第五話 ツイてる男とツイてない男
北条紫苑は機嫌が良かった。GIレースをふたつ連続で当てた。万馬券だ。その金を『海』に突っ込んだら大当たりを引いた。
来ているのだ。波が。
栄はニヤニヤしながらスマホを眺めている紫苑に不気味と言わんばかりの視線を向けた。
「なに。気持ち悪ぃな」
「いやぁ、『海』が大漁でさぁ。今日は俺が奢ってやろうか、社長」
「は? お前が? なんだそりゃ、天変地異でも起こるんじゃないか」
「嫌ならいいけど。ツイてんだ、今。次のエリザベス女王杯も当たるかもしれねぇなあ」
「どうだかなぁ。なぁ、『ツイてる』って言うけどさ。あれって何か霊とか憑いてたりすんの」
「そんな都合の良い霊いたら良いけどな。『ツキ』って言うだろ。あれって空に浮かんでる月が語源なんだよ。『ツキがある』、と運がいいんだ。月の満ち欠けがあるみたいにな。それが短くなってツイてる、って言うようになったんだと」
「へぇー、意外とお前そういうの知ってるよな。元坊主だからか」
栄は素直に感心した。だが書類を整理する手を止めない。
「それは関係ねぇよ」
「じゃあ、この物件どう思う。平和島競艇場のちょっと先、六畳一間のアパート」
「ボートレースかよ。それアツい、行こう。すぐ行こう」
「風が寒いんだよなぁ、あっちの方。俺、免許の更新で鮫洲の運転免許試験場に行かないといけなくてさ。終わるまでそこで時間潰してろよ。更新終わったら合流するから。遊んでても良いけど、程々にしとけよ」
「任せろ、倍にしてやる」
「なんでもいいよ」
栄は運転免許証の更新連絡通知のハガキを見ながら、ため息をついた。
本当であれば警察署で済む内容だった。栄はゴールド免許の優良ドライバー『だった』。
今となっては過去の話だ。運転していて眠くなったので、自販機でコーヒーでも買おうと車を路肩に停めた。戻ってきたらたまたま、運悪くパトカーが停まっていた。その場で引かれる点数。どうやらよく取り締まりが行われている場所だったらしい。運悪かったねぇお兄さん、と警察官は笑っていたが、こちらは笑い事ではなかった。
「ツイてなかったんだな、俺」
ダウンジャケットを羽織って外に出ると、十一月の冷たい風が栄の頬を通り過ぎていった。
***
「うぉおおお! 差せ差せぇええ!!」
舟券を握りしめながら、紫苑は大声を上げていた。普段の無気力な様子とは違い、生き生きしている。
エンジンの音が水面を切り、駆け抜けていく。紫苑の視線が六隻のボートを追う。
「ありゃダメだなぁ、このまま逃げるぜ」
紫苑の隣にはワンカップを手にした老年の男性が立っていて、朗らかに笑っていた。
「くっそぉ、外した。次だ次。なあおっちゃん、次誰来ると思う?」
紫苑はスポーツ新聞を広げ、隣の老人に見せた。
「はっは、小僧、ボートレースっつうのはな、『1号艇が絶対』だ」
「え、でもそれやと毎回1号艇が来るってことやんな? そんなのレースになんねえだろ、つまんねえ」
「そうだ、だから俺たちが狙うのは、『荒れるレース』だ。風が吹けば水面が波立つ。平和島は風が強いからな。インが飛びやすいんだ」
「へぇー」
水面がきらきらと太陽の光を反射している。紫苑の煤竹色をした瞳に揺れる波が映る。日差しは穏やかだが、風が強く吹いていて冷たい。
この鉄火場の目の前に見えるマンション群が、平和島という街の異質さを物語っていた。
「おまけに海水だからな、ここは。ビルと海に挟まれて風が強いから『走りづらい』。そういうのをよく『わかってる』選手を選ぶのも手だ。見てみろ。スタンドから1マークまでの距離が他のレース場に比べて狭いからターンが難しい。センターやアウトコースからの差しや捲りが多いんだ。それも頭に入れとけよ、小僧」
男性は皺だらけの荒れた手に持ったワンカップの酒を一口飲んだ。
「競馬と予想の仕方が全然違うんやなあ。奥深ぇ世界だ。ありがとな、おっちゃん」
「おう、分かんねえことがあったら何でも聞け。あと小僧、ここのもつ煮は絶品だぞぉ、食って帰れよ」
「ああ! 絶対次当てて、食って帰るよ」
「……何してんの、お前」
鮫洲で講習を終えた栄が呆れたように隣に立っていた。
作業着を着た男や白髪交じりの男がいる中で、高級スーツを着ている栄は異質な存在だった。かなり浮いている。
「社長。早かったな。今な、この親切なおっちゃんに必勝法を聞いたんだよ。平和島は風なんだと。次は荒れるぞ」
紫苑はにこにこしながら隣を指差した。
「おっちゃん?」
栄は眉をひそめて、紫苑の指差す先を見た。
そこには、飲み干されたワンカップの空き瓶が、風に煽られて転がっているだけだった。
「誰もいねえぞ。お前、何言ってるんだよ」
「あ? 何言ってんだよ、ここに……」
紫苑が隣を見ると、さっきまで笑っていた老人の姿は掻き消えるように無くなっていた。ただ、耳元に残った声だけが、はっきりと響いている。
——小僧。次は『6』だ。風が強く吹くぞ。
「……6」
「え?」
「買ってくる」
「いい加減にしろ北条。もうやめとけって。仕事しに来てんだぞ。遊びに来たわけじゃ」
紫苑は走り出し、赤いマークシートを鷲掴みにして目を見開いた。
三連単。6号艇を頭にする——セオリーで行けば『ありえない』。だが、紫苑の手に持ったペグシルは、導かれるようにその数字をマークしていた。
「『6』って、いちばん外側だろ? 徒競走なんかと一緒で、こういうのはインコースの方が有利なんじゃないのか」
「そうだ、だから二着に『1』を入れる」
紫苑はシートを真剣に塗りつぶしていく。
「二着は『1』と『4』……三着は『流し』だ」
「は? 全部買うのかよ」
「競艇は競馬と違ってたったの六艇だからな。三着なんて何が突っ込んでくるか分からねぇ。ケチって三着を外して万舟逃したら、それこそ死んでも死にきれねぇだろ」
紫苑は書き終えたカードをヒラヒラと振ってにやりと笑った。それは、わずか数百円の投資で、数万円のリターンを狙う悪魔のチケットだった。
「ハイリスクな投資だな」
「その分リターンがデカい」
紫苑はペグシルを耳に挟んだまま、自動発券機に一万円札を突っ込んだ。
「信じてるぜ、おっちゃん」
発券機から出てきた舟券を紫苑は握りしめた。
「はぁ。これ終わったら行くからな。先に説明しておくと、ここから歩いて十分くらいの古いアパートだ。六畳一間の昔ながらの畳張りのアパートらしくてな。そこに住んでた爺さん、孤独死だったらしい。親族も誰も残ってなかったから、役所も難儀したみたいだな。特殊清掃だけ終わってる。家具を撤去して畳はフローリングに張り替えるくらいか。除霊の必要はないかもしれないが、一応視てもらったほうがいいかと思ってな」
「孤独死かあ。人間は死ぬときは独りだけどさ、やっぱりちょっと寂しいよな」
紫苑は運河の水面をじっと見つめて呟いた。
栄も同じ方向を見つめる。ビルの間を縫うような一陣の風が駆け抜けていく。
「そうだな。看取ってほしい、っていうのはエゴかもしれないけど。でも誰か側にいてくれれば、それだけで悪くねぇ人生だったかもな、って思えるかもしれないな」
ファンファーレが鳴り響く。大時計の針が0を指し、6艇のボートが爆音と共に布を裂くようにして水面を疾走した。水飛沫が勢いよく上がる。
「始まった」
「何周するんだ?」
「3周。第1ターンマークで決まるんだ。いけぇ! 捲れぇえ! 沈めろぉおお!!」
紫苑が手すりを叩いて絶叫する。
第1ターンマーク。突風が吹き荒れた。水面が大きく波打ち、本命の1号艇が体勢を崩す。その隙を、大外から一番緑のカポック——6号艇が、鋭いナイフのように切り裂いた。
「——マジ?」
栄が目を見開く。場内から悲鳴とどよめきが上がる。6号艇が先頭に躍り出たのだ。
「しゃあぁあああ、来たぁああああ! 万舟だぁあああ!!」
紫苑の歓喜の叫びがこだまする。栄は呆気にとられていた。
「マジ? お前、すげぇな……」
「な? おっちゃんの言った通りだったぜ」
「『ツイてる』な」
栄は信じられないと言った表情で、無邪気に喜ぶ紫苑を尻目にただ水面を見つめていた。
その背後で、柱の陰から、先ほどの老人が——満足そうに、けれどどこか寂しげに佇んでいた。
「栄っ、見たか? 払戻金、十万だ」
「はぁ!? 競艇ってそんな出るのか」
「いや、滅多にねぇよこんなことは。今年初めてじゃねぇか」
作業着を着た男性が声をかけてきた。
「そうなんですか。すげーな北条。お前よく当てたよ」
「十万舟当てたのか兄ちゃん、すげぇじゃねぇか。おめでとう。俺もあやかりたいもんだぜ」
見ず知らずの男性はまるで自分のことのように喜んでいた。
「俺今やっぱり波に乗ってんだ。さて、モツ煮食っていこうぜ」
「モツ煮? なんでだよ。遊んで腹が減ったからおやつってか」
「ここのモツ煮、美味いんだって。俺出すからさ。食ってこうよ」
栄はため息をついた。確かに、冷たい風が吹いている中で食べる熱々のモツ煮は、たまらなく魅力的に見えるのだ。
スタンドの中から、モツを煮込む独特の香りが漂っていた。
紫苑はひとつ煮込みをオーダーすると、発泡スチロール容器に盛られたモツ煮を受け取った。
薬味のネギと七味がたっぷりとかかっている。これはさぞ酒が進むだろう。
「うわっ、柔らか……」
「米が欲しくなるような味付けだな。濃い味だが、悪くない」
紫苑は栄がつついたところを丁寧に避けながら、牛モツを口の中に入れた。
「醤油……いや、味噌かな。あー、酒が飲みたい」
「仕事中に飲むなよ……」
一つの器をふたりでつついている様はなんとも侘びしいものがあったが、ふたつ食べられるほどの容量が残っていないのだから仕方がない。
「あとあげる」
紫苑は発泡ドンブリを栄に突き出した。栄は苦笑しながら受け取ると、モツの脂の溶け込んだスープを飲み干した。七味唐辛子の山椒の粒が、ピリッと舌を刺すようだった。
***
そのアパートは昭和という時代から切り離されたような、古めかしい外観をしていた。鉄骨の外階段にところどころ錆が見える。外に洗濯機置き場。コンクリート塀に苔がところどころ生えていて、色褪せた区議会議員のポスターが貼られていた。
「趣あるな」
栄は鍵を開けて入る。入り口入ってすぐにキッチン。コンロがそのままになっていて五徳に少し汚れが残っているが、きれいに使われているようだった。使いかけの調味料がそのままになっていて、ステンレスのシンクは水垢の汚れが少し見える。
擦りガラスの障子戸を開けると、畳張りの六畳間が姿を現した。一部畳がはがされている。布団も残されていない。おそらくそこが現場だったのだろう。部屋の端に小さな卓袱台と仏壇が置いてある。
「閉眼供養しないといけないな」
「閉眼供養?」
「仏壇を処分するときにしないといけないんだよ。ご本尊とかお位牌なんかはお焚き上げしないといけないんだけど。ここの家の宗派までわかんねぇよな」
「そうなんだ。俺、そういうの知らなかったからお前連れてきてよかったよ。ここの家主、まだいるのか? 宗派聞いてみたりとかできねえ?」
「ここには何も感じな……」
——やったじゃねぇか小僧。俺の言ったとおりだったろ。
紫苑の耳にはしっかり届いていた。さっきの老人の声だった。
「おっちゃん?」
「え?」
「さっきのおっちゃんだ」
「マジかよ、そんなことある? 俺は何も感じないけど。ついてきたってことか?」
——その十万舟、半分俺にくれたって五万残る。俺が払い戻ししてきてやるよ、な?
するりと紫苑のスウェットのポケットから舟券が飛び出した。
「あっ! 払い戻しすんの忘れてた!」
「あぁ、そういや払い戻ししてないな……って、何してんのお前」
紫苑が空中で舟券を引っ張っている。霊感ゼロの栄には幽霊の姿が見えていないので、ただ滑稽な姿にしか見えなかった。
「いくらおっちゃんでも、これは渡せねえ……俺の十万舟、次のウマの種銭なんだよ」
「何言ってんだ」
「……わっ!」
ドン、と弾みで紫苑は仏壇にぶつかった。飾られていた写真が傾き、置いてあった紙が床に落ちた。
「あーあ、全く困ったやつだよ」
栄は呆れながら床に落ちた紙を拾った。それは、この家主の妻が家主に宛てた手紙のようだった。擦れたボールペンで書かれている。栄は、震えるような文字を目で追った。
『あなたへ。へそくりの五万円、ここに入れておきます。お仏壇の掃除をしてくれたら、見つかるようにしました。これで、美味しいものでも食べてね。競艇もいいけど、ほどほどに。ちゃんとご飯を食べて、長生きしてください。天国で待ってます』
ふわりと舟券は宙を舞い、床に静かに落ちた。
紫苑の視線の先には、小さくなった老人の霊が、膝から崩れ落ちていていた。
見える。栄はただ唖然と老人の姿を見ていた。ここの家主であり、紫苑に競艇を教えた人物なのだろう。
『婆さん、すまねぇ。すまねぇ……』
その声は、もう金欲にまみれた悪鬼のものではなかった。
「寂しかったんだろうな」
栄がぽつりと言った。
「手紙の文字が震えてる。多分、病気だったんだろう。妻に先立たれて、孤独に耐えられなくなって競艇場に通ったのかもしれないな。あそこは、同じような世代のおっさんなんかが見た感じ多かったし。見ず知らずの俺にだって普通に話しかけてくるような人が多い場所だ。一人の部屋は、静かすぎるんだよ」
「長生きしろって書かれてるのに、孤独死かよ。婆ちゃんとの約束、守れなかったじゃねえか。おっちゃん」
「北条。その舟券なんだが、その爺さんにやったらどうだ」
「は? なんでだよ、これ当てたの俺だぞ」
まだ紫苑は納得していないようだった。
「それ予想したの誰だよ。ここの爺さんだろ。もし競艇場にいたら、お前ならこう言うんじゃねえか? 『おっちゃん、すげえな。当たったよ。この金で酒とモツ煮奢ってやるよ、スタンド行こうぜ』——ってな」
「俺の思考読んでんじゃねえよ」
紫苑は笑って、仏壇に舟券を置いた。
「持ってけよ、おっちゃん。これで、天国で婆ちゃんと美味いもんでも食ってくれ。俺に、ボートレースの予想の仕方、教えてくれてありがとうな」
そう言って合掌した。
老人は紫苑を見てにこりと笑うと、静かに消えていった。
「いい夫婦だったんだろうなぁ。ギャンブル狂いのダメ親父でも、最後まで愛されてたんだ」
紫苑は合掌を解いて、珍しく神妙な顔で呟いた。
栄は、窓ガラスに映る自分を見た。オーダーのスーツ。高級腕時計。整えられた髪。今の自分は、誰から見ても成功者だろう。だが、その中身は空っぽだ。
「結婚なんて、そんなにいいものかね」
口をついて出た言葉は、思ったよりも乾いていた。紫苑が不思議そうに振り返る。
「何、なんかあったの」
「別に」
栄は視線を逸らした。脳裏をよぎるのは、八年前の雨の日だ。
『ごめんね、栄くん。私、借金のある人とは結婚考えられないよ』
当時付き合っていた彼女は、そう言って去っていった。学生時代から支え合い、結婚まで考えたほどの女だった。愛だの信頼だのと言っても、結局は『金』がなければ紙切れより脆い。だから栄は、金に執着した。心を捨てて、数字だけを信じるようになったのだ。
それなのに。この部屋の主は、金なんて持っていなかっただろうに、最期まで愛されていた。その差は、一体何だったと言うんだ。
「なら今から俺は壁だ。お前の言葉は独り言。俺は何も聞いてないことにしてやるよ」
「なんだよそれ。別にそこまで大した話じゃねえよ」
栄はふっと力を抜いたように笑った。
「結婚まで考えだ女がいたんだよ。昔な。高校時代から付き合ってて……まあ、それなりに可愛かった。多分いい子だった、とは思う。今となってはあれは計算だったのかもしれないけど。俺宅建落ちたんだよ、一回。その頃色々と家の中もゴタゴタしててさ……そいつ、はっきり言ったんだ。『借金あるやつとは結婚できない』ってな。俺が不動産屋始める前だったし、金なんかなかったからさ」
「ふーん。その女見る目ねえな」
「お前、何言って」
「事実だろ」
紫苑はあぐらをかいたまま、煙草を取り出して火をつけた。細い紫煙が上がり、部屋に消えていく。
「確かに、社長は金に汚いし、見栄っ張りだし、性格も……よくないな、うん。悪い」
「そこまで言わなくてもいいだろ」
「でも、一度掴んだ仕事は絶対に離さねえ」
紫苑の言葉に、栄は口を閉ざした。
「俺だったら面倒くさくて投げ出してるだろうなってことも、社長は文句ひとつ言わず……いや、文句は言ってるか。でも、結局やるだろ。最後まで」
「仕事だからな」
「それが仕事だって言われたらそれまでだけど、こんな事故物件の掃除だの、遺品整理だの、貧乏くじなんか誰だって引きたくねえよ」
紫苑は立ち上がり、栄の隣に並んだ。
「でも社長は泥臭くやってきた。逃げずに、ずっと。それって、すげぇことなんじゃねえの」
紫苑の真っ直ぐな視線が栄と出会う。それは、除霊をする時と同じくらい、真剣な視線だった。
「そうやって、社長は今『事故物件専門』って看板掲げて、人に感謝されるような仕事してんじゃねえの。前の女が今の社長を見たらさ、逃がした魚のデカさに腰抜かすかもな」
栄は一瞬、言葉に詰まった。誰かに認められたかった。金やスーツといった外側じゃなく、泥水をすすって生きてきた中身を。
「感謝されるためにやってるわけじゃないよ」
「素直じゃねえなぁ」
「金のためだ。感謝なんかじゃ飯は食えない」
「――慎勿念過去、亦勿願未来」
その声は、いつもの気だるげなものではなく、朗々と部屋に響いた。読経のような、不思議な律動。
「え……」
「『一夜賢者経』ってお経の一節だよ」
「坊さんの説法かよ」
「俺は坊主じゃねぇよ。まあ聞け」
紫苑は窓枠に腰掛け、少し短くなった煙草を吸う。メンソールの煙が広がった。
「この後『過去はすでに捨てられたものであり、未来は未だ到達していないものだ。ただ今日なすべきことを熱心になせ』――って続くんだ」
紫苑の瞳が、夕陽を反射して静かに光る。そこには確かに、知性が宿っていた。普段のいい加減な姿はない。山寺で修行し、何かを悟った僧侶のような、達観した視線だった。
「お前の過去は過去だよ。女に捨てられたのは『過ぎ去った』ことだ。変えようがねぇ」
栄は黙って目の前の破戒僧を見つめる。
「目の前のことだけ見てろよ。先のことなんか俺は知らねえけど、今目の前に金が転がってるなら、泥まみれになっても拾いに行く。それが天國栄なんじゃねえのか」
「百円玉が落ちてても、拾おうとは思わないけどな」
「俺は拾うよ。百円ありゃあ、また舟券買えるしな」
紫苑はケラケラと笑って、いつもの表情に戻った。
「ほんと酷いよな、お前。さっきのでちょっと見直したのに」
「嫌いじゃないだろ、そういうの」
図星を突かれ、栄は口ごもった。清廉潔白な坊主なら、きっと息が詰まる。この俗まみれで、欲望に忠実な『北条紫苑』だから隣にいて心地いいのだ。
「そうだな。ありがとよ」
栄は短く礼を言って、薄く笑った。




