第二話 炎上配信者の1DK
天國栄の業務はコーヒーを淹れるところから始まる。
コーヒーの豆の量、自分好みの濃さにカスタマイズしたマシンは豆を挽く機械的な音を立ててから、コーヒーを抽出する。いつもの味だ。
表面に薄いクレマの張った益子焼のマグカップを持って、デスクに座る。メールが数件。そのうちのひとつは昔世話になった不動産屋からだった。
『手に負えないからうちは手を引く。この物件、天國くん向けだね』
怪訝に思いながら栄はメールの本文のURLをクリックする。大手不動産仲介サイトに載っている物件だった。
築浅のマンション、渋谷駅徒歩七分の好立地。間取りは1DK。バス、トイレ別の独立洗面台付き——相場より三万円も安い。破格だ。破格すぎる。
こんな好物件はリノベの必要もない。放っておけば普通に入居者が来るはずなのだ。栄にまわって来たということは、事故物件である。
「勿体ねえなあ。俺が住みたいくらいだ」
「ねえ、今のでかい音何? すっげえうるさかったんだけど」
ボサボサの頭をした紫苑が寝袋から這い出てきた。
事務所のタイルカーペットの上に、栄が一時期一人キャンプをしようと買ってそのままになっていた新品同然の寝袋をそのまま敷いて、紫苑は眠っていた。
「よう、酒漬けミミズ。起きたか」
栄はコーヒーを一口飲んだ。苦みの強いブラックコーヒーは彼の朝のガソリンだ。
「あー、頭痛ぇ。ちょっと静かにしてくんない?」
「業務時間過ぎてんぞ、働け従業員」
時刻は九時を少し過ぎたあたり。公園で寝泊まりしていた紫苑にとっては、まだ夜中に等しいらしい。
「お前の初仕事になりそうだ」
「二日酔いに働かせんの、この会社は。ブラックじゃね?」
「二日酔いでも普通は仕事すんだよ。コーヒー淹れてやるからシャキッとしろ。とりあえずその汚ねぇ頭何とかしてこい、奥にシャワールームあるから」
「別にコーヒーはいらねぇよ。ていうかなんで事務所にシャワールームがあんだよ」
栄は高校時代にサッカー部だった。強豪校だったためレギュラーにはなれず二軍どまりだったが、それでも朝のロードワークは欠かすことはなかった。大学に通ってからも、お遊びのフットサルサークルだったが朝走ることは続けていた。今ではむしろ走らないほうがソワソワしてしまう。朝早くに南青山霊園の周囲を走るのも、悪くはないのだ。夏場は汗をかくから、商談の際に不快に思われることがないようにシャワールームを事務所の奥に併設した。
小さいキッチンと寝室代わりのプライベートルームも一応事務所には存在している。
だが事故物件に寝泊まりしていた栄には、家は不要だったのだ。
「いいから入ってこい。髭も剃れよ」
紫苑は舌打ちをしてシャワールームに向かった。
栄は固定電話のボタンを押す。メールの差出人の不動産会社宛てだ。
「どうも、いつもお世話になっております。天国不動産、天國です。社長、いらっしゃいますか」
作り物の声でハキハキと言う。
「……ああ、どうも社長。ご無沙汰しております。見ましたよ、メール」
「やあ天國くん、元気そうだね。うちが扱ってるマンションの一室なんだがね……まあ、心理的瑕疵物件……というか」
「自然死ですか、自殺ですか。それとも殺人?」
栄はオブラートに包むことなくはっきりと聞いた。
「自殺だね。入居者が精神的に不安定だったとも言われているが……実のところは良く分からない。ただ、隣人トラブルもあったようなんだ」
事故物件で一番多いのは圧倒的に自然死だ。孤独死、病死——。それならば超高齢化社会の中で『よくある話』だが、自殺ともなれば話が変わる。家賃を下げるのも止む無し、ではある。
「オーナーさんと話させていただいても」
「うちの会社の持ち物件だよ」
「失礼しました。その、隣人の方っていうのは」
「それがねぇ」
社長はため息をついた。
「おい社長ー、タオルどこだよー!」
同時に紫苑がシャワールームの中から叫んだ。
「ばっ、お前。し、失礼しました」
栄は手振りでロッカーを指差した。そこにはタオルとTシャツ、スウェットが収まっている。
「従業員雇ったのかい?」
「あぁ、まぁ」
栄は歯切れ悪く答える。従業員と言えば従業員だが。スーツも着ていない、薄汚れた格好をした紫苑はとてもオモテに出していいような見た目をしていない。
「すみません、それで、隣人の話でしたね」
「あぁ、それがね、空室なんだよ」
「え?」
「最上階の角部屋だから少し家賃を高く設定していてね。そのせいか前の入居者が出て行ってからは空室なんだよ。自殺があったのは二週間くらい前かな。その間同じフロアに入居者は彼女以外いなかったんだ」
「女性ですか」
「なんて言ったかな……そう、バーチャル配信者、って言ってたか。インターネットで何かをやってたとは聞いたよ」
「バーチャル配信者、ですか」
家から出られない、娯楽に飢えた人々の心の拠り所。動画投稿ではなくストリーミングがメインなのだとしたら、むしろ騒音の出どころはその入居者のはずなのだが。
空室のはずの部屋で起こる騒音トラブル。これが何を意味するか。栄はタオルで頭を拭く紫苑をぼんやり眺めた。
「お陰で二部屋空室だ。最上階の好立地を遊ばせてる。困ったもんだよ」
「お察しします。早速ですが部屋を見せていただけますか」
「ああ、勿論だ。従業員に話をしておくから、鍵を受け取ってくれ」
「ありがとうございます。では、後ほど伺います」
栄は受話器を置いて、溜め息をこぼした。
「お前なぁ。え、誰だお前」
「は?」
眉間にしわを寄せながら顔を上げた栄は言葉を失った。そこに立っていたのは確かに紫苑だった。きれいに洗われた髪はボリュームが抑えられて、トリートメントもちゃんとしたのか、艶があり光の加減で紫色にも見える。無精ひげが剃られたシャープな輪郭。肌の肌理は細かく、陶器のように滑らかだった。
「はあー、磨けば光るもんだな」
「磨く気ねぇんだけど。ねー社長何かねぇの? 風呂上がりはやっぱ酒だろ」
パンツ一丁のまま紫苑は冷蔵庫を開けた。細い腕。薄べったい身体。
まだ就業時間だ。栄は顔を顰めた。
「朝から飲むんじゃねえ。俺の服貸してやるからそれ着ろ。仕事だ、行くぞ」
栄は立ち上がるとロッカーの中に入れておいたハイブランドのTシャツと、スウェットを紫苑に投げた。
服から広がる石鹸のような香りに紫苑は露骨に嫌な顔をした。
「なにこれ。くっせぇ」
「柔軟剤だよ。そのジャージ洗濯機に入れとけ、着替えたら行くぞ」
紫苑は渋々Tシャツに着替えて、事務所に置いてある栄の予備のパーカーを受け取って袖を通した。
栄の後に続いて紫苑が事務所を出る。五月に入ったばかりの爽やかな風が、紫苑の長い髪を揺らした。
事務所のエントランスの鍵をかけた栄は、隣の駐車場に停めてある高級外車のドアを開けた。光沢のある革張りのシートが栄の体を包み込む。
「乗れ。渋谷まで出るぞ」
「えぇ、渋谷? やだよ俺、あんな汚い街」
エンジンが唸る音が響く。栄は紫苑の言葉を無視して車を発進させた。
***
外苑通りから、国道を通って八幡通りを少し外れた場所に不動産屋があった。普段は大勢いる社員が緊急事態宣言の最中のせいか、事務所にはマスクをつけた従業員だという女性が一人だけだった。社長は出払っていて不在だった。彼女から鍵を受け取る。
「場所、わかりますか」
「あぁ、地図もらってるから平気です」
拒絶するような冷たい声で栄は言った。
「なんか冷たくね?」
「別に。仕事ならこんなもんだろ」
栄はスマホの地図アプリを頼りに歩き出した。
渋谷駅と恵比寿駅の間、明治通り沿いにある白い外観のマンションだ。
築浅の好立地なら尚更逃すわけにはいかない。オートロックの鍵を開けてエントランスを抜ける。
掃除が行き届いていて、埃の一つも落ちていない。置いてある観葉植物も葉に艶があって、管理が行き届いていた。
栄はポストを見た。宅配ロッカー備え付け。至れり尽くせりだ。
例の最上階の空き部屋ふたつ以外は埋まっているように見えた。
「事故物件だとしても埋まりそうなんだけどな。よっぽど悪い噂が立ってるらしい」
エレベーターは二基。この規模のマンションにしては多い。五階まで上がる。ピンポーンと音を立てて、エレベーターは二人を現場まで運んだ。
部屋の鍵を開けて中に入る。クリーニングを既に終わらせているからか、それとも元の家主が几帳面だったのか。玄関からキッチンは綺麗になっていた。ガステーブルに汚れはひとつもなく、フローリングにも痛みはない。壁紙にも油染みや経年劣化の跡はない。
「本当にリノベの必要なさそうだな」
メインルームに向かうドアを栄は開けると、足を止めた。
「なんだよ、これ……」
壁を見上げた栄は絶句し、二の句が継げない状態だった。壁一面に、赤色と黒のマジックペンで罵詈雑言が書かれている。大きな文字から、小さく細かく書き込まれた文字まで、罵倒の言葉が並んでいる。
『死ね』 『ブス』 『信じてたのに』
「すげー、上の方まである。細かいねこれ。よく書いたよこんなところに」
誰が見ても分かる。この部屋は異常だ。
紫苑はただ絵画でも鑑賞するかのように感心している。
「バーチャル配信者、って言ってたっけ。ふーん、聖女キャラなんだ。にしても『クソビッチ』だって、ひでーな」
紫苑の言葉に、栄の脳内で電卓が弾かれた。この落書きを消す特殊清掃費、壁紙の張替え――数十万は飛ぶ。時間もかかる。
バーチャル配信者という単語に栄はハッとした。
「そうだ」
栄は壁を指差した。
「元家主が配信者なんだったら、いっそのこと配信者向けの物件に作り変えてしまえばいいんだ」
「は? 配信者向け?」
「ああ。この罵詈雑言、消そうとするから金がかかるんだ。上から吸音材を貼って隠しちまえばいい」
「隠す? そんなことできるのかよ。悪どいなあ」
栄はニヤリと笑った。
「人聞きが悪いな、リノベーションだよ。角部屋の割にこの辺りの相場より安いし、バーチャル配信者の事務所やスタジオまでここからそれほど遠くもないだろ。そういう物件を探してそうなヤツは多いはずだ」
「二部屋とも?」
「よく知らないけど配信者ってコラボ配信とかするだろ。それに配信者仲間に部屋を紹介してもらえれば、広告宣伝費ゼロだ」
「へー、やるねぇ社長」
紫苑がニヤリと笑ったその時だった。
ドン、ドンと壁を叩く音がする。栄の背中が凍りついた。紫苑のほうを見る。この異常事態に、彼は眠そうにあくびをしていてまるで緊張感がない。
「マジか。俺、ちょっと隣の部屋見てくる」
「その必要はないよ」
紫苑がぴしゃりと言った。
「あ? だって今壁を」
「音の出どころはここだから」
紫苑が壁を指差す。栄には何も見えなかった。
「俺には何も見えねぇんだけど」
「女が壁に頭を打ち付けてる」
ドン、ドンと音は規則正しく鳴っている。
「へー、リズム感良いんだね。歌も上手かったんじゃない。どしたん、話聞こか」
紫苑は屈んで壁に向かって話しかけた。
「……世知辛いねぇ、分かる分かる。アンチコメント、辛かったよな」
「言ってる場合かよ。早く祓え」
「なあ社長、今日の晩飯何?」
「デリバリーで好きなもん頼め。寿司でもピザでも中華でも今一番お前の食いたいものだ。なんでもいいから早くその音止めろ。俺がおかしくなりそうだ」
「最高。その言葉待ってたぜ」
紫苑はコンビニ袋の中から、鈍く光る真鍮の棒――独鈷杵を取り出した。慣れた手つきでそれを逆手に握り込むと、もう片方の手で皺くちゃになった袈裟を引きずり出し、パーカーの上から雑に羽織る。その瞬間、紫苑の周りの空気が、ピリッと張り詰めたものに変わった。
「死んでまで自傷行為なんて、コスパ最悪だぜ。今楽にしてやるよ」
紫苑は気怠げな半眼のまま、呪文を紡ぎ始めた。
「ノウマクサンマンダ バザラダン センダマカロシャダーー」
呼吸をするように自然で、けれど耳障りなほど高速の詠唱。お経というよりは、呪詛に近い響きだった。
栄は背筋がびりびりと痺れるような感覚に襲われ、一歩後ずさった。
部屋の奥で、黒い影が膨れ上がるのが見えた。
栄には霊感はない。だが、紫苑の霊力に引きずり出されたのか、可視化されている。
「嘘、だろう。なんだこれは」
女の霊が悲鳴を上げながら紫苑に襲いかかってくる。
『ヤメテ、私ハ悪クナイ!』
「ソワタヤ ウンタラタ――」
『アノ女ノセイデ』
紫苑は逃げなかった。目の前まで迫った霊の爪を、首をわずかに傾けるだけで避けた。
そして、紫苑は目をしっかりと見開くと、握りしめた独鈷杵を壁の『死ね』という文字の中心に突き立てた。
「――カンマン!」
衝撃音と共に、霊の体が内側から弾け飛び、光の粒子となって霧散する。静寂が戻った部屋に、カラン、と独鈷杵を弄ぶ金属音だけが響いた。
「ふぅ」
紫苑は大きく息を吐くと、またいつもの猫背に戻って、金糸の刺繍が入った袈裟を脱いでコンビニ袋にぐしゃぐしゃに仕舞う。
「終わった、のか?」
「うん。終わり」
栄はハッとした。急いで業者を呼ばなくては。信頼できる、仕事の早いリノベ専門業者に。
震える手でスマホを操作する。『株式会社 絆建設』——。社長の男は、三コールで通話に出た。




