ep.1-1 【異国での出会い】2館券1枚で
いよいよ、湊の旅が始まります。
そして新たな登場人物も加わります。早速ご覧ください!
向かう途中、地図上で北野坂と称されたその道を歩いていると右手側、思わず立ち止まってしまうほどのインパクトを持ったビルに出くわした。
向かい合ってそびえ立つ、2体の象の石像。地図で現在地と照らし合わせるとなるほど、その名は「象ビルヂング」。
湊の足を止めたのはその象たちの迫力であったが、足を止めてみて初めて、もうひとつ気になるものをこのビルに見つけた。
思わず湊はスマホの左上に表示されたデジタル時計を見た。
時刻は13時51分ー本来アナログ時計では短針が限りなく2に近い1、長針が10あたりを示してるはずだった。
「進んでる?遅れてる…?」
ビルの時計は、5時46分を示していた。アナログだからそれが午前を示してるのか午後を示しているのかはわからなかったが、本来の時刻とは全く異なる数字を指しているのは確かだった。
その時刻が何を示しているのか、平成二桁世代の湊には見当もつかなかった。気づけばとっくにレコーディングが始まるはずの時間で、マネージャーからの着信履歴が何件も残っている。時計の時刻より、目の前の現実を痛感して後悔と背徳感に気持ちがざわついただけだった。
先を急ぐと、いよいよ街並みが変わってきた気がした。
いくらか階段を上がり、石のタイルが敷き詰められた坂道を登る。そしてまたさらに階段を上がっていくと、その光景は広がっていた。
この地、神戸北野異人館街の象徴のひとつとも言える「風見鶏の館」だ。
目の前にすると、写真で見るよりずっと大きかった。旧トーマス邸宅というくらいだから、湊が生まれるずっと昔はここに家族が住んでいたはずで、その当時の暮らしぶりはいわゆる一般家庭で育った湊には想像もつかない。
暫し圧倒されその場に立ち尽くしていたが、ここまで来たのだから中へ入らない手はないと、再び歩みを進めた。
「2館券1枚で」
チケット売り場で券を買う際、湊は己の喉が出せる最大限に低い声でそう言った。
湊にとって外見の変装は全くもって不要だが、声だけは別だ。普段メディアに載せる声とは異なる声色にすることが、湊にとってはある意味で変装だった。
玄関を抜け、館の中へ入った。
そういえばカレンダー上でいえば今日は休日で、ある程度の人々で1階のホールは賑わっていた。
もちろん湊には目もくれず、人々はその明治から受け継がれた建物の細部にまで注目して魅入っていた。
言わずもがな湊もその1人であった。木造の大きな扉や柱、ひと部屋ひと部屋異なる華やかな壁紙、そのほか様々な調度品に、見ていて心躍った。ひと部屋ずつに役割が与えられているのも興味深く、応接間や子供部屋といった用途に留まらず「朝食の間」まであるとは驚いたものである。朝食と夕食を別の部屋で食べようなんて湊には1度として考えついたことはない。
1階と2階を十二分に堪能し、全てを回り切った頃には少しだけここで暮らしていた彼らの生活を想像できるようになった気がした。あくまで湊の中での想像だから、実際にそうだったかは湊にとって重要でない。
勢いで2館共通の券を買ってしまったから、隣接したもうひとつの館にも足を運んだ。
淡い緑色の外壁が特徴的な「萌黄の館」だ。
こちらは何とも家らしいというか、湊にとっては豪邸に間違いないのだが、風見鶏の館よりさらに生活感を感じる造りだった。
中に入ると、さらに目に優しい深く落ち着いた緑色の壁。木造の大きな階段が美しい。
どうやらこの館は、よくロケ地としても使用されているようだ。著名人のサインがいくつか飾られている。一般人のような装いでそのサインの数々を眺めていたが、ふと目に入ったその名に思わず声が出そうになった。
萌黄の館さまへ 春日 メアリー
春日メアリー、彼女は湊にとって血の繋がった実の姉ーあの文武両道容姿端麗な屋島家自慢の御長女様だ。春日という苗字は芸名で、実際は下の名前にも漢字が充てられている。
本名は屋島 芽亜莉、彼が小さい頃から決して越えることのできない高き壁である。
芽亜莉も、この空間に来たことがあるらしい。
彼女は大手アイドルグループのオーディション番組で1位通過し華々しく芸能界デビューを果たすと、そのグループのセンターを務めるなど大きくグループに貢献した。そして若くしてアイドルを卒業すると、女優へと転身した。今では5本の指にも入るほど有名な人気若手女優の1人だ。分野は違えどやっぱり敵わない、そんな存在である。
このスペースは撮影不可というから芽亜莉に直接伝えることは叶わないが、きっとこうして大事に飾られていることを知れば彼女もきっと喜ぶだろう。他者からの承認欲求は比較的あるタイプだから。でないと一流のアイドルも女優も務まらない。
姉弟のよしみで一応彼女が出演した作品はどれも目を通してきたはずだが、果たしてどの作品だっただろうか。脳内で検索をかけるが、なかなか思い浮かばない。
「もしかして、春日メアリーのファン?」
ふと隣りから声を掛けられた。
たしかにこれだけサインを凝視していれば、そうとも捉えられるだろう。まさか実の弟です、なんて極秘情報を伝えられるわけもなく「まあ。ドラマを何本か見た程度ですけど」とギリギリ嘘ではない事実を並べておく。
話しかけてきたのは、湊と同じくらいの年頃の男性だった。
「やっぱり!俺もそう」
同じ穴の狢というやつだろうか。正確に言うと湊は彼女とファンという一言で片付けられる関係でないが。
経験則から実は芽亜莉のファンにはあまり良い印象がなかったが、彼はどうやら違った。
「君もメアリーのロケ地巡り?」
そう訊かれて、たしかにそのように捉えられても不思議ではないのかと思ったりした。斯く言う彼も、その言い回しはきっとロケ地巡りの一環でこの地に訪れたことだろう。
「サインが飾られてるのは今ここで見て初めて知った。俺はその…異国を感じたくて」
正直に事実を伝えると、彼は一瞬時が止まったような顔をしていたが、すぐに表情をぱっと明るくさせる。
「たしかに、手頃に異国を感じようと思ったら異人館街はぴったりか!そっかそっか、身近すぎてその考えには至らなかった」
彼はここから数駅離れた場所に住んでいるらしく、この異人館街には何度も足を運んできたという。俺にとっては全てが新鮮な景色であったが、彼にとっては見慣れた景色。見慣れているからこそ、落ち着く景色なのかもしれない。
このあたりが住まいということは、関西で暮らしているわけだが、彼の言葉には神戸弁特有の言い回しも訛りもなかった。綺麗な標準語だ、羨ましいくらい。
湊も生まれも育ちも京都であるが、普段使う言葉に京を感じさせる要素は極端に少ない。これは顔出しせずに歌手活動をするうえで徹底してることともいえるが、湊は出身も活動拠点も全て公に明かしていないから言葉のイントネーションで地域がばれてしまうことを避けて敢えて標準語を使うようにしている。8年も活動していれば私生活でもその癖は抜けなくなるもので、普段から京都の訛りが出ることは極端に少ない。
彼に標準語であることを指摘すれば、必然的に湊も先程の説明をしなければいけなくなる。そうなれば色々と不都合が生まれてしまうため、湊は気づかないふりをすることにした。
「他の部屋もおもしろいよ、見に行こう」
どうやら彼も1人で来ているようで、湊のことを案内してくれるらしい。
「風見鶏の館も好きだけど、俺はこの萌黄の館が好きなんだよね」
暮らせるものならここで暮らしたいくらいだ、それほどの熱量で彼は各部屋を解説してくれた。
リビング、子供部屋、応接間、どの部屋も壁紙が花柄で豪華とかそういうことはないけど、淡く愛らしい各色に包まれたその部屋たちには生活感が染み込んでいた。
「こんなところも見せてくれるんだ」
特に印象的だったのは、バスルームだった。
トイレとバスが収まった一部屋。湊なら、実家に友だちが遊びに来ても用でもない限り進んで自ら見せたいとは思わない。表現が合っているかわからないが、ある種の神域のような空間という認識だった。お金を払ってバスルームを覗く時間、悪くない。
「よかった、混んでないみたい」
案内役の彼がほっとしていたのは、おそらくその先に貼ってあった注意書きの内容を読まずとも知っているからだろう。
安全性を考慮して、2階のベランダは一度に入れる人数が制限されているらしい。運良く今は湊たちだけの貸切状態である。
大きな窓で囲われているから外の空気に直接触れることはないが、なんだか開放的な気分だった。視界いっぱいに広がった神戸の街並みがそうさせるのだろうか。
「たしかに好きかも、この家」
気づいたら、湊もこの空間に愛着を持ち始めていた。そして同じ家に魅力を感じている彼とは感性が合うんだろうとも思った。
「ところで、聞き忘れていたんだけど」
湊は彼の名前を知らなかった。これほど親切にしてくれたのに、自らも名乗っていない。
「そういえばお互い自己紹介まだだったね。俺は生田 海都、この春から大学2年生。よろしくね」
海都は、気さくに片手を差し出してくれる。
名乗ってくれたからには湊も自己紹介しないわけにはいかない。屋島湊という名と京都から来たことを明かすと、海都はいくらか驚いていた。やはり関西弁を発さない平坦な口調が、湊を京都より東の人間へと演出していたらしい。
「そしたらもしかして、メアリーと同じ出身?羨ましい」
芽亜莉はたしかに、生まれも育ちも京都であることを公表している。芸能界デビューを機に単身で上京して長くなるため普段は標準語がほとんどだが、時々不意に関西弁が出てしまい一部ファンを虜にさせて離さなくさせたりしている。もちろんそれが計算のうちであることも、実弟である湊にはお見通しだ。
細かなニュアンスは違うが、兵庫の言葉とも通ずるものがあるから、同じ関西地域であるこの地での撮影にも参加していたのだろうか。そう予想を立てていたが、やはりそのようだった。
「メアリーの、この家での演技も最高なんだよ?台詞回しも自然だし、さすが関西出身という感じで。関西にメアリーを産み育ててくれた御両親には感謝しないと」
間接的に我が両親に感謝を述べられたものだから思わず謙遜してしまいそうになったが、その気持ちはぐっとおさえて「それは見ないとな」と当たり障りのない相槌を打っておいた。
湊も、芽亜莉には何度目かわからない感謝を密かにしていた。海都のような親切で純粋無垢な青年を虜にしてくれたおかげで、湊はこうして楽しい旅のひとときを送れている。1人ぼっちでは味わえなかった喜びだ。
「さて、そろそろ先に向かおうか」
話し込んでいるうちに、少しずつこの空間も混み合い始めていた。この場は新たにやってきた観光の方々に譲って、湊たちは階段を降りて外に出た。
角度的にベランダからは見えなかったが、心地のよい大きさの庭も敷地内にあるようだった。
「大きな実」
庭の木には、大きな柑橘系の実がなっていた。そばには小さく細い木も植えられている。桜だろうか。
洋館の庭だが灯篭も置かれていたりして、ここだけはどこか日本の庭園を思わせる風情を持っていた。少しだけほっとした。湊も和の心は持ち合わせているらしい。
「これ、何?」
ふと振り返ると、庭にあるには不自然な大きく聳え立つものが目に入ってきた。
「煙突。あの屋根から落ちてきたんだ」
思わず湊は、遙か上にある深緑色の屋根を見上げた。今はこの地面に突き刺さったものと同じ煙突が凛々しくそこに鎮座しているが、かつては目の前にあるこの煙突がその役を一身に引き受けていたのだろう。
神戸という地に、明治の時代からずっと在り続けているのだ。その被害を受けていないわけがなかった。
海都が答えを言葉にすることはなかった。その表情を見て、湊は何と声を掛けたらいいかわからなかった。
「まだ時間ある?他の場所も見て回ろうよ」
海都は、ぱっと表情を明るくして湊に提案した。
時間があるかと訊かれたら、そもそも本来ここに来ることさえ許されてはいなかったというのが事実なのだが、もちろんその提案には乗った。
何人もの大人の顔を浮かべて脳内で平謝りしながら、湊は彼の背中を追って再び石畳の街へと繰り出した。
電車1本で行ける異国の地とは、神戸北野異人館街のことでした。
そして今回湊が赴いたのは風見鶏の館、萌黄の館。実際にこの2つの館は2館セットの入場券があり、作者もその券でお邪魔させていただきました。
次回も2人は北野異人館街を歩いてまわります。
乞うご期待!




