第七話 高層階で嗤う影
『静謐な光が差し込み、天空の風がそよぐ。誰もが羨む眺望を独り占めし、穏やかな気持ちで日々を紡ぐ――』
闇を食い尽くしていくようにじわじわと赤く広がっていく朝焼けが、湾岸エリアのマンション群を白々しく照らしている。眼下にレインボーブリッジを見下ろす静かなその部屋で、ひとつの明かりが、消えた。
***
二〇二一年六月。空梅雨のような日照りが続いていた。刺すような日差しは暑いを通り越して、痛い。
だが窓の外では、バケツをひっくり返したような勢いの雨が降っていた。梅雨の長雨ではない。アスファルトを叩きつけるような、暴力的なゲリラ豪雨だった。まるで夜のように空は暗く、重たく黒い雲が世界を覆うように広がっている。
「うわぁ、すげえな。これじゃ外出できねえ」
栄が窓から外を見下ろして呟く。窓ガラスにぶつかる雨音が静かな事務所の中に響いていた。
「もう少し待ちなよ。あと五分くらいで雨上がるってさ」
ソファでスマホをいじっていた紫苑が、画面から目を離さずに言った。
「え? お前、天気まで分かるようになったのか」
「いや、『雨雲レーダー』がそう言ってる。最近のは高性能なんだ」
「予言でもできんのかと思った」
栄はため息をついた。紫苑はスマホをポケットにしまうと、立ち上がって伸びをした。
「雨上がりは涼しいから、コンビニ行ってくるわ」
「ああ、ならついでにゴミ処理券買ってきてくれ。45リットルのやつな。領収書必ずもらえよ」
「お小遣いくれるならいいよ」
紫苑が当然のように手を出す。栄は舌打ちしながらも、財布から一万円札を抜き取って渡した。本当は五千円札を渡したかったが、手持ちがなかったのだ。
「釣りは手数料として貰っとくからな」
「はあ。好きにしろ」
「やった。じゃあ行ってくる。後なんかいるものある?」
紫苑は子供のように笑って紙幣を受け取った。
「……特にないけど」
強いて言うなら人手が欲しい。言いかけたところでどうにもならないのだが。確定申告は税理士に投げているが、日々の雑務や物件管理は栄のワンオペだ。最近は管理する物件の数も増えてきた。そろそろ事務員でも雇うか――栄は考えるのをやめた。紫苑の世話だけで手一杯なのだ。
ちょうど五分後。紫苑の予言通り、雨音はピタリと止んだ。
「最近のアプリは優秀だな」
栄は空を見上げた。先ほどの豪雨が嘘だったかのように晴れ上がった青空は、夏の力強い青色をしていた。どうせ買ってくるのは、頼んでない酒とツマミだろう。ゴミ処理券を忘れてこなければいいのだが。
その時、デスクの固定電話が鳴った。
「お電話ありがとうございます。天国不動産です。ああ、どうも。ご無沙汰しています。どうですか、最近」
相手は、知人の同じ港区に拠点を構えるギラギラした不動産屋社長だった。
栄は趣味のフットサルで、不動産業界のチームに所属していた。同じチーム所属で、何度か飲みに行ったことがある。
「天國くん、タワマン興味ない?」
「え、タワマンですか」
「そうそう。君が住むんじゃなくて。ちょっと訳アリの物件があるんだよ」
栄は眉をひそめた。『事故物件専門』を掲げる天国不動産には、日々様々な物件の相談が来るが、タワーマンションは扱ったことがない。オートロック、二十四時間有人管理、コンシェルジュ付き。そんな厳重なセキュリティと、金持ちたちのコミュニティの中で、孤独死など起こりうるものなのだろうか。
「タワマンで事故物件、ですか。めずらしいですね」
「そうなんだよ。いわゆる『投資用』の部屋でさ。ちょっと厄介な死に方をしてるんだ」
「まさか殺人、じゃないですよね」
「そこまで物騒ではないかなあ」
不動産屋の社長は豪快に笑った。
「湾岸エリアのタワーマンション。窓から東京湾が一望できる。レインボーブリッジが目の前だ。それにもうすぐオリンピックが始まるだろう。あれが部屋から見えるとか、見えないとか」
「高層階ですか」
ますます不思議だ。何故それほどの優良物件が、天国不動産に回ってくるのか。高層階の住人は富裕層が多い。孤独死や自然死なら、身内がひっそりと片付けるはずだ。
わざわざ『事故物件専門』を頼るということは――。
「――自殺ですか」
「ご明察。どうもね、『オリンピックで物件価格が高騰する』と唆されて買っちゃったらしい。無理なローン組まされてね。だが、このコロナ騒ぎで大会は延期。インバウンドは消滅。家賃相場も崩れて、ローンの支払いだけが残った」
流石の栄も言葉を失った。典型的な投資失敗の末路だ。
物件の価格が順調に上がっている中でのコロナ禍は誰にも想像ができなかった。不動産投資は他の投資に比べてリスクが大きい。素人が下手に手を出すようなものではない。この投資家は『憧れのタワマン』でキラキラしたSNS投資家を演出したかったのかもしれないが、その演出のライトはひっそりと消えてしまったのだ。
「わかりました。お引き受けしましょう。ただし、相場の半額で。契約書はそちらで作成してください、確認しますので」
栄は静かに受話器を置いた。
ちょうどコンビニ袋に酒とツマミを詰め込んだ紫苑が戻ってきた。
「ただいまー。なあ、今お茶買うとさあ、一本買って一本タダになるんだってさ。このクーポン百円で売ってやるよ。俺商売上手すぎてヤバいね。勿論買うよな?」
一億の話しで絶望した人間がいる一方で、タダ券のクーポンで喜んでいる人間もいる。
「お前は無邪気でいいよな」
栄は紫苑の顔を見るなりため息をついた。
「なんだよ、お前の分のアイスも買ってきてやったのに」
そう言って紫苑は安いソーダ味のアイスキャンディを栄に手渡した。
「事業用ごみ処理券は」
忘れた、と紫苑は悪びれもせず、自分の分のアイスをかじりながらけらけら笑っている。
「まあ、ええやんか。雨も止んだし、アイス食ったら行こうぜ。仕事なんだろ」
栄は、ガリっとアイスを噛み砕いた。安っぽいソーダの味が、先ほどまでの重たい電話を軽くしてくれるようで、少しだけ気が楽になったような気がした。
***
高級ホテルのような吹き抜けのエントランスには革張りのソファが置いてあり、重厚感を醸し出していた。天井に抽象的なオブジェが設置されていて、細かい装飾が空調に揺れている。
「すげぇ、ジムとかついてるんだ。栄、ここ住んだら。暑い中霊園の周り走らなくて済むんじゃね。筋トレとかできるからマッチョになれるぜ」
「別に俺はマッチョを目指してるわけじゃないんだが。ラウンジとかコワーキングスペースもあるんだな。目の前に高級スーパーがあるし、保育所も併設されてる。全部ここで完結する、まるでひとつの『街』だな」
エレベーターホールはオフィスのように静かだった。真っ白なエレベーターに二人は乗り込み、五十一階のボタンを押す。
そこは確かに高級タワーマンションの一室だった。間取りは2LDKで、リビングダイニングの三枚建の大きな引違い窓の先にレインボーブリッジがよく見える。
「うわーすげぇ。勝ち組って感じ」
そこは奇妙な空間だった。リビングの一角だけ、高級なパーソナルチェアと観葉植物、そして高級ブランドのワイングラスがぽつんと置かれている。だが、部屋の隅には安物のカップ麺のゴミと督促状の山が散乱していた。
「金持ちもカップ麺食うんだね。ていうか、なんだこのワイングラス」
「『SNS用』のセットだろ。この角度から写真を撮れば、レインボーブリッジとワイングラスが綺麗に収まる。画面の向こうの信者たちに、『タワマンで成功した俺』を見せるための舞台装置だ」
「『映え』ってやつ?」
「カメラって収まる範囲が決まってるだろ。切り抜かれた場所しか見えないんだよ。画角の外に督促状が落ちてようが、安いカップ麺をすすってようが、見えなければ『ない』のと同じだ。お前だってちゃんとした服着て写真撮ったらそれなりになんかモデルっぽく見えるだろ。でも中身はギャンブル狂いのクズ。一緒だな」
「一緒にすんなよ」
紫苑は心外だとばかりに言った。
「幸いすぐに発見されたから清掃も軽く済んだんだと。ちょっと部屋のクリーニング入れたらすぐ住めるな。これだけの設備があるならリノベもいらないし」
「でもさぁ、タワマンだろ。高層階だぞ。俺不動産わかんないけどさあ、事故物件だからって――お高いんでしょ」
「そりゃそうだ。ハイブランドがなんで高いかって、いい素材使ってるのもあるけど、ほとんど人件費とブランド料なんだよ。タワマンも一緒だな」
「平和島のおっちゃんのアパートとは屋根があるのだけ同じ、ってことか」
「あそこは人件費もブランド代もないしな。まあ、こっちの方がいい建材は使ってるけど」
栄は色とりどりの封筒をした督促状を拾い上げた。
「不動産投資ってさ、地味で、面倒で、泥臭い管理が必要な『事業』なんだよ。それを、映えだのステータスだの、ファッション感覚で手を出せば――そりゃ火傷じゃ済まないだろ」
「重傷どころじゃなかったな」
「それに投資ってのはな、余剰資金でやるもんなんだよ。明日のメシ代まで突っ込むような奴が投資で勝てるとは俺は思えないけどな」
「キッツいこと言うよな、お前」
「俺も一応『不動産屋』だからな。素人にはタワマン投資なんか勧めねえよ。投資初心者は国債でもお求めください、って追い返すさ。債務不履行になったら困るだろ」
元家主は五十代男性、会社員の兼業投資家だった。SNSでキラキラした成功者の日常をつづりながら、昼は会社で、夜は副業のアルバイトをしながらすきま時間にSNSを更新し、チャートを眺め、相場が上がることを祈りながら安いカップ麺をすすっていた。
栄は目の前のオリンピック選手村を眺めた。急に窓の外に映る光景が張りぼてのように見えてきたのだ。
「意外と優しいんだな、社長って。カモがネギ背負ってきたら、お前なら鍋にして食っちまうのかなと思ったけど」
「勘違いするなよ」
栄は冷たく言い放った。
「死人は家賃を払わねぇ。客を破産させて自殺されたら、そこでお金の流れは止まる。それに、こんな『事故物件』を生み出したら、その後の処理コストも馬鹿にならないだろ。特殊清掃だって大変なんだ。『客を生かさず殺さず、長く搾り取る』——それが俺の経営哲学だ」
「うわぁ、最悪」
紫苑は呆れたように苦笑した。
「それでも結果的に人助けになってるのが腹立つな」
「結果は結果だ。その間の過程を見せなきゃ誰にもわかんねえよ。事故物件と一緒でな。それで、北条。この部屋何か感じるか?」
「何も感じねえのか。マジ? 霊感ゼロにもほどがあるだろ」
紫苑が目を丸くする。
「入った時からすっげぇよ、ここ。おっさんの怨念で俺吐きそうだもん」
「それは二日酔いじゃないのか」
「そんなわけあるかよ。もう夕方だぞ」
「そりゃあ、呪うだろうよ。自分をこんなふうにしたこの世のすべてが憎かっただろうな」
ここの家主がどんな投資をしていたのかは知らない。だが、川の水が絶えず流れていくように、SNSのキラキラとしたタイムラインもまた、一瞬で過去へと押し流されていく。
彼はその濁流の中で、必死に『成功者という虚飾』を見せ続けたかったのだろう。一瞬しか輝けなかったとしても。
例え相場が暴落してもなお、ポジティブな言葉を並べる。裏では顔面蒼白になり震えながら、スマホの中の彼は笑顔でこう叫んでいたのだ。
『今日はプラ転! 明日も積み上げよう!』
レインボーブリッジの夜景写真と共に、そんな文字を乗せる。水が流れ着いた先の海が、まるで血の海のような大赤字だったとしても――もう、彼を止めることはできなかったのだろう。増え続ける『いいね』という麻薬が、称賛するリプライが、彼にブレーキを踏ませることを最期まで許さなかった。
「なぁ社長。こいつ、投資に失敗したんだろ。そういうのってさあ、『自己破産』ってできねぇの? 金なんてなくなっても、命さえありゃなんとかなるだろ」
紫苑の素朴な疑問に、栄は冷たい視線をワイングラスに向けた。
「選択肢としては色々あるよ。まあ自己破産が手っ取り早いけど。もうローンが払えねえっつって自己破産するのさ。だが、それを選ぶとタワマンも、ブランド時計も、積み上げてきたステータスが全部なくなっちまうわけさ。フォロワーたちに実は借金まみれでしたなんて今更プライドが許さねぇだろ。だから自分が住んでるところを出てまで、誰も入らないタワマンに住んでハリボテ生活をしてたってことだろ」
栄は、レインボーブリッジを見つめた。近いようで、遠く見える。ここからの眺めは、距離感が分からなくなる。
「こいつにとってそれを暴露することは死ぬことよりも恐ろしいことだったんだよ。プライドってのは、時として一番の猛毒になる」
「意味わかんねえな」
紫苑は心底嫌そうに顔を顰めた。
「見栄張るために死ぬとか、バッカじゃねぇの。生きてりゃ、どうにかなるのに」
「仕方ねえよ。典型的な『バブルの遺産』だったんだ」
栄は派手なゴルフバッグが部屋の端に置いてあるのに気付いた。
「日本が一番元気だった時代に育った世代だ。不動産神話が染み付いてる。『不動産は必ず上がる』『借金してでもデカいことやった奴が勝つ』っていう、三十年前の成功法則のままで止まってる。生活レベルも下げられなかったんだろう。プライドが邪魔して、な」
「それがわかんねぇんだよ。身の丈に合わない金借りて、高いタワマン買って、首吊るなんて一番コスパ悪いじゃん。一円パチンコ打ったほうが有意義だぜ」
「そういう世代間の溝って、埋まらねえもんなんだよな。俺にもわかんないけど――でも、成功してやりたい、のし上がってやりたい、そういう気持ちは、なんかわかる気がする」
栄はそう言って、目を伏せた。
「祓ってやれないか、北条」
紫苑は渋い顔をして貧乏ゆすりをした。
「何ていうか、こいつ話通じないタイプだよ。みんな苦しいけど明日もガンバロ、なーんて言うけどさ、信者以外の言葉は全部ブロックだぜ。自分を良く見せることしか考えてねえ、空っぽの紛いもんだ。今までで一番たちが悪いよ」
紫苑は独鈷杵を握った。真言は唱えない。
「おい、おっさん。ここには『いいね』なんかひとつもねぇ。あるのは、お前が作った借金の山と、冷たい空っぽな部屋だけだ」
『明日ハ、モット……上ガル。含ミ損ナンテ幻ダ……』
「チャートばっか見てねぇで現実見ろよ、おっさん!」
『マダ終わっテなイ!』
振り上げた独鈷杵は霊に弾かれたのだろうか。床に転がった。
「なっ――」
「おい、どうした?」
「こいつ……もうどうにもならねぇ。なあ社長、借金をチャラにする方法って、他にない、のか?」
紫苑の額に脂汗が浮かぶ。ギリギリと霊の腕が紫苑の首を締め上げているのだ。
栄には相変わらず霊の姿は見えない。爪先が浮きかけている紫苑が、苦しそうに顔を歪めていることしかわからない。
このままだと、紫苑の命が危ない。栄は必死に頭を絞っていた。
「えっ、と……そうだな、俺は詳しくはないが、やるとしたら任意売却した後に自己破産するくらいしか、手立ては見つからない。投資の借金がいくらなのかは知らないけど、日本ってのは優しい国だからな。自己破産申請して、いちからやり直すことはできるよ。あとは、ここがもし投資用じゃなかったら。債務整理して借金を減らして、個人再生って手も打てたはずだ。でもそれは俺ができることじゃない。自分から弁護士みたいな専門家に助けてくれ、って言えれば――アカウントを捨てる勇気があれば、こんなことにはならなかったんじゃないか」
悪霊の手が止まる。ぐるりとその顔が栄の方に向くが、栄は微動だにしなかった。
「俺も、色々あったよ。自己破産――ああ、そうだな、選べればよかった。でも、俺は選ばなかった。そしてどうにか生きてきた。死んだら終わるからな。生きてどうにか地獄みたいな世界を生きるよりほかにない。天国を掴みたかったら、生きた証を積み重ねるしかねえんだ」
栄は目を伏せた。八年前の光景が脳裏に浮かぶ。誰もいない家。細く伸びる線香の煙。
ふっと悪霊の力が抜けた。喉を潰されそうになりながら、紫苑は床に落ちた独鈷杵を拾い、霊の頭に突き刺した。
「――これで閉場だ! ノウマク・サマンダ・バザラダン・センダ・マカロシャダ・ソワタヤ・ウン・タラタ――カンマン!」
不動明王の慈救呪。紫苑ができる、唯一の救いだ。
ただ子供のように泣き喚くような断末魔が栄の鼓膜に響いた。
紫苑はその場に膝をついて、呼吸を整えようと大きく息を吸い込んだ。




