第一話 除霊師・北条紫苑
事故物件とは、広義には不動産取引や賃貸借契約の対象となる土地・建物や、アパート・マンションなどのうち、その物件の本体部分もしくは共用部分のいずれかにおいて、何らかの原因で前居住者が死亡した経歴のあるものをいう ――wikipedia「事故物件」より。
五十円玉になるように計算して自動販売機に入れた小銭がすべて十円玉で戻ってきてしまうことほど、無駄なものはない。
釣銭切れなら釣銭切れと表示しておいてほしい。心を砕いたところで何の意味をなさないことを、知っていたつもりでいた。
じゃらじゃらとした銅くさい小銭を高級スーツのポケットに入れてため息をつく。高性能フィルターを謳う不織布マスクの内側が、湿気で生温かく籠もった。
自販機の取り出し口から缶コーヒーを取り出して、顔を上げる。いつもなら子どもたちが走り回り、笑い声が響いているはずの公園は、まるで真夜中の墓場のように静まり返っている。すべての遊具に『使用禁止』と書かれた黄色いテープがグルグル巻きにされ、生活の温度を失った事件現場のような有様の中、きれいに磨かれた革靴が砂を踏む音だけがやけに大きく響いた。
「ステイホーム、か」
マスクをずらし、プルタブを起こす。温くなった微糖コーヒーを空っぽの胃に流し込んだ。中途半端な甘ったるさが喉にまとわりつくのが不快だった。
二〇二〇年、春。緊急事態宣言下の東京は、死んだように静かだった。
天國栄は公園のベンチにどかりと腰掛けた。
スマホで動画サイトを開けば、極彩色のアバターを纏ったバーチャル配信者が、甲高い声でホラーゲームをリアルタイムでプレイし、叫んでいる。同接数は三万人。
三万もの人々が、この小さな画面の中に『救い』と『繋がり』を求めて殺到していた。
不意に栄のスマホの画面が、不自然に動きが止まり、音声にノイズが混ざる。バーチャル配信者の声に別の湿ったような女の声が乗った。
電波状況は悪くないはずなのだが。栄は不審に思いながら画面を滑らせ、自分がアップロードした動画のサムネイルの上を指で叩いた。
スマホで見やすいようなテキスト読み上げソフトの音声とテロップ、キャッチーな売り文句の短めの動画だ。再生数は、先月までの倍のペースで伸びていた。
家にいろ、と言われれば、人は家を気にする。隣の壁の薄さ、上階の足音、そして……孤独。ストレスを溜め込んだ人間たちが起こすトラブルは、栄のような『事故物件専門』の不動産屋にとって、新たな商品の入荷を意味していた。そしてその動画は、本気で安い部屋探しをしている若者から物件マニア、事故物件の怖いもの見たさの冷やかしまで、再生数を回していたのだ。
栄は不動産会社の社長をしている。会社といっても一人しかいない。
扱う物件は事故物件のみ。この事故物件の情報を特殊清掃会社や業界から先に流ししてもらい、オーナーから直接その部屋自体を栄が『借り上げる』――所謂サブリース契約をする。
清掃代はこちらで持つ代わりにきれいに内装をリノベして、相場より安く貸す。貸す相手は指定できないよう、複雑な文言で契約書に記載している。
これは懇意にしている弁護士からの入れ知恵だった。法律スレスレだが、利益率は高い。
十五秒の縦長動画が終わると同時に、画面には『フルバージョンはYourTubeで検索!』という大きく派手なテロップが出る。TickTackは拡散力はあるが、金にはならない。だが、そこから動画プラットフォームに客を流せば、再生数に応じた「広告収入」が入った。入居者が決まれば仲介手数料が入り、決まらなくても動画が回れば小銭が入る。
「所詮上っ面しか見てねぇのよ。チョロいもんだ」
マスクを戻し、空になった缶を空っぽのゴミ箱へ放る。ふと、栄の視界の端に異物が映った。黄色の黒の警告色をした『使用禁止』のテープで封鎖されたクマのトンネル遊具。その暗がりから、薄汚れたスニーカーを履いた足が突き出ているのが見えた。
ゾッとした。霊感など感じたことがなかった栄だからこそ、事故物件専門の不動産業ができたのに。
まさか、死体か――死体なら警察沙汰で第一発見者は栄だ。面倒なことになる。栄はポケットから何の役にも立たないアルコールの除菌スプレーを取り出して握りしめ、恐る恐る遊具に近づいた。
「誰かいるのか?」
くぐもったような反響音。声をかけるが、反応はない。近づくと、新聞紙を敷いて寝転がっている男の姿が見えた。薄汚れたジャージ姿で、マスクもしていない。度数の強いチューハイの缶と煙草の吸い殻が遊具の中に転がっている。
「なんだ、ホームレスかよ」
栄は安堵したように息をついた。手を地面に着こうとしたその拍子に、靴先が空き缶に当たった。
カラン、と乾いた音が静寂に響く。
物音に気づいた男は、ばちっと目を開けて勢いよく起き上がると、目の前の栄を見た。
ボサボサの髪の間から覗く瞳は、不気味なほど透き通って見える。
顔立ちだけはやたらと整っているのが、余計に今の薄汚さを強調していた。
「うおっ」
栄は心臓が跳ね上がるのを感じて、とっさに半歩後ずさった。
「……お前」
男が栄を指差す。寝起きと酒で焼けたような掠れた声だった。目が据わっている。
先ほどまで寝ていたはずなのに、両眼の隈がひどい。
「憑かれてんな」
「は? 疲れてる? まあ……午前中歩きっぱなしだったからな」
「違う。幽霊。お前の背中に女が見える。べったり張り付いて離れねぇ」
すーっと男は細い指先を栄の背中に移動させる。つられて、栄は視線を動かした。遊具の中が心なしかひんやりした空気に感じた。
「未練タラタラだな、そいつ。ほー、担当ホストに騙されて最終的に本番アリの風俗に飛ばされた。夜の街は自粛でも、ホストの売掛の取り立ては自粛なしってか。稼ぐ場所を奪われて、逃げ場もなくて自殺……そっか。世知辛いな」
ボソボソと男が呟く。
お前がそのホストかよ、と男は腹を掻きながらめんどくさそうに欠伸をしつつ、言った。
「馬鹿言え。俺は不動産会社の社長だ。怪しいもんじゃない」
栄はレザーの名刺入れから名刺を取り出して、男に渡した。
『株式会社天国不動産 代表取締役社長 天國栄』
「へー」
男は興味なさそうに言って、栄に名刺を返した。土で薄汚れた指の跡が名刺の端についた。
栄は内心ムッとした。差し出した名刺を返すやつがあるか。
「で、なんでその社長さんが憑かれてんだよ」
「扱ってる物件が事故物件だから、かな。そういや午前中に商談したオーナーが若い女が自殺したとかなんとか言ってた気がする」
「へぇ」
男は口元にゆるく弧を描いた。面白い、とでも言いたげに。
「祓ってやろうか、それ」
「祓う?」
栄は眉を顰めた。
「俺は除霊師だ。その女、お前の出す利益全部吸うってさ。明日にはホストの口座に桁が増えて、お前の口座はゼロになってんじゃね?」
「利益吸うだと? 冗談じゃない、早く祓ってくれ」
喚く栄に向かって、すっと男は手を出した。
「除霊は五万。オプションは別料金」
「金取んのかよ!」
「ボランティアでそんなことする物好きなんかいないよ。供養するなら、それなりの対価がいるわけ」
「今手持ちがない。事務所まで戻ればあるけど」
「で、やるの、やらないの」
「やるよ。クソ、事務所までついてこい」
男は不気味に笑って立ち上がると、吸い殻と空き缶を拾ってぐしゃぐしゃのコンビニのビニール袋に入れ、栄の後に続いて歩き出した。
***
南青山と西麻布の狭間、南青山霊園のすぐそばの外苑通りに面したビルの一階が、天国不動産の事務所だった。
栄は、ガラス張りの扉に貼られた『外出中』の札を裏返して『営業中』に変えた。
鍵を開けて扉を開けると、コーヒーの残り香のようなアロマの中に、埃とアルコールの混ざったような酸っぱい臭いが鼻をついた。
栄は露骨に眉をひそめて横目で男を見ると、何も言わずに空気清浄機のスイッチを『強』に変えた。
元カフェの居抜き物件のそこは明るい日差しが差し込んでいた。グレイッシュな緑色の布張りのソファの上にシンプルなクッションが置かれている。商談用のテーブルにナチュラルウッドのY字の背もたれが特徴的なチェアが収まって、北欧王室御用達ブランドのブランケットが無造作にかけられていた。ソファの脇につやつやとした葉のドラセナが置かれていて、エアコンの風に揺れている。その商談テーブルの上に栄は書類の詰まった重たいカバンをどんと置いた。
「変なとこに事務所があんだね。お客さん来るの?」
「南青山のブランドに釣られた客が来る」
「なるほど」
男が頷いた。
「やるならさっさとやってくれ。仕事が山積みなんだ」
「料金先払い」
男はカサついた手を差し出した。
「詐欺じゃないだろうな」
「背中に女が乗ってるって自覚あるんだろ。クソ怠い、背中が寒い、なんかわからないけど電子機器の動作がおかしい」
確かに事故物件のオーナーの話を聞いてからスマホの動作が挙動がおかしい。
徹夜明けのような妙な疲労感もある。
霊の存在は信じないが、スマホが使えないのは仕事ができなくなって困る。
「じゃあサービスだ。前金二万。祓えたら追加で三万。これなら文句ないよな」
「結局払う額一緒じゃねえかよ」
栄は財布から五千円札を取り出した。
「前金だ。後の額は……祓えたら、考えてやる」
男は舌打ちをすると紙幣をひったくってコンビニの袋の中に乱暴に入れた。そのまま、ごそごそと何かを探しては袋から取り出す。金色に光る、寺院で見かけるような法具。コンビニのビニール袋の中にあるのが不釣り合いなシロモノだった。
「ノウマク サンマンダ バザラダンーー」
何かブツブツと呟くと、片手でその法具を握り、もう片方の手で印を作る。
「カンマン!」
短く、鋭い声だった。空気がパンッ、と弾けるような破裂音が鼓膜を打ち、驚いた栄はびくりと肩を揺らした。部屋の空気が、一瞬で凪いだような気がした。
「はい終わり」
「え?」
確かに、身体が軽い。風邪の引き始めのような嫌な寒さが消え、スマホは通知が止まらない。まるで止まっていた時間が動き出したようだった。
「約束守りなよ、社長。四万五千円」
真剣な顔で男は手を差し出した。
「……焼肉奢ってやる。それでチャラにしろ」
「は? 焼肉?」
男の顔が変わった。
「よっ、しゃあ……久しぶりにまともな飯にありつける」
「だが、今は緊急事態宣言中だ。店はどこもやってねぇ」
栄は動作が軽くなったスマホをすいすいと操作し、フードデリバリーアプリを起動した。
「デリバリーだ。高級焼き肉屋の特上カルビ弁当、ご飯大盛り。これで文句ないな」
「最高。ていうか普通にコンビニの廃棄とかじゃなければなんでもいい」
「どういう生活してんだよ、お前」
ふと——栄は気付いた。この男、使える。
事故物件を無理やりリノベしていたが、そこにちゃんとした除霊のステップを挟めば——顧客の安心感は跳ね上がる。
今までは効いているのかどうかわからない出張お祓いサービスを使っていたが、目の前の男はどうせ根無し草だ。安く雇ったってばれやしない。
にやりと栄は笑った。
「お前、俺に協力しろ」
「は?」
男が怪訝そうな顔をする。
「いいか、俺が扱うのは事故物件だ。地縛霊だかなんだか知らんがな。そういうのが出たりして部屋を占拠することがある。死人は家賃を払わない。さっさと退去してもらわないと、こっちは困るんだよ。それをお前が祓う。で、俺は物件をきれいにして貸す。物件の相場に合わせて、お前に報酬を払う。どうだ、悪い話じゃないと思うんだが」
「早い話、俺を雇うってこと?」
「そういうこと。ついでだ。お前事故物件に住め。光熱費は出してやる」
「うわ。それ事故物件の告知義務ロンダリングってやつ? 最悪やんか」
心理的瑕疵物件——事故物件の『告知義務』。
その物件で事件や自殺があった場合、入居者に必ず知らせなければならない。だが、誰かがその物件に一度でも住めば、その義務は消滅する——というのが業界の暗黙の了解だ。履歴をきれいにしてしまえば、あとはただのリノベ物件として高く貸せる。
「屋根あんだから文句言うな。まだ今の時期は夜寒いぞぉ」
「食費も出せよ。俺が餓死したら事故物件が増えるだろ」
「仕方ねえな」
「交渉成立だ。俺の名前は北条紫苑。しばらく世話になるよ、社長」
紫苑は眠そうな顔をしたまま、手を伸ばした。その手はガサガサで薄汚れ、爪の間には土が詰まっている。栄は一瞬眉をひそめ躊躇したが、諦めたようにその手を握り返した。
高級焼肉弁当は会議費。家賃は福利厚生費。そうだ。こいつはただの除霊師じゃない。節税対策だ。
「しっかり働けよ、北条紫苑」
「へーい」
栄はニヤリと笑い、紫苑は大きな欠伸をひとつこぼした。




