百合子の場合④
「百合子、爪切りどこだっけ?」
「百合子、昼ご飯はどうする?」
「百合子、どこに行くんだ?」
百合子、百合子、百合子……。
退職して数日。
夫は私の姿を探し、名前を呼び続けた。
まるで母親を求める幼児のように。
自分では靴下の場所さえ分からない人。
夫の声を聞くたびに、耳鳴りがしてこめかみの辺りがズキズキと痛む。
これが夫源病というものかもしれない。
唯一、一人になれる場所、トイレで小さく息を吐く。
黙々と仕事だけしてればいいのに。
それ以外、取り柄もないくせに。
夫に対する不満がジワジワと増幅していく。
黒い感情に飲み込まれる。
私は私の生活を守りたいだけなのに。
それがどうしてこんなに難しいのだろう。
平日の昼下がり。
本当なら駅裏のカフェでキャラメルラテを飲んでるはずなのに。
リビングソファ、右端でハーブティーを飲みながら、つまらないワイドショーに視線を向ける。
夫は定位置、窓際の一人掛けソファでいつまでも読み終わりそうにないミステリー小説を読み進めている。
ここ以外の場所で過ごしたいけれど、私の姿が数分見えなくなっただけで「百合子?」と探し始めるから、最初から諦めて彼の視界に入る場所で過ごすことにした。
今の私は、不本意で、不自由で、不幸。
「前山さん、まだ50代なんですね。それはお辛いことですね」
ワイドショーでは、元野球選手で芸能活動もしていた前山というタレントが脳梗塞で倒れたニュースを取り上げていた。
「やはり、脳梗塞予防に大切なのは、塩分控えめの食事、6時間以上の睡眠、適度な運動、飲酒やタバコを控えること、ですね」
大きく頷きながら、フリップの太文字部分を指差す、若作りし過ぎの司会者。
塩分控えめ、ねーと上の空で、内容を把握しながら、ジワジワと霧のように不穏な考えが頭を占めていく。
塩分、睡眠、飲酒……。
規則正しい生活。
「百合子」
夫の声で、立ち込めていた霧が一気に晴れ、現実を見る。
「コーヒー、おかわり」とカップをこちらに突き出す男。
ああ、この人から、私の平穏を守りたい。
静かに決意しながら、彼からカップを受け取り、キッチンに向かった。




