百合子の場合①
「え?」
思わず聞き返す。
想像もしていないセリフだったから、衝撃的過ぎて脳内に止まらずに消え去ってしまったから。
「うん、だからさ、来月末で早期退職しようと思う」
一人がけソファで、ミステリー小説の表紙を眺めていた夫が、もう一度同じセリフを口にした。
「早期退職?」
「うん、55で退職すると退職金の上乗せが37パーセントなんだ」
「……」
それが、どうした?
まだ状況が理解出来なくて、強烈な眩暈を感じるし、足元がグラグラと揺れる。
立っていることが不安定になって、食卓椅子に慌てて腰掛けた。
「再雇用まで働くって言ってなかった?」
「そのつもりだったんだけど、退職金が多めに貰えるなら、今辞めて暫くゆっくりしてもいいかなと思ってさ」
そんな大事なことをなぜ一人で勝手に決めてしまったの?
なぜ、なぜ?
動悸までし始めたから、前屈みになり心臓部辺りを押さえた。
「お前と旅行でも行こうかとも考えてるんだ」
「そう……」
二人で旅行?
冗談じゃない。
誰が行きたいと言った?
勝手に決めないで。
怒りで全身が震えだす。
ダメだ。冷静に受け答えすることが出来そうにない。
「ごめん、牛乳買い忘れたから、ちょっと出てくる」
「そうか」
夫は私の様子に気を止めることもせず、読みかけのミステリー小説に視線を落とした。
スマホと財布だけ持ち、サンダルに慌てて足を突っ込んで玄関ドアを開けた。
玄関前の階段をもつれる足で駆け降りて、フーと大きく息を吐く。
早期退職……。
夫が発した言葉を脳内で繰り返す。
ゆっくりと咀嚼するように。
なぜ、そんな選択を。
悔しくて、悲しくて、気持ち悪くて、吐き気がする。
この腹の底から、せり上がってくる感情は何だろう。
ああ、きっと、嫌悪感だ。
夫とのこれからの生活を思うと、寒気がするほど気が滅入る。
ずっと二人で、二人きりで。
朝も、昼も、夜も過ごすのか……。
死刑を宣告された被告のような心情で、重たい足を何とか交互に前に出し、近くのスーパーへと向かった。




