きれいないい箱を安く買えた。あの人らにはそのくらいの感覚だろ」
「ふーん。ま、俺には関係ないけど」
紫苑は興味なさそうに箸を置いた。
「いいなー。俺もまた金持ってる女のヒモになろうかな。タワマンの最上階、眺めはいいけどさ。飽きて逃げ出したんだよな」
「は? お前、ヒモだったのか?」
「だから、そう言ったろ。色んな女のところにいたよ。バリキャリ社長、風俗嬢、それからメンヘラ地下アイドルちゃん」
何人いるんだ。栄は絶句した。
「飯も風呂もタダ。小遣いつき。でもタワマンだとパチ屋行くのにエレベーターで下りないといけないのが怠くてさ。一週間で逃げた」
「最悪だ。クズすぎる」
栄はふと恐怖を感じた。今回はたまたま運がよかったが、前の持ち主のように、自分もいつか読み間違えて転落するかもしれない。金がなくなれば、人は離れていく。かつての恋人のように。
「なぁ、北条」
「ん?」
「もし今回失敗して、俺が破産してたら。お前、やっぱり別のところに行くのか」
声が少し震えた気がした。金づるがなくなれば俺なんて用済みだ、そんな卑屈な響きが含まれていることに、栄自身も気づいていた。
紫苑はきょとんとして、それから意地悪くニヤリと笑った。
「じゃあ、また公園生活するかな」
「は?」
「この高級スーツ着てる男が、俺の隣で、公園の新聞紙の上で寝泊まりしてんの、すっげぇウケるよな」
紫苑は栄の着ている高級スーツの襟を、指先でつまんだ。
「想像してみろよ。高級イタリアブランドのスーツ着て炊き出しの弁当の列に並ぶ天國社長。最高じゃん。写真撮ったらバズるぜ」
紫苑は楽しそうにケラケラと笑った。それは『助けてやる』だとか『見捨てない』という言葉よりも、遥かにタチが悪く、そして確かな『約束』だった。
「性格悪いな、お前」
「俺はあるがままを受け入れてるだけだ」
栄はため息をつきながらも、肩の力が抜けるのを感じた。地獄に落ちても、こいつだけは隣で笑っていてくれる。それは今の栄にとって、どんな保険よりも確かな安心材料なのだった。




